第3話

「えーっ、自覚なかったの!?」


 カラオケボックスの、照明がやけにめまぐるしく変化する個室で、佳乃はストローでメロンソーダをかき混ぜながらからからと笑った。

 その屈託のなさに、私はテーブルに突っ伏したまま、呻くような声を漏らす。


「……佳乃の方が本人の私より先に知ってたなんて、うそでしょ」

「うそじゃないって。光凛、レイくんのことになると、すっごい分かりやすいもん」


 学校祭が終わり、後夜祭での衝撃的な告白目撃事件から数日。

 私は普通にしていたつもりだったけど、明らかに様子がおかしかった……らしい。

 佳乃に「あんた、絶対なんかあったでしょ。吐くまで帰さないからね」と腕を引かれ、気づけばここに連行されていたのだ。

 こんなことでもなければ、レイへの気持ちを自覚した、なんてこと、誰にも言うつもりはなかった。

 墓場まで持っていく覚悟だった。

 のに。

 佳乃の鋭い尋問に、私はあっけなく白旗を揚げてしまった。

 いわゆる、ゲロってしまった、というやつだ。

 そして、話しているあいだも、どんな反応をされるか、どんな顔をされるかと、内心びくびくしていたけれど。

 佳乃のあまりにもあっさりとした反応に、私は拍子抜けして、なんだか泣きたいような、笑いたいような、複雑な気持ちになった。


「え、佳乃は……いつから、気づいてたの?」

「いつからって……結構最初から?」

「さ、最初!?」

「そりゃあねえ。あのレイくんレベルのイケメンと、一つ屋根の下で、血も繋がってなくて、なんて状況でしょ? 意識しない方が無理だって」


 さらりと言ってのける佳乃に、私の心臓がどきりと跳ねる。


「え、それって……ま、まさか佳乃まで、レイのこと……!?」

「あはは、それはない!」


 大きな口を開け、心底おかしそうに笑う佳乃を見てほっとした。

 さすがにそんなことはないか、と、胸をなでおろす。

 と、そんな私にびしっと指をさして佳乃が言う。

「それそれ、そういうの! 光凛、わかりやすすぎなんだって。レイくんが他の女の子と話してるだけで、口とんがらかしてたし」

「そ、そんなこと……」


 ……あった、かもしれない。

 というか、絶対にあった。

 返す言葉もなくて、私はメロンソーダをごくりと飲み込んだ。

 炭酸が、しゅわしゅわと喉を刺激する。


「で? あの後輩ちゃん――彩葉ちゃん、だっけ? その子とレイくん、結局どうなったわけ?」

「……それが、よくわかんない」


 佳乃の問いに、私は力なく首を振った。


「見た感じは、普通。前と何も変わらないように見える。でも、気まずそうにしてるわけでもないから……うまくいったのかな、とか……かといって、じろじろ見るわけにもいかないし……」

