第2話
高校生活において最大の行事である学校祭を来週に控え、校内はどこか浮き足立ったような、それでいて本番前の独特な緊張感に満ちていた。
私たちのクラスの喫茶店も、天文部のプラネタリウム『一万二千年後の夜空』も、準備は佳境を迎えている。
放課後はもちろん、昼休みまで使って、誰もが目の前の作業に没頭していた。
「光凛、お弁当食べよー」
そんな喧騒の中、佳乃の声がすぐ隣から聞こえて、私はようやく顔を上げた。
プラネタリウムのナレーション原稿を考えるのに集中しすぎて、お腹が鳴っていることにも気づかなかった。
「あ、うん。食べよっか」
私たちがいつも通り机をくっつけようとした、その時だった。
「あ、あの、光凛先輩……!」
教室の入り口から、遠慮がちな声が聞こえた。
見ると、お弁当の包みを胸に抱いた彩葉ちゃんが、少し緊張した面持ちで立っている。
「彩葉ちゃん? どうしたの、三年生の教室まで」
「えっと、その……先輩にご相談したいことが、あって……」
ちらちらと佳乃と私を交互に見ながら、彩葉ちゃんはもじもじと指を絡ませる。
その様子を察した佳乃は、にっと悪戯っぽく笑うと、私の肩をぽんと叩いた。
「じゃ、私はちょっと用事を思い出したから。光凛、また後でね!」
「え、ちょっと、佳乃!」
引き留める間もなく、彼女はひらひらと手を振って教室を出ていってしまう。
まったく、こういう時の勘の良さだけは、本当にすごいんだから。
佳乃に振られた形になった私を見て、彩葉ちゃんは心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、お友達とのお邪魔しちゃって……」
「ううん、気にしないで。それより相談って? とりあえず、ここ座って。お弁当、一緒に食べよ?」
佳乃が座るはずだった席を勧めると、彩葉ちゃんは恐縮しながらも、こくりと頷いてちょこんと腰を下ろした。
私がお弁当箱の蓋を開けると、ふわりと卵焼きの甘い香りがした。
鶏の照り焼きに、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト。
彩りとバランスの良い、いつも通りのメニュー。
「わあ、美味しそう……」
彩葉ちゃんが、きらきらした目でお弁当を覗き込んでくる。
そう言う彼女のお弁当は、タコさんウインナーや可愛いピックが刺さった、女の子らしい手の込んだものだった。
彩葉ちゃんのも美味しそう、と私は言ったけれど、その言葉は耳に入らなかったかのように、彼女は私のお弁当をまじまじと見つめ――
「……レイくんのお弁当も、これと全く同じなんですよね」
ぽつり、と言った。
「え? まあ、そりゃあね。お母さんが、朝いっぺんに二つ作ってるだけだから」
私は何の気なしに答えた。
それが当たり前の日常だったから。
でも、彩葉ちゃんにとっては、それは特別なことに聞こえるのかもしれない。
そういえば彩葉ちゃんってひとりっ子だったっけ……と、私はぼんやりと考える。
その間にも彼女は、何かを言いたそうに何度か口を開きかけては、また閉じる、を繰り返していた。
その小さな唇の動きが、決心のつかない心を映しているようだった。
「相談って、何?」
よほど言いにくいことなんだろう、と思った私は、なるべく彼女が話しやすいように、できるだけ優しく促してみる。
すると彩葉ちゃんは、一度ぎゅっと目をつぶり、それから意を決したように顔を上げた。
その頬は、ほんのりと赤く染まっている。
「あ、あのっ! レイくんって、その……か、彼女さんとか、す、好きな人とか、いるんでしょうか!?」
問いかけられた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
レイの、好きな人。
考えたこともなかった。
レイの隣に、私じゃない誰かがいる風景なんて。
「え……? い、いないと、思うけど……」
どうにかそう答えるのが精一杯だった。
心臓が、どくん、と大きく脈打つ。
これは驚きのせい?
