第1話

「ひーかーりー、遅刻するわよー」


 お母さんの、少しだけ音程を外したみたいに伸びやかな声が、階下から鼓膜を揺らす。

 少し甘やかしたみたいにわざと伸ばして発音する、幼稚園の頃から変わらない私の名前の呼び方。

 私の朝は、いつもこの声で始まる。


 私の名前は大橋光凛ひかり

 高校三年生で、天文部の部長をしている。

 ……といっても別に、人の上に立つのが得意なタイプ、ってわけじゃない。

 私が部長になったのだって、単に三年生が他にひとりもいないからだ。

 ただ……星を見るのが好きなのは、本当。

 特に、こと座のベガという星に憧れている。


 性格は……自分ではあまりそうは思わないけど、しっかり者に見える、らしい。

 でもそれはきっと、父親がいなくて『弟』がいる、という家族構成がそう見せているだけなんだと思う。

 現に私は、こうして朝もお母さんに起こされるまで、毎朝だらだらしているのだから。


 もう少し、あと五分だけ……。

 夢と現実の狭間で微睡みながらシーツの感触を楽しんでいると、階段を駆け上がってくる軽快な足音が聞こえてきた。


 「こら、光凛! また二度寝しようとしてるでしょ」

 「ん……」


 ガチャリと遠慮なく開けられたドアの隙間から、エプロン姿のお母さんが顔をのぞかせる。

 ショートボブを軽く揺らしながら呆れたように笑う顔は、贔屓目を外して見たとしても、高校三年生の娘がいるようには見えない。


 「もう、レイはとっくに準備できてるわよ。ただでさえバスの時間ぎりぎりなんだから」

 「だいじょーぶ。なんとかなるって」

 「その根拠のない自信はどこから来るのかしらねぇ」


 やれやれと肩をすくめて、お母さんはパタパタと階段を下りていく。

 その背中を見送りながら、私はベッドから身体を起こした。

 なんとかなる。

 その自信の根拠は、もちろん私自身の中にはない。

 それを持っているのは、階下で今朝食をとっているであろう『彼』だ。


 急いで制服に着替えて顔を洗ったところで寝癖に気づいた私は、はねた髪に水をつけて手早く撫でつけてから階段を駆け下りる。


「おっと、あと五分……!」


 リビングのドアを開けると、香ばしいトーストの匂いが鼻をくすぐった。


 「おはよ、光凛ちゃん」

 「ん、おはよ」


 私が制服のスカートを大きく揺らしながら自分の席に着くと、テーブルの向かい側から、レイが涼しげな目元を私に向ける。

 私と同じ高校の制服に身を包み、こんがりと焼けたトーストを囓りながらゆったりと挨拶してくる彼と、短く答える私。

 ――これが、いつもの私の朝の風景。


 彼は、黒川レイ。

 私より二つ年下の、『いわゆる』弟。

 血は繋がっていないけれど、物心ついた頃からずっと一緒にいる……『家族』。

 長い手足に、すっと通った鼻筋。

 黙っていればクールな印象を与えるのに、笑うと少しだけあどけなさが残る、そんな男の子。


 「光凛ちゃん、また夜更かししたでしょ。目の下にクマできてる」

 「うっさいな。昨日の夜、どうしても見たい流星群があったの」

 「どうせ雲が多くて見えなかったくせに」


 こともなげに言って、彼は牛乳をごくりと飲み干した。

 なんでわかるのよ、と少しむくれてみせるけど、レイには大抵のことがお見通しだった。

 私のことも、空のことも。


 テーブルには、お母さんが用意してくれたスクランブルエッグとサラダが並んでいる。

 三人で囲むこの朝食の風景は、もう十年以上も続く、私の日常そのものだ。


 「研究のためだ。すぐに戻る」


 そう言い残して、優しくて少し頼りなかった父親が家を出ていったのは、私がまだ五歳の頃。

 難しい科学の研究者だった、ということ以外、その人のことを私はあまりよく知らない。

 テレビボードに飾ってある写真の中では穏やかに目尻を下げて人の良さそうな笑顔を浮かべているけれど、私が思い出せるのは、そのたった一種類の顔だけだ。

 それと、わずかでおぼろげないくつかの記憶……それだけ。

 あれから十三年が経った今、その笑顔に再び会える日がいつ来るのか……いや、本当にそんな日が来るのかも、私にはもうわからなかった。


 そして、そんなお父さんとほとんど入れ替わるようにしてうちにやって来たのが、レイだった。

 お母さんの知人の子をうちで引き取ることになった、と紹介されて初めて彼と会った日、「きれいな子だなぁ」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

