第1話 無能令嬢、窮地に陥る
「あらあら? ねぇ、櫻子さま?」
「まだお掃除が終わっていないんですかぁ?」
「相変わらず仕事が遅いんですねぇ?」
我が家に仕える女中たちがにいと唇の端を吊り上げながら意地悪く嗤うさまを目にしたとき、私の胸の中に去来した感情は「ああ、またか」という諦念、その一言に尽きた。
なにせ、私はこの手の嫌がらせを毎日のように受けているのだから。
今更ショックを受けたり、ひどく狼狽したりということもありはしない。
こういうときは、変に反応して相手を刺激したらおしまいだ。
曖昧な笑みを浮かべ、ただ嵐が過ぎ去るのを待つに限るというものである。
大概の場合は、私の反応がなければつまらないと興味をなくし、くるりと踵を返してくれる。
しかし今日は、どうも虫の居所が悪かったということであるらしい。
「……何を呑気に笑ってらっしゃるんですかぁ?」
眉を吊り上げた女中のそばにその仲間の女中たちまでもが寄ってきて、私に不快げな声を浴びせかけてきた。
そして――ばしゃり。
私が掃除用に置いていた汲んだばかりの水が入った木桶を、どう考えても悪意を持って、こちら側に向かってどんと蹴倒してきたのだ。
「あらあら。ご自慢のぬばたまの
「濡れていると、漆黒の艶めきがいっそう際立って見えますわぁ!」
「ふふっ! むしろそれを見せつけることを狙って、御自ら水を被ったのではなくって?」
くすくす、とこれみよがしに嗤いながら、ようやく彼女たちも気が済んだという様子でこの場を立ち去ってくれる。
その背を見ながらほうっと小さく息を吐いた私は、結んでいた髪を一度解いて含んでしまった水を両手で絞りつつ、ちらりと周りの惨状へと視線を移したのだった。
「……あーあ。今日もまた、一からやり直しかぁ」
***
「悪鬼」――それは人に災いをもたらす、恐ろしい異形の存在のことである。
いつから、またどのようにしてこの世に現れたのかは、誰一人として知らない。
ただ気付いたときには私たちの隣にいて、本能がおもむくままに人間を貪り食らうようになっていたらしい。
人間と悪鬼は何百年にもわたり、血で血を洗う苛烈な戦いを繰り広げた。
そんな中で、やがて人間の一部に、悪鬼との戦闘に役立つ特殊な能力を発現出来る者が現れるようになった。
それが「異能」であり、異能を駆使して戦う「異能者」と呼ばれる人間の起こりであると、国の歴史書には記されているという。
今この国では、皇家を頂点として、四つの異能者家門が社会の中で圧倒的な権勢を誇っている。
「水」の異能に優れた者が多い、
「火」の異能に優れた者が多い、
「土」の異能に優れた者が多い、
「風」の異能に優れた者が多い、
その中で私こと
朱夏本家の令嬢を母に、そして朱夏の傍流でも筆頭格の家系から本家に入婿として入った令息を父に持つ娘、それが私なのだ。
両親ともに優れた異能者として知られていたこともあり、当然娘である私も将来は優れた異能者として覚醒するであろうと、生まれたときから大きな期待をかけられ続けていた。
私自身だって、いつか母のような立派な異能者になってみせるのだと、そう固く決意していた。
しかし十歳で執り行った「式神召喚の儀」が、私の運命を完全に捻じ曲げてしまったのである。
端的に言えば、私は異能者として覚醒するために必須となる「式神」を、どんなに下位のものですらもこの手で召喚することが出来なかったのだ。
異能者は「式神」と呼ばれる存在を召喚したのちに、初めて異能を使用することが出来るようになる。
逆に言えば、式神がいなければ、どんなに些細な異能であっても使うことは出来ない。
のちにどれほど優れた異能者として大成した人物だって、式神を召喚する前の幼少期には、他の一般の子どもたちと何一つ変わらない普通の人間だった。