「ふぅん」


 佳乃は、それ以上は深追いせず、リモコンを手に取った。


「まあ、なるようになるっしょ。それより光凛、あんた、本当に進学しないの?」


 不意に、話ががらりと変わる。私は、一瞬きょとんとした後、こくりと頷いた。


「うん。もう決めた」


 その言葉を口にした時、自分の表情が、少しだけ晴れやかになったのが自分でもわかった。

 レイのことで悩んで、沈んでばかりの毎日の中で、それだけは、私が私自身の意思で決めた、確かな光だった。


「そっか。決めたんだ」

「うん」

「じゃ、これはいい発声練習がわりになるね!」


 佳乃はそう言うと、アップテンポなアイドルの曲を予約し、私にマイクを突き出した。


「はい、歌った歌った! 悩みなんて吹き飛ばせー!」

「もー、発声練習は必要だけど、歌とはちょっと違うんだってば」


 私は苦笑しながらも、マイクを受け取った。

 そうだ。

 私には夢がある。

 星の輝きを、たくさんの人に届ける、という夢が。

 いつまでも、うじうじしてはいられない――。

 そう自分に言い聞かせながら、私は精一杯の笑顔で、流れ始めたイントロに合わせて手拍子を打った。


 *


『家族』という便利な言葉の魔法が解けてしまった今、いつもの朝の風景は、気まずい地雷原に変わってしまった。


「……おはよ」

「ん、おはよ」


 テーブルの向かい側に座るレイの顔を、まともに見ることができない。

 彼が牛乳を飲む喉の動き一つ、トーストを齧る指先の形一つに、いちいち心臓が騒いでしまう。

 後夜祭での、彩葉ちゃんの告白。

 そのことについて、レイは何も言ってこない。

 彩葉ちゃんからも、何の報告もない。

 それが、余計に私の心をざわつかせた。

 うまくいったのなら、姉である私に、報告くらいしてくれてもいいじゃないか。

 そして、うまくいかなかったのなら二人は気まずい雰囲気になるはずだけれど、それもないから、きっとうまくいったに違いない。

 なのに……どちらからも、何もないなんて。

 そう思うと、今の平穏はなんだか嵐の前の静けさみたいで、息が詰まりそうだった。


「……光凛ちゃん、もう出られる?」


 そんなこと確認しなくたって、毎朝一緒に行くのが当たり前だった高校。

 でも、不穏な様子を察知してなのか、今日に限ってレイはそう私に聞いてきた。


「待たなくていいから、先に行きなよ」


 突き放すような、冷たい言い方。

 自分でも、なんて可愛げのないことを言っているんだろう、と思う。

 でも、そうでもしないと、平静を保てなかった。


 レイが、少しだけ傷ついたような顔をしたのが、視界の端に映った。

 その表情に、私の胸がちくりと痛む。

 ごめん、そんな顔をさせたいわけじゃないのに――。


 その時だった。

 ガシャーン!

 背後の食器棚から、何かが割れる鋭い音が響いた。


「きゃっ、なにかしら?」


 お母さんが慌てて食器棚の扉を開ける。

 中から、白い陶器の破片がぱらぱらとこぼれ落ちた。


「あ……」


 それは、私が小学生の時、陶芸教室で作った、いびつな星の模様が入ったお皿だった。

 あの時、私は自分の分と、隣で粘土をこねていたレイの分と、二つ作ったのだ。

『ひかりとレイのおそろいね!』と言って、お母さんに見せたら、すごく褒めてくれた。

 不格好だけど、それからずっと、お揃いで大切に使ってきた、思い出のお皿。


「あらら、割れちゃったのは光凛の方ね……。変な角度で置いてたのかしらねぇ」


 お母さんは首を傾げているけれど、そんなはずはない。

 いつも、一番奥にちゃんとしまっていたはずだ。

 ショックで立ち尽くす私に、レイが心配そうに声をかける。


「光凛ちゃん、大丈夫?」

「……大丈夫だから。早く、学校行きなよ」


 重ねて、冷たく言い放つ。

 レイのせいじゃない。

 わかってる。

 なのに、八つ当たりせずにはいられなかった。


 レイは、何かを言いたそうに唇を噛んだ後、「……ごめん」と小さく呟いて、玄関へ向かった。

 なんで、レイが謝るの。

 レイは悪くないのに。

 自己嫌悪で、胸がいっぱいになる。

 

 結局、その日のバスは、珍しく定刻通りにやってきて、定刻通りに出発していった。

 もちろん、私は間に合わなかった。

 次のバスを待ちながら、佳乃に『ごめん、ホームルーム遅刻する。先生によろしく』とLINEを送る。

 お皿は割れるし、バスには乗り遅れるし、今日は朝から最悪だ。

 大きく一つ、ため息がこぼれた。


 *


 遅れたのはなんとかホームルームだけで済み、無事に一時間目から授業を受けていると、突然、けたたましい音が校内に鳴り響いた。

 ジリリリリリリ!