 三歳だった彼は、人見知りもせず、私の後ろをいつも黙ってついてきた。

 小さくて、頼りなくて、放っておけなくて。

 でも、ときどきびっくりするほど大人びたことを言って、お母さんと私を支えてくれたりもして。

 そうして十三年間、三人で一緒に暮らしてきた。

 だから、私にとってレイは、弟で、幼馴染で、大切な……家族。

 それ以上でもそれ以下でもない、かけがえのない存在だ。


 もしかすると、父親が失踪した家、なんて聞くと、普通は暗くて不幸なイメージを抱くのかもしれない。

 でも、うちにはそんな空気は微塵もなかった。

 だって、太陽みたいに明るいお母さんと、そして、レイがいたから。


 「ほら光凛、早くしないと本当にバス行っちゃうわよ!」

 「わかってるって」


 時計の針は、バス停の時刻表が示す発車時刻の一分前を指していた。

 慌ててトーストを口に詰め込み、牛乳で流し込む。


 「大丈夫だよ、母さん」


 そんな私を見て、レイがくすりと笑った。

 そして、いつものように片目をつむって、軽くウインクしてみせる。

 ……長いまつげが、ゆっくりと伏せられて、開く。

 見慣れたその一連の動作が今日はやけにスローモーションで見えて、心臓がほんの少しだけ、きゅうっと音を立てた。


 「光凛ちゃんが遅刻しそうなときは、バスもちゃんと遅れてくれるから」


 その言葉は、まるで魔法の呪文みたいだった。


 「……レイってば。そんなことばっかりしてると、女の子たちが勘違いして大変なことになるんだからね?」


 心臓の小さなざわめきを隠すように、私はわざとからかうように言った。

 実際、レイは学校でもすごくモテる。

 高校の長い廊下を歩いているだけであちこちから黄色い声が飛んでくるし、下駄箱にラブレターらしきものが入っていたのも一度や二度じゃない。


 「そんなことって?」

 「ウインク。癖でしょ?」

 「あー……」


 その時、テレビから『おはようございます、時刻は午前8時です!』というアナウンサーの元気のいい声が聞こえてきた。


 「ちょっとあんたたち、バス8時ちょうどでしょ? 急ぎなさい!」


 私たちは、慌てた様子のお母さんに背中を押されるように家を飛び出した。

 その瞬間、レイがウインクについて何か言おうとしていたなんて些細なことは、私の頭からすっかり消えていた。


 坂道を駆け下り、角を曲がると、バス停が見えてくる。

 そこには、まだ赤いランプを点滅させたバスが、ドアを開けたまま待っていた。

 まるで、私たちが来るのをわかっていたみたいに。


 「ほらね、いつも通り2分遅れ」


 先にバスに乗り込みながら、レイがいたずらっぽく振り返る。

 そして、また、片方の目をきゅっとつぶって見せた。

 そのウインクに、私の胸の奥がまた小さく疼く。


 どうしてなんだろう。

 レイが遅刻しそうな時は、バスは時間通りに行ってしまうのに。

 私が遅刻しそうな時に限って、いつもこうやってバスは待っていてくれるのだ。

 レイの言う通り、まるでバスも一緒に遅刻してくれているみたいに。

 ……でもまあ、きっとこれは、ただの偶然。

 私はそれについは特に深く考えずに、レイの隣の席に腰を下ろした。

 バスの窓から流れ込んでくる十月の風が、少しだけ火照った頬を冷ましてくれる。

 このドキドキは、バスを逃すまいと走ったから……ただそれだけ。

 その、はずだ。


 *


 「相変わらず、光凛はチャイムと友達だよねー」


 教室に滑り込むと同時に、親友の佳乃よしのがにやにやしながら声をかけてきた。

 彼女は外国のお人形さんみたいに華やかな顔立ちで、なのに性格は竹を割ったようにサバサバしている。

 私が天文部に入れたのも、入学直後に入部希望を申し出られずにまごまごしていた私を見かねた彼女がなかば強引に手を引っ張って部室まで連れていってくれたからだった。

 もっとも佳乃本人は星にはあまり興味がないらしく、一緒に入部してはくれなかったけれど。


 「うるさいな。間に合えば何分だって同じでしょ」

 「はいはい。で、今日も黒川くんと仲良く登校?」

 「まあね。家、同じだし」

 「あれで血が繋がってないとか、少女漫画の設定じゃん。しかも天文部の部長と部員って、完璧すぎ」


 佳乃は楽しそうに言って、自分の席に戻っていく。

 私は自分の席に鞄を置きながら、小さく息をついた。


 少女漫画、か。

 もし本当にそうだとしたら、私はどんな役なんだろう。

 ヒロイン?

 それとも、レイに憧れる同級生にとっての、邪魔な姉……?


 そんなことを考えていると、担任の先生が教室に入ってきた。

 ホームルームの始まりだ。


 「えー、お前らももう三年生の二学期、十月も半ばだ。浮かれてる場合じゃないぞー」


 先生は教壇に立ち、分厚いファイルでぽんぽんと机を叩いた。


 「この前配った進路希望調査の紙、締切が近いからな。四月に出してもらった時みたいに、ぼんやりした希望じゃなく、今回はもうちょい真剣に、確定情報として書いて提出するように。いいな?」