それとも……。
「なんで、私に聞くの?」
「だ、だって、光凛先輩とレイくんのきょうだい、すっごく仲いいですし……レイくんの一番近くにいるのは、光凛先輩だから……」
ごにょごにょと俯きながら話す彩葉ちゃんの姿を見て、ようやく、点と点が繋がった。
もしかして。
もしかして、彩葉ちゃんは、レイのことが……。
確信に近い予感があったけれど、それを直接言葉にして尋ねる勇気は、なぜか私にはなかった。
私の戸惑うような視線に気づいたのか、彩葉ちゃんは観念したように、小さな声で、でもはっきりと、自ら白状してくれた。
「……私、レイくんのことが、好き、なんです」
その言葉は、小さな石ころみたいに、私の心の真ん中にぽとりと落ちた。
そして、静かだった水面に、じわじわと波紋を広げていく。
そっか、そうなんだ。
レイはかっこいいもんね。
優しくて、ちょっとミステリアスで。
彩葉ちゃんが好きになるのも、無理はない。
頭ではそう理解できるのに、心が、どうしても追いつかない。
「このこと、絶対に、内緒にしてくださいね……!」
恥ずかしそうに両手で顔を覆う彩葉ちゃんに、私は頷くことしかできなかった。
「……うん。もちろん」
口の端を無理やり引き上げて、笑みを作る。
大丈夫、ちゃんと笑えてる。
応援するよ、って、言ってあげなくちゃ。
可愛い後輩の、純粋な恋。
なのに、喉の奥に何かが詰まったみたいに、それ以上の言葉が出てこなかった。
ついさっきまでは美味しかったお弁当の卵焼きが、急に味のしない、ただの黄色い塊みたいに思えた。
*
「――で、まあ、そんなことがありまして」
夕方、バイト先のカフェのカウンターで、私は館長に昼間の出来事を話していた。
ここは、私が高校に入学した時からアルバイトをしている場所。
こぢんまりとした個人経営のプラネタリウムに併設された、隠れ家みたいなカフェだ。
星の名前がついたオリジナルブレンドのコーヒーと、手作りのチーズケーキが自慢のお店。
「ふぅん。それで、あんたはどう思ったのよ」
カップを拭きながら、館長の月島さんが低い声で尋ねる。
宝塚の男役スターがそのまま抜け出してきたみたいに、凛々しくて格好いい、私の憧れの女性。
亡くなったお父様からこのプラネタリウムを受け継いだ二代目で、口は少し悪いけれど、いつも私のことを見守ってくれる、頼れる相談相手だ。
「どう、って……可愛い後輩だし、応援してあげたいなって……」
「へー」
月島さんは、それ以上追及しては来なかった。
私が話を聞いてほしい時は聞いてくれて、そうじゃない時は黙っていてくれる、そんな人。
だから私は月島さんが好きだし、彼女の前だと落ち着いていられる。
「ところであんた、1週間バイト休むんだっけ」
「あ、はい。来週学校祭なんで……すみません」
月島さんは、謝るこっちゃない、学校祭なんて高校生ににとっちゃ一大イベントでしょ、と、ひらひらと手を降って、カウンターの中から客席側へ出てきた。
「さ、今日はもう終わり。お疲れさん」
そう言いながらカフェの照明を消して、カウンターの奥にある映写室の方を顎でしゃくる。
「来月投影する分の新しいプログラム、できたから見ていく? あんたの好きなベガが主役じゃないのは残念だけど、今のあんたが感傷に浸るには、ちょうどいいかもしれないわよ」
それは、この場所だけの、特別なご褒美だった。
「……見ます」
私はエプロンを外し、ドームへと続く小さなドアをくぐった。
客席は、わずか五十席ほど。
でも、この、星の海に抱かれるような没入感は、どんな大きなプラネタリウムにも負けない。
リクライニングシートを深く倒すと、やがて照明が落ち、月島さんのナレーションが静かに流れ始める。
『――秋の夜空は、夏や冬に比べて明るい一等星が少なく、少し寂しく感じられるかもしれません。ですが、静かに目を凝らせば、そこには壮大な神話の世界が広がっています。今宵は、秋の夜空を旅してみましょう』
作り物だけれど本物みたいな満天の星が、頭上に広がる。
夏の星空のような華やかさはないけれど、深く、澄み渡った闇が、心を落ち着かせてくれる。
ねえ、ベガ。私、どうしたらいいんだろう。
今は見えない夏の星に、心の中で、無意識に、いつものように語りかけていた。
レイくんのことが、好き。
彩葉ちゃんの声が、耳の奥でこだまする。
応援したい、その気持ちは本当だ。
でも同時に、胸の奥がずきりと痛むのも、本当の気持ち。
この痛みは……何?