 「え、火事?」

 「今日、避難訓練じゃないよね……」

 火災報知器の音にざわつく教室。

 『落ち着いて避難してください』という校内放送に従い、私たちは決められたルートでぞろぞろと体育館へ移動した。


「なになに? ガチで火事?」

「え、火元どこ」


 しばらく体育館で待機させられていると、どこからか噂を仕入れてきた佳乃が、私の隣にやってきて耳打ちした。


「ねえ、聞いた? なんでも、一年生のクラスが、理科の実験中に小火を起こしたらしいよ」

「え……」

「しかも、火元、レイくんの班だったって」


 その言葉に、血の気が引いた。


「レイは? 大丈夫なの!?」

「わかんない。なんか、保健室に行ったらしい、とは聞いたけど……」


 佳乃の言葉を最後まで聞く前に、私は駆け出していた。先生の制止の声も聞こえない。

 今はただ、レイの無事を確かめたかった。

 息を切らして保健室のドアを開けると、ベッドの縁に、レイが座っていた。

 左手には、包帯が巻かれている。


「あ、お姉さん。どうぞ」


 保健室の先生は、特にいぶかることもなく私を招き入れてくれた。


「レイ! 大丈夫なの!? 何があったのよ!」

「……大したことじゃないよ」


 レイは、ばつの悪そうな顔で、私から視線を逸らした。


「ガスバーナー、倒しちゃって。ちょっと火傷しただけ。すぐに消えたし」

「ちょっと、って……」

「考え事してて、ぼーっとしてただけ。ほんと、大丈夫だから」


 その顔に、大きな怪我はなさそうで、私は全身の力が抜けるのを感じた。

 よかった。本当によかった。

 心の底から安堵したのに、口から出たのは、またしても可愛げのない言葉だった。


「あ……あんたがぼーっとしてるなんて、珍しいじゃん。もしかして、彼女のことでも考えてた?」


 言った瞬間、しまった、と思った。

 レイは、驚いたように目を見開いて、私をじっと見つめた。

 その瞳が、何かを問いかけるように、揺れていた。


 *


 放課後、天文部の部室は、いつも通りの和やかな空気に包まれていた。

 十二月半ばにピークを迎える、ふたご座流星群。その観測会をどうするか、みんなで話し合っていた。


「今年は条件いいらしいですよ! 月明かりもないし!」

「学校の屋上から、どれくらい見えるかなあ」


 健太郎くんや他の部員たちが、楽しそうに計画を立てている。

 その輪の中で、レイと彩葉ちゃんは、ごく自然に言葉を交わしていた。

 レイの左手の包帯に、彩葉ちゃんが心配そうに視線を落としている。

 あの告白は、どうなったんだろう。

 二人がこんなに普通に話してるってことは、やっぱり、うまくいったってこと?

 なら、なんで私に何も言ってくれないの?

 姉なのに。

 彩葉ちゃんだって、事前に相談してくれたのに。

 ぐるぐる、ぐるぐる、同じ思考が頭の中を巡る。


「……ぶちょー、どうしたんすか?」


 ぼーっとしていた私に、健太郎くんが不思議そうに声をかけてきた。


「え、あ、ううん、なんでもない!」

「顔色、悪いっすよ」

「大丈夫だって」


 私は、無理やり笑顔を作ると、鞄を手に取った。


「ごめん、私、今日は先に帰るね。三年生は、進路のこともあるし……。観測会のことは、みんなに任せるよ」


 後輩たちの返事も聞かずに、私は逃げるように部室を後にした。

 もう、あの空間にいるのが、苦しかった。


 一人で歩く帰り道。

 街は、すっかりクリスマスムードに染まっていた。

 ショーウィンドウにはきらびやかなツリーが飾られ、街路樹はイルミネーションで彩られている。

 クリスマス。

 うちでは毎年、お母さんと、私と、レイと、三人でささやかなパーティーをして、プレゼントを交換するのが恒例だった。

 そうだ、そろそろプレゼント、考えなくちゃ。

 お母さんには、新しい手袋がいいかな。

 レイには……。

 そこまで考えて、はたと思考が止まる。

 今年は、レイに彼女がいるかもしれないんだ。

 私がプレゼントなんてあげたら、迷惑かも。

 そんなことしたら、彼女さんだって、嫌な気持ちになるかもしれない。

 ……だったら、あげなくても、いいんじゃないか。

 そう思うのに。

 雑貨屋の店先で、シンプルなデザインのマグカップを見つけると、「あ、これ、レイが好きそう」と思ってしまう。

 本屋で、彼の好きな作家の新刊が平積みになっているのを見て、「これ、もう読んだかな」と考えてしまう。

 結局、私の思考は、いつでもレイに繋がってしまうのだ――。

 その事実に、どうしようもなく落ち込んだ。


 *


 バイト終わり、月島さんと二人きりになったカフェで、私は来月のシフト表を提出していた。


「……へえ。ほんとに、イブもクリスマスも、両方シフト入れていいのね」


 月島さんは、私の書いた希望シフトを見て、面白がるように口の端を上げた。


「はい、いいんです。予定、ないので」

「まあ、こっちは助かるけど」


 そう言って、彼女はカウンターを布巾で拭きながら、何気ないふうに尋ねた。


「ところで最近、あんたのあのイケメンの弟、迎えに来ないね」

「……もう、来ないと思います」

「なに、ケンカでもした?」

「ケンカ、というか、私が一方的に……」


 声が、どんどん小さくなっていく。


「今までだって、ケンカくらいしたことありますけど……。でも、今回は、もう……どうしたらいいのか、わからなくて……」


 俯く私の頭の上から、月島さんの冷たい声が降ってきた。


「そんな辛気臭い顔してバイトされるのは、ごめんだわね」


 一瞬、その言葉に傷ついた。

 でも、彼女の言葉は、それで終わりじゃなかった。


「……いい、光凛。たとえ、もっとひどいことになる可能性があったとしても、話だけはしなさい」

「え……」

「相手のことを大事だと思うなら、ちゃんと、向き合って、話しなさいよ。……話せなくなってから後悔したって、もう遅いんだから」


 そう語る月島さんの目は、目の前の私ではなく、どこか遠くを見ているようだった。

 きっと、月島さんにとって大事な誰かを……何かを、思い出しているのだろう。

 彼女の言葉の重みが、ずしりと私の胸に響いた。

 