 教室に、ざわめきが広がる。

 進路。

 その言葉の重みに、みんなの表情が少しだけ硬くなったのがわかった。

 私も、もちろん例外じゃない。

 なんとなく考えていることはあるけれど、まだ誰にも話せてはいないし……。

 特にお母さんにはどんなタイミングでどう切り出せばいいのか、決めかねていた。


 なんとなく落ち着かない空気を残したまま先生が教室を出ると、佳乃がすぐに私の席にやってきた。


「はあ、進路ねぇ……」


 机に頬杖をつきながら盛大に溜め息を漏らして、人ごとのように言い放つ。


 「そんなことより、来月の学校祭の方がよっぽど重要じゃない?」

 「それ。間違いない」


 佳乃の言葉に、私は大きく頷いた。

 高校生活最後の学校祭。

 私たちのクラスは、定番だけど喫茶店をやることになっている。

 けれど男子が全然やる気がなくて準備が思うように進まず、佳乃はやきもきしているのだった。


 「佳乃が仕切れば上手くいくんじゃない?」

 「やめてよ、あたしだけが頑張ってるみたいじゃん」


 頬をぷっとふくらませる佳乃がおかしくて、つい笑ってしまう。

 そうだ、今はまだ、未来のことより目の前のことを楽しまなくちゃ。

 進路のことはしばし忘れて学校祭に全力を注げる今が、私には心地よかった。


 *


 放課後の部室は、塗料の匂いと段ボールの匂い、そしてみんなの熱気が混じり合って、独特の空気を生み出していた。

 理科棟の三階にある小さな部屋、天文部室。

 私にとっての、もうひとつの居場所。

 私たちは今、来月の学校祭で披露する、手作りのプラネタリウムの準備に追われている。

 直径五メートルほどのドームを、黒く塗った段ボールと骨組みで手作りするというのは、思った以上に大変な作業だった。


 けれど私は、このプラネタリウムは絶対に成功させたいと思っていた。

 佳乃には悪いけど、クラスの喫茶店よりも当然力が入っている。

 だって、今年のテーマは『一万二千年後の夜空』。

 一万二千年後に、歳差運動によってこと座のベガが北極星になることについての発表をするのだ。

 もちろんこのモチーフを選んだのは、私だ。


 「ぶちょー、ここの骨組み、ちょっとグラグラしません?」


 声をかけてきたのは、二年生の天堂健太郎くん。

 人懐っこい笑顔が特徴の、部のムードメーカーだ。


 「ん、ちょっと見せて。……あ、ここのネジが緩んでるね。レイ、そこのドライバー取って」

 「はいよ」


 すぐ隣で作業をしていたレイが、短い返事とともにドライバーを手渡してくれる。

 その長い指先が、ほんの少しだけ私の指に触れた。

 たったそれだけなのに、心臓がまた、とくん、と跳ねた気がした。


 「……ありがと」


 私は何でもないふりを装って、ネジを締め直した。

 なぜだろう、顔が少し熱い。

 きっと、学校祭が近くて気分が高揚しているからだ。

 そうに違いない。


 「光凛先輩、さすがです!  先輩がいると、なんでも解決しちゃいますね!」


 きらきらした瞳で私を見上げてくるのは、一年生の小田彩葉いろはちゃん。

 小動物的みたいに小柄で愛らしい、ボブカットの女の子だ。

 光凛先輩に憧れて天文部に入ったんです、と言ってくれる、可愛い後輩。


 「それにしても、光凛先輩って本当にスタイルいいですよね。背も高いし、顔も小さいし。羨ましいです」

 「あ、はは……ありがとう」


 彩葉ちゃんの真正面からの賛辞にどう反応していいかわからず、曖昧に笑うしかない。

 そんな私の様子に、レイが小さく吹き出すのが見えた。


 「何よ」

 「いや、別に。光凛ちゃん照れてて面白いなぁって」

 「照れてない!」


 ムキになって言い返しても、レイは「はいはい」と楽しそうに笑うだけだった。


 「あ、あの、レイくん」


 不意に、彩葉ちゃんが少しだけ頬を染めて、レイに声をかけた。


 「そっちの、星座の絵を描くの、手伝ってもいい?」

 「ん、ああ。じゃあ、お願い」


 レイは、ドームの内側に貼り付ける、星座の絵を描く担当だった。

 器用な彼は、黒い画用紙に、白い絵の具で一つ一つ、星の点を打ち、それを繋いで星座の形を描いていく。

 その横顔は真剣そのもので、普段家で見せるリラックスした雰囲気とはまたちょっと違った感じだった。

 よく知っているはずのレイの、見慣れない表情。

 それが珍しくて、つい彼を目の端で追ってしまう。


 「わあ、すごい……本物みたい」

 「そう?」

 「うん! レイくん、絵も上手なんだね」


 甲斐甲斐しくレイの作業を手伝いながら、彩葉ちゃんが弾んだ声をあげる。

 その光景を、私は少し離れた場所から、ただぼんやりと眺めていた。

 胸の奥が、ちくり、と痛む。

 ……なんだろう、この気持ち。

 可愛い後輩が、家族同然の弟と仲良くしているだけ。

 それは、微笑ましい光景のはずなのに。

 どうして、こんなに心がもやもやするんだろう。

 