そうだ。以前にも、こんな痛みを感じたことがあった。
あれは、小学校低学年の頃の夏祭り。
少し目を離した隙に、レイがいなくなってしまったのだ。
ざわめく人混みの中で、私の心臓は、氷水を浴びせられたみたいに冷たくなった。
泣きそうになるのを必死でこらえて、私は「レイ!」と叫びながら、人波をかき分けて走った。
私の弟。
私が守ってあげなくちゃいけない、たった一人の弟。
その一心だった。
そんなふうに、三十分も探しただろうか。
神社の裏手で、不安そうにしゃがみ込んでいる小さな背中を見つけた時、私は駆け寄って、その身体を力いっぱい抱きしめていた。
「よかった……!」
安堵で涙が溢れた。
あの時の気持ちは、間違いなく『姉』としてのものだったはずだ。
でも……今思うと、あれすらも、ただの姉心じゃなかったのかもしれない。
大切な、誰にも渡したくない宝物を見つけた時のような、独占欲にも似た、強い強い気持ち。
もしかしたら私は、あの頃から、ずっと……。
『――空高くを見上げれば、四つの星が描く、大きな四角形が見つかります。あれが、秋の四辺形。天馬ペガススのお腹にあたる星々です。その四辺形から、北東に連なるのが、アンドロメダ座。悲劇の王女、アンドロメダ姫の姿です』
月島さんのナレーションに合わせて、星と星が線で結ばれ、鎖に繋がれた美しい女性の姿が浮かび上がる。
海の怪物の生贄にされ、岩に繋がれた王女の物語。
私の恋も、叶わないまま、誰かの幸せの生贄になってしまうのだろうか。
そんなことを考えて、胸が苦しくなる。
『――そして、そのアンドロメダ姫の腰のあたり。よく目を凝らすと、そこには、ぼんやりと、小さな雲のような光が見えるはずです。あれが、アンドロメダ銀河。二百三十万光年の彼方から、私たちの目に届く、遥かな宇宙の光です』
二百三十万光年。
その、想像もできないほどの時間と距離を超えて、今、ここに届いている光。
私たち人間の営みなんて、星の一生に比べたら、本当ににちっぽけなものにすぎない。
……私のこの気持ちも、いつかは消えてしまう、ちっぽけなものなのかな。
ううん。
今、この瞬間、確かにここにあるこの痛みは、本物だ。
『家族』という言葉で、見ないふりをしていただけの、私の、本当の……。
星々がゆっくりと回転し、プログラムが終わる頃には、私の頬を一筋の涙が伝っていた。
*
プラネタリウムを出ると、ひんやりとした夜気が肌を撫でた。
すっかり暗くなった空に、ぽつんと月が浮かんでいる。
「光凛ちゃん」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
見ると、街灯の明かりの下に、見慣れた背の高い影が立っていた。
「……レイ? なんで」
「なんとなく。そろそろバイト終わる頃かなって」
彼はそう言うと、いつもの調子で軽く片目をつむってみせた。
そのウインクは、いつもなら私の心を軽くしてくれる、おまじないみたいなものだったのに。
今日だけは、素直に受け止められなかった。
彩葉ちゃんの潤んだ瞳が、どうしても頭をよぎってしまうから。
いつもなら、「ありがと」って素直に笑えるのに。
今日だけは、どうしてもうまく笑えなかった。
「プラネタリウム、見てたから。遅くなって、ごめん。待った?」
「別に」
短い返事。
でも、その声が優しいことを、私は知っている。
私とレイは、いつものように並んで歩き出した。
けれど今日は、いつもと違ってぎこちない沈黙が続く。
私の頭には、どうしても彩葉ちゃんの顔がちらついてしまっていた。
「……ねぇ」
「……なに?」
先に口を開いたのは、レイの方だった。
「光凛ちゃん、なんか今日変じゃない?」
「そ、そんなことないけど」