それが式神召喚を経てようやく、特別な力を持った人間へと生まれ変わることが出来るというわけなのだ。
式神を得られなかった私がどうなったかと言えば、当然の帰結として、異能を覚醒させることが出来ずに終わった。
異能者家系においては得てして「異能が使えることこそが誇りであり、一族の人間としての存在価値だ」という意識が強いため、異能が使えない人間など人間でないとみなされがちだ。
朱夏家は殊にその傾向が強く、私の立場は坂を転げ落ちるように一気に悪化してしまった。
「無能」、「出来損ない」、「一族の恥」――そんな烙印すら押された私を、一体誰が歓迎するというのだろうか。
一日前までは「立派な跡取り」として期待の目を向けていたはずの一族の者たちは、この件で瞬時に私に背を向けてしまった。
それでも、母が生きていた頃はまだましだったのだ。
どんな逆風の中でも母はいつだって味方になってくれたし、人々の悪意から全力で守ってくれようとしていたのだから。
しかしそれからまもなくして母が早逝すると、私を擁護し強固な後ろ盾になってくれるような人物は、一族の中に誰一人としていなくなってしまったのだった。
「……そして、十八歳となった今に至る、というわけね」
呟きながら、私室……としてあてがわれている屋敷の離れの片隅にある物置部屋へと戻った私は、濡れた着物を脱いで手早く身支度を改めていく。
先程の女中たちだって私の「無能」さを当てこすって嘲笑っていたのよねと、何度目とも知れぬ嘆息を漏らしながら。
彼女たちはやたらと私の黒髪に言及していたけれど、それは異能者として覚醒した人間は髪の一房が自分の使用できる異能の属性にちなんだ色にがらりと変化するからなのだ。
ちなみに、火の異能を操る人間は「赤」。
式神召喚を終えていない幼子以外、朱夏家では一族の誰もが一房の赤い髪を持ち、それを過剰なまでに誇りとしている傾向がある。
そういえば、幼少期の私は母の赤髪に憧れて、贈り物としていただいた舶来の真紅のリボンを髪の一房に編み込んでとよく母にねだっていたなあ。
……ということは、今は特に関係のない話だからこれ以上の無駄口は慎むけれど。
とにかく、見事なまでに黒一色な私の髪色を強調することで、彼女たちは積極的に私の劣等感を煽ろうとしていたように思われた。
「でも今に始まった話じゃないのだから、こんなことが繰り返されていれば嫌でも自然と免疫がつくというものなのよね。あの人たちがどれほど私の心を傷つけようとしていたところで、これ以上傷つく心なんてもうどこにも残っていないんだからお生憎様。さっ、行きましょ」
きゅっと帯を締め上げた私は部屋を出てもう一度水を汲み直し、広い屋敷の廊下を本邸から離れに至るまできゅっきゅときれいに磨き上げていく。
ありがたいことに今度は誰にも絡まれず、自分の作業に集中出来た。
そのおかげで女中頭が作業状況の監視に来る前に、無事に掃除を終わらせることに成功したのだった。
「いかがですか?」
「……ふん。まあ、よろしいでしょう」
「さようですか。それなら……」
今日の業務はこれで終わりで良いでしょうか?
そう続けようとした言葉は、しかし女中頭の一言によってすぐに飲み込まざるを得なくなってしまった。
「
「……はい。分かり、ました」
***
朱夏虹子――彼女は血縁上、私の異母妹であることに相違ない。
初めて出会ったのは、母が亡くなってからしばらくしてのことだ。
傍系出身の私の父・
だが父の当主としての正当性を担保しているのは瑠璃子の血筋である上に、本人の能力としてもすぐに当主の役割が果たせるほど優れていたわけではなかったので、家門内の実務にしろ対外的な社交活動にしろ実質的に当主の役割をこなしていたのもまた瑠璃子自身だった。
従って、その死に伴って、今一度当主について再検討する会議の場が一族の中で設けられることになったのだ