  「……やれやれ、ブラコンか」


  小さくつぶやいて、苦笑する。

  弟の彼女を快く思わない姉の話はよく聞くけれど、まさか自分にもそんな日が来るなんて。

 そう、これは、レイのことを本当の弟だと思っているからこそ感じている気持ちなんだ。

 レイと私が家族である証しなんだ――。

 そう自分に言い聞かせるほどに、そのちくりとした痛みは、じわじわと胸の中に広がっていく気がした。


 「ぶちょー、どうかしましたか?」


 健太郎くんの屈託のない声に、はっと我に返る。


 「う、ううん、なんでもない! ちょっと、塗料の匂いに酔ったかも」


 慌てて笑顔を作って、私は作業に戻った。

 ばかみたいだ、私。

 しっかりしなくちゃ。

 私は部長なんだから。

 それに、レイは……大事な、弟なんだから。


 *


 作業が一段落して部室の片付けを終えた頃には、すっかり日は落ちていた。


 「おつかれー」

 「おつかれさまでしたー」


 後輩たちを見送り、私とレイも一緒に校舎を出る。

 黙ったまま、並んで歩く帰り道。

 けれど、沈黙が気まずいわけじゃない。

 むしろ言葉を交わさなくても隣にいるだけで満たされるような空気は、昔からずっと変わらない。


 「ねぇ、光凛ちゃん」

 「ん?」


 ふと、レイが私の歩幅に合わせて、少しだけ速度を落とした。


 「進路、どうするの」

 「……まだ、考え中」


 尋ねるレイに、私は曖昧な答えを返す。

 決意と言うには頼りない想いは、まだはっきりと口に出すのがためらわれた。


 「なんとなく、なりたいものはあるんだけどね」


 ちらほらと星が見えだした空を見上げながら、私は呟いた。

 すっかり暗くなったと思ったけど、まだ夕方の名残の藍色が少し残った夜空。


 「なれるよ、光凛ちゃんなら」


 レイがこともなげに言ったのを聞いて、私は思わず振り返った。

 その声には、何のてらいも、お世辞も含まれていない。

 ただ、事実を告げるような、静かで、確信に満ちた響きがあった。


 「……私、何になりたいかも言ってないのに」

 「それがなんだとしても、光凛ちゃんだったらまっすぐ夢に向かっていけるし、きっと叶えられる。そういう光凛ちゃん、俺が一番知ってるから」


 そう言って、私に笑顔を向けてくる。

 