 そういえば、ここ最近は、レイとまともに口も聞いてない。

 それどころか、彼の顔をちゃんと見ることさえ、できていない。

 ちゃんと話す、か……。

 そうした方がいいのは、私にだってわかっている。

 だけど。

 自分の想いを明かすこともできないのに、一体何をどう話したらいいんだろう。

 今は、家族のふりをすることで精一杯だ。

 そんなことを考えると結局どうすることもできず、ただ時間だけが過ぎていった。


 しかしそんな時に限って、タイミングはやってくるものだ。

 数日後、学校にいる時間に、お母さんから『職場の忘年会で遅くなるから、夕飯よろしく!』とLINEが入った。

 その日に限って、私は部活もバイトもない。

 まずい。

 このままじゃ、レイと、家で二人きりになってしまう。

 慌てて佳乃に『助けて! 今日うち泊まりに来て!』と泣きついたが、『ごめん、今日は塾だわ』と無情な返信。

 ダメだ、万策尽きた……。

 重い足取りで家に帰ると、レイはもうリビングでテレビを見ていた。


「……ただいま」

「……おかえり」


 気まずい沈黙。


「母さん、今日遅いんだって。晩ごはん、どうしよっか」


 私がどうにか声を絞り出すと、レイはテレビから目を離さずに言った。


「……なんか、買いに行く?」

「……うん」


 二人で、近所のスーパーへ向かう。

 かごを持って、何を話すでもなく、ただ黙々と食材の並ぶ棚の間を歩く。

 お惣菜でも買って、手早く済ませよう。そう思っていたのに。


「……ねぇ」


 卵が並ぶ棚の前で、レイがぽつりと言った。


「俺、あれ好き。光凛ちゃんの、オムレツ」

「え……」

「久しぶりに、食べたい。……だめ?」


 そう言って、レイは今日初めて、私の顔をまっすぐに見た。

 その屈託のない瞳に、心臓が大きく跳ねる。

 ずるい。

 そんな顔で、そんなことを言われたら、断れるわけ、ないじゃない。


 私が初めて一人でオムレツを作ったのは、レイのためだった。

 小学生の時、レイが高熱を出して寝込んだ日。

 お母さんが仕事でいなくて、不安で泣きそうなレイに、何かしてあげたくて。

 冷蔵庫にあった卵を割って、フライパンと格闘して、真っ黒こげの、ぐちゃぐちゃのオムレツもどきを作った。

 ケチャップで、へたくそな笑顔を描いて。

『おいしい?』と聞く私に、熱で潤んだ瞳のレイは、『うん、おいしい』と、こくこく頷いて、全部食べてくれたのだ。

 それ以来、オムレツは、私たちの間の、ささやかで、特別なメニューだった。


 結局、私たちはオムレツの材料を買って、家に帰った。

 二人で並んでキッチンに立つなんて、いつ以来だろう。

 私が玉ねぎを刻んでいると、隣でレイがサラダ用のトマトを洗い始めた。

 とくん、とくん、と心臓がうるさい。

 嬉しいのに、切なくて、泣きそうだ。


「……目に、しみる」


 涙がこぼれそうになるのを、玉ねぎのせいにする。


「大丈夫?」


 心配そうに覗き込んでくるレイの顔が近くて、思わず顔を背けた。


「だ、大丈夫だから! そっちはもう終わったの!?」


 まただ。

 つい、ツンケンしてしまう。

 レイが、また少し傷ついた顔をした。

 