「ふーん……」
じっと、顔を覗き込まれる。
レイの視線から逃れるように、私は早足になった。
その時だった。
遠くのバス停の明かりが、ちかちかと点滅するのが見えた。
あの赤いサインは……まずい、終バスだ。
「やば、あれ!」
「うわっ、ほんとだ!」
私たちは、どちらからともなく駆け出した。
バス停までの、最後の直線。
朝みたいに、間に合うかな、間に合え、と心の中で叫ぶ。
隣を走るレイも、きっと同じことを思っているはずだ。
……けれど無情にも、バスは私たちの目の前でドアを閉め、ゆっくりと走り去っていった。
バス停の電光表示が切り替わる。
『本日終了』。
電球で形作られた文字が、くっきりと浮かび上がっている。
「……あーあ、行っちゃった」
「……だね」
二人して、ぜえぜえと肩で息をする。
間に合わなかったか……と、がっくりと肩を落とした、その瞬間だった。
ぱっ。
目の前の電光表示が、一度消えた。
そして、再び明かりが灯る。
そこに表示されていたのは、『回送』でも『本日終了』でもない、信じられない文字だった。
『到着まで あと2分』
「え……?」
「……は?」
レイと私は、顔を見合わせる。
だって、今、終バスは目の前を行ってしまったばかりだ。
臨時便?
そんなはずはない。
戸惑う私たちの前に、まるで何もなかったかのように、さっきのとは違うバスが、ヘッドライトを光らせて近づいてくる。
「……まあ、乗れるなら、いっか」
「う、うん。よかった……」
狐につままれたような気分だったけれど、とりあえず間に合ったことに安堵して、私たちはバスに乗り込んだ。
席に座って、窓の外を眺める。
レイの周りでは、時々、こういう不思議なことが起こる。
バスが待っていてくれたり、赤信号がすぐに青に変わったり。
偶然。
きっと、全部偶然。
でも、今日のこれは、さすがに……。
ふと、自分のスマートフォンの画面が目に入った。
バッテリー残量、1%。
実は、学校を出る前からずっとこの表示だった。
けれど、まだ電源は切れていない。
残り1%で、こんなに何時間ももつはずがないのに……。
小さな、でも確かな違和感が、胸の中に積み重なっていく。
家に帰ると、お母さんが心配そうに待っていてくれた。
「遅かったのね。大丈夫だった?」
「終バスに間に合って良かったよ」
レイが答える。
夕飯を食べながら、明日からの学校祭の話になった。
「楽しみね。光凛の解説、聞きに行こうかしら」
「恥ずかしいから来ないで」
「そんなこと言わないの」
お母さんが笑う。
こんな何気ない家族の会話が、今日はなんだか特別に感じられた。
その夜は、ベッドに入ってからも彩葉ちゃんの言葉が頭から離れなかった。
「私、レイくんのことが好き、なんです」
なぜあの時、あんなにも胸が痛くなったのだろう。
レイが幸せになれるなら、それでいいはずなのに。
でも……。
レイが、他の誰かのものになってしまうかもしれない。
そのことを考えると、胸が締め付けられるような気持ちになった。
なぜ、こんなにも気になるのか。
なぜ、こんなにも胸が苦しいのか。
それは、きっと……。
私は、自分にも周囲にも不都合なその答えをどうしても認めたくなくて、必死で目を反らし続けた。
それから数日、学校祭の準備は大詰めを迎えていた。
天文部の活動も大忙しだったけれど、そんなさなかでも、私はどうしてもレイと彩葉ちゃんの様子を目で追ってしまっていた。
楽しそうに話す二人を見るたびに、胸の奥がちくりと痛む。
応援したいのに、できない。
そんな自分が、嫌でたまらなかった。
そしていよいよ、学校祭当日。
十一月の空は、私たちの門出を祝うように、雲一つなく晴れ渡っていた。