 と、不意にレイが立ち止まった。

 そして、私の前に回り込むと、すっと手を伸ばしてくる。

 え、と思って身体を強張らせていると……彼の指先が、私の前髪に、そっと触れた。


 「……ペンキ、ついてる」


 そう言って、レイは私の髪についた、小さな白い点を取り除いてくれる。

 その、あまりにも近い距離に、息が止まりそうになった。

 ……彼の瞳が、すぐそこにある。

 吸い込まれそうなほど、深くて、静かな……黒。

 彼の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。

 いつも使っている、私と同じシャンプーの香り。

 それなのに、どうしてこんなに、どきどきするんだろう。


 「……っ、ありがと」


 私は、彼の腕を振り払うようにして一歩後ずさった。

 自分でも驚くほど、声が震えていた。


 「どういたしまして」


 レイは、何も気づいていないかのように、いつもの涼しい顔で微笑む。

 その笑顔が、今は少しだけ、憎らしかった。


 家までの道を、私たちはまた無言で歩いた。

 さっきまでの心地良い沈黙とは違う、少しだけぎこちない空気が、私たちの間に流れている。

 いや、もしかしたら、そう思ってるのは私の方だけなのかもしれない。


 ふと、空を見上げる。

 星が、さっきよりもずいぶんとはっきりと見えるようになっていた。

 秋の夜空は、澄んでいて星が綺麗だ。

 けれど。


 「……ベガに会えない季節って、やっぱりつまらないな」


 ぽつりと、独り言のように呟く。

 夏の大三角を形作る、こと座の一等星、ベガ。

 織姫星としても知られる、青白く輝く、私のいちばん好きな星。

 一等星の中でも特に明るくて、凛としていて、それでいてどこか儚げで。

 そんなベガに、私はただ、どうしようもなく惹かれるのだ。


 そのきっかけをくれたのは、いなくなったお父さんだった。


 あれは、お父さんが家を出ていくほんの少し前の七夕の日だった。

 五歳だった私は、幼稚園で作った笹飾りを得意げにお父さんに見せていた。

 『お父さん、見て! おりひめさまとひこぼしさま、会えるかなあ』

 『会えるさ。……でもな、光凛。あの織姫星は、本当はもっとすごい星なんだぞ』

 そう言って、お父さんは私を膝の上に乗せ、夜空を指さした。

 『あの星はな、ベガっていうんだ。そして、ずーっと未来、一万二千年後には、今の北極星の代わりに、みんなの道しるべになる、新しい北極星になるんだよ』

 『ほっきょくせい?』

 『そう。船乗りや旅人が、道に迷わないように、いつも同じ場所で光ってくれる、大事な星さ』

 一万二千年。

 それがどれくらい長い時間なのか、当時の私にはわからなかった。

 でも、なんだかすごく、かっこいいことのように思えた。


 お父さんがいなくなったあともその事実は私の心に強く残り、特にレイには何度も話して聞かせた。

 『ねえ、レイ。おりひめさまね、ほんとはもっとすごいの。一万二千年後の北極星なんだって! かっこいいでしょ?』

 まだうまく喋れなかったレイは、こくこくと頷くだけだったけれど、私の話をいつも真剣に聞いてくれた。