 その時だった。

 レイがトマトを切り終わって流し台の中に置いたはずの包丁が、シンクの壁をひょいと飛び越えて――。

 カラン、と音を立てて、彼の足元に落ちる。


「きゃっ!」

「うわっ」


 床に突き立った包丁を見て、レイも私も青ざめる。

 あと数センチずれていたら、レイの足の甲に突き刺さっていたかもしれない。


「だ、大丈夫!? 怪我は!?」


 慌てて駆け寄る私に、レイは「刺さってないし、大丈夫」と苦笑した。

 直前までツンケンしていたことなんて、すっかり忘れていた。

 ただ、彼が無事でよかった、と、それだけを思った。


 出来上がったオムレツを、テーブルを挟んでレイと二人で食べる。


「……ん、うまい」


 レイが、少しだけ笑った。


「やっぱり、光凛ちゃんのオムレツは世界一」

「……大袈裟」


 そう言いながらも、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。

 レイは、少し照れくさそうに、でも確かに私だけに見せるように、こっそりとウインクをした。

 その一瞬の合図に、ぎくしゃくしていた心が、ふわりと解けていくような気がした。

 少しだけ空気が和んだ気がしたそのタイミングで、レイが口を開いた。


「光凛ちゃん。大学、行かないの?」

「……うん」

「やっぱり……」


 レイは、スプーンを置いた。


「願書の締切、そろそろだろ。なのに光凛ちゃんが何も言わないから、母さん、心配してたよ」

「……」

「うちが母子家庭だから、お金のこととか気になってるのかもだけど……でも、母さん言ってた。光凛が行きたいなら、ちゃんと出してあげるって」


 その言葉に、私は首を横に振った。


「違うの。もちろん、そういう気持ちが、全くないわけじゃないけど……でも、違う」


 レイは、じっと私の目を見て、次の言葉を待ってくれている。


「私は……早く、星と関わる仕事がしたいの。大学に行く四年も、惜しいくらい。だから……月島さんのところで、卒業したら、働かせてもらうことになってる」


 初めてレイに打ち明けた、本当の気持ち。

 お母さんには、言えなかった。

 きっと、家のせいで娘に進学を諦めさせた、なんて、余計な心配をさせてしまうから。

 でも、レイは。


「……そっか。やっぱり、そうだったんだ」


 そう言うと、全てを見抜いていたかのように、優しく微笑んだ。


「光凛ちゃんらしいな。絶対、なれるよ。日本一の、プラネタリウムの解説員に」


 その言葉に、堰を切ったように、涙が溢れた。

 ああ、そうだ。

 この人は、いつもこうだ。

 私が本当に欲しい言葉を、いつだって、まっすぐに届けてくれる。


 やっぱり、好きだ。どうしようもなく、好きだ。


 胸が、温かい気持ちで満たされていく。

 月島さんの言った通りだ。

 ちゃんと話せて、よかった。

 レイと私のあいだに、久しぶりに柔らかい空気が流れる。

 今なら素直に謝れるかもしれない……と思った、その時だった。

 テーブルの上に置いてあったレイのスマートフォンが、ぶぅ、と震え、画面が明るく光った。

 ロック画面に表示された、ポップアップ通知。


『彩葉:例の件、よろしくね!』


 その一文が、私の目に飛び込んできた瞬間、温かかったはずの胸が、急速に冷えていくのを感じた。

 例の件って、何……?

 デート、とか?

 ……何よ、それ。

 さっきのウインクも、優しい言葉も、全部、何だったの。


 私は、何も言えなくなって、慌てて席を立った。


「……わ、私、洗い物するから!」


 シンクに食器を運び、蛇口を捻る。

 水の音が、ごまかしのように、部屋に響いた。

 背後で、レイがスマートフォンを手に取り、何かを打ち込んでいる気配がする。

 きっと、彩葉ちゃんに、返事をしているんだ。

 その背中が、気になって気になって、仕方なかった。

 蛇口から流れる水が、私の手だけじゃなく心までも冷たくしていった。


 * * *


 シミュレーション内の異常現象が、激化している。

 これは、対象個体『RAY』の精神状態の不安定化に起因するものと推測される。

 彼の感情の揺らぎが、世界の物理法則に直接的なノイズを発生させているのだ。


 皿の自然破損。

 小規模な発火現象。

 刃物の落下角度の不自然な偏移。

 全て、対象個体『HIKARI』が関与している場面で発生している。


 このままでは、『この世界』のデータに、予測不能な影響が及ぶ可能性がある。

 これ以上の放置は危険だ。

 私は長年蓄積したデータベースにアクセスし、少年の解析を開始した。

 対象個体『RAY』の素性を、本格的に調査する必要がある。

 あの少年は、いったいどこから来たのか。

 そして、その目的は、何なのか。

 その、調査結果いかんによっては……、

 いや、今はよそう。

 とにかく、彼の正体を突き止めることが先決だ。

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