私はクラスの喫茶店のウェイトレスと天文部のプラネタリウムの解説員を掛け持ちで、てんてこ舞いだった。
「いらっしゃいませー!」
「プラネタリウム、次の上映は十五分後でーす!」
忙しさが、余計なことを考える隙を与えないでいてくれるのが、唯一の救いかも……。
そんなことを考えていると、天文部の展示スペースに、妙なオーラを放つ男の人が現れた。
年齢は、五十歳前後といったところだろうか。
人の良さそうな顔で笑みを浮かべてはいるものの、どこか掴みどころのない、胡散臭い雰囲気。
「ほう、これはなかなか。手作りでここまでやるとは、大したもんだ」
男の人は、私たちが作った太陽系の模型を感心したように眺めている。
「最新情報に詳しいね、君たち。この、太陽系外縁天体の配置とか、なかなかマニアックだ」
「あ、ありがとうございます……」
私が戸惑いながら返事をすると、隣にいた健太郎くんが、興奮したように声を上げた。
「あ、あの! もしかして、月刊『モウ』に連載を持ってる、
「おっ、よく知ってるね、坊や」
健太郎くんの言葉に嬉しそうに振り返ったその人――皆神さんは、にやりと笑って名刺を取り出した。
そこには、『超常現象研究家 皆神龍平』と書かれている。
「え、うそ、あの皆神先生!? 超有名人じゃないですか!」
「へえ、そうなんだ」
私や彩葉ちゃんは知らなかったけれど、健太郎くんのようなオカルト好きには、カリスマ的な存在らしい。
その時、「おーい、飲み物買ってきたぞー」と、レイが両手にたくさんのペットボトルを抱えて戻ってきた。
「そこの自販機、当たり付きだったんだけどさ、なぜか俺が買うたびに当たりが出て。結局、部員の人数分、全部タダになった」
「え、まじで!? レイ、すげー!」
健太郎くんたちが歓声をあげる。
まただ。
レイの周りの、不思議な現象。
その時、皆神さんの存在に気づいたレイが、少しだけ目を見開いた。
「あ……皆神先生」
「ん? おや、君は……」
皆神先生は、レイに名刺を差し出す。レイは、それをどこか嬉しそうに受け取った。
「知ってる人だったの?」
「うん。本、全部読んでる」
レイが、こういう超常現象とかに興味があったなんて意外だった。
レイのことならなんでも知っていると思っていたけれど、私でも知らないことがまだあったのか。
「それにしても、なんでそんな有名人の方が、高校の天文部の展示なんて……?」
そう私が疑問を口にすると、皆神さんは、私たちのプラネタリウムのドームを見上げて、にやりと笑った。
「だってよ、面白ぇじゃねぇか。動いているのは地球の方だって誰もが知っているこの時代に、だよ? 天文学ってのは、いまだに『天が動く』のを前提に星を語る。つまり、天動説なんだよ。宇宙の真理を探究しているようで、その実、地球という一点からの観測結果にすぎない。これほど壮大でロマンチックでトンデモな学問もねぇよなぁ?」
そんな、わかったようなわからないようなことを言ったあとでひとしきり展示を見ると、皆神さんは満足そうに去っていった。
天才だけど、かなりの変わり者……というのが、後で健太郎くんから聞いた評判だった。
そんなこんなで、どのグループも無事に二日間の日程を終え、学校祭はあっという間にフィナーレの後夜祭の時間を迎えていた。
校庭の中央で、大きなキャンプファイヤーがぱちぱちと音を立てて燃えている。
みんな、楽しそう……。
炎の周りで笑ったり歌ったりする生徒たちを眺めながら、私はぼんやりと、考えるともなしに考えていた。
なんとなく輪の中に入る気持ちにはなれなくて、少し離れた場所から校庭を見ていると、ふと、なんの脈絡もなく思い出す。
「あ、そうだ。部室に忘れ物しちゃった」