 『ひかりね、あのベガみたいになるの。ほっきょくせいみたいに、誰かの目印になるような、強い人になるんだ』

 そう宣言した私を、レイはキラキラした目で見上げていた。


 けれど私は本当は、レイからそんな目で見てもらえるほど強くなんかないし、しっかり者でもなかった。

 お父さんがいなくなってから初めて迎えた夏。

 私は、夜になるたびに、一人でベランダに出て、夏の夜空で一番強く輝くベガを見上げていた。

 『ねえ、ベガ』

 声に出して、話しかける。

 空に向かって話すなんて、誰かに聞かれたら、おかしい子だと思われるかもしれない。

 でも、そうせずにはいられなかった。

 『お父さん、どこに行っちゃったの? いつ帰ってくるの?』

 返事なんて、あるはずもない。

 それでも、私は語り続けた。

 『ひかり、寂しいよ。お父さん……』

 ぽろぽろと涙がこぼれて、止まらなくなる。

 そんな私の隣に、いつの間にかレイがやってきて、何も言わずに、ただ黙って、一緒に星を見上げてくれていた。


 お互いに、強いところも弱いところも、一番よく知っている。

 やっぱりレイは、大切な家族だ。


 「ベガにはまた次の夏、会えるだろ」

 「……うん。そうだね」


 そんなことは、わかってる。

 でも、今、この瞬間に会えないことが、どうしようもなく寂しい。

 それは、ベガに対してだけじゃないのかもしれない。

 いつか遠くへ行ってしまうかもしれない、この日常。

 変わってしまうかもしれない、レイとの関係。

 そんな、まだ形にならない未来への不安が、星の見えない寂しさに重なって、私の胸を締め付けていた。


 一万二千年後には、北極星になる星。

 その時、私は、ううん、人類は、この地球にまだいるのかな。

 そんなとりとめのないことを考えながら、私は夜空を見上げていた。

 隣を歩くレイの横顔を、盗み見ることさえできずに。



 * * *


 観測記録、248755。

 対象個体『HIKARI』の成長データは、極めて順調に推移している。

 感情の起伏、環境への適応、思考パターンの形成。

 全てが、私のシミュレーション通りだ。

 あの子が五歳の時に私という存在を彼女の世界から切り離したことも、結果的には自立心を促す良いトリガーとなったようだ。


 ……ただ、一つだけ、計算外の事象が発生している。


 彼女の側に常に存在する、あの少年。

 あれは誰なんだろう。

 『RAY』と名付けられた、記録にないエンティティ。


 データベースを検索しても、該当する個体は存在しない。

 私が設定したパラメータの中には、あのような存在は含まれていなかったはずだ。

 いつから、彼女の世界に紛れ込んだ?


 ……まあ、いい。

 きっとあれは、プログラムにおける、些細なバグのようなものだろう。

 おそらく、シミュレーション全体に影響を及ぼすほどの脅威ではない。

 現に、対象個体『HIKARI』の成長は、今のところ順調だ。

 しばらくは、このまま静観するとしよう。


 あのバグが、『HIKARI』のデータに、どんな影響を与えるのか。

 それを観察するのもまた、一興かもしれない。

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