クラスで使った装飾の余りを、天文部の部室に置かせてもらっていたのだった。
明日でもいいか、と一瞬思ったけれど、この喧騒から少しだけ逃れたくて、私は一人、校舎へと足を向けた。
後夜祭の賑わいが、嘘のように静かな廊下。
私たちの部室がある、理科棟の三階。
部室のドアに手をかけた……その時。
中から、人の話し声が聞こえた。
「――だから、私は、レイくんのことが、好きです!」
私の耳を震わせたのは、彩葉ちゃんの、切実な声。
――息が、止まった。
心臓が、氷水で冷やされたみたいに、きゅうっと縮こまる。
聞いちゃいけない。見ちゃいけない。
わかっているのに、足が、その場に縫い付けられたように動かない。
だめ、と思いながらも私は、ドアのすりガラスの向こうに、そっと目を凝らした。
二人の影が、映っている。
彩葉ちゃんとレイが、真正面から向かい合っている。
ああ、そっか。
学校祭の終わる今夜、勇気を振り絞ろうと、彼女は心に決めていたんだ。
それで、準備中も頑張って、レイとより仲良くなろうとしていたんだ。
それは、ここ数日の二人の様子を思い返せば、とても納得のいくことだった。
……レイは。
レイは、なんて答えるんだろう。
知りたくない。
でも、知りたい。
ぐらぐらと揺れる感情の中で、私はただ、息を殺してそこに立ち尽くすことしかできず――。
その時、校庭から、ひときわ大きな歓声が上がった。
後夜祭がクライマックスを迎えたらしい。
その音にはっと我に返った私は、弾かれたようにその場から駆け出した。
どこへ行く当てもない。
ただ、ここにいたくなかった。
階段を駆け下り、校舎の裏手まで来て、ようやく足を止める。
荒い息を繰り返す私の目に、後夜祭の炎に照らされて、ぼんやりと輝く夜空が映った。
星が、瞬いている。
胸が……痛い。
痛くて、苦しくて、張り裂けそうだ。
今までずっと、言い聞かせてきた。
レイは弟。
大切な家族。
この気持ちは、恋なんかじゃないって。
……でも、もう無理だ。
彩葉ちゃんの真剣な告白を聞いて、レイが誰かのものになってしまうかもしれない、という現実をこんなふうに突きつけられたら、自分の心に嘘をつき続けることなんてできない。
この痛みは……嫉妬だ。
レイの笑顔を独り占めしたい。
隣にいるのが、私であってほしい。
そう願ってしまう、醜い独占欲だ。
ああ、そうか。
私、レイのことが――。
家族だから、じゃない。
一人の男の子として、好きなんだ。
その自覚は、まるで流れ星みたいに、一瞬で私の心を貫いた。
あまりにも強烈な光と、熱を伴って。
キャンプファイヤーの赤い光が、涙で滲んだ視界の中で、大きく、大きく、揺らめいていた。
* * *
警告。シミュレーション世界内にて、局所的な物理法則の破綻を検知。
確率論を無視した事象が、対象個体『RAY』の周辺で頻発している。
バス停の運行データ書き換え、自動販売機における乱数生成ルーチンの異常……。
そして、スマートフォンのバッテリー残量。
リチウムイオン電池の化学反応の原則を完全に無視したエネルギー維持率。
これは、単なるバグではない。
彼女の世界に、干渉している……?
まるで、このシミュレーションの管理者(アドミニストレーター)権限を、部分的に掌握しているかのようだ。
一体何者なんだ、あの少年は――。
些細な誤差、などというレベルではない。
これは、この世界の安定性を根底から覆しかねない、危険なイレギュラーだ。
排除、すべきか……?
いや、もう少しだけ観測を続けよう。
あの存在が、私の『HIKARI』に何をもたらすのか。
それを見届けるまでは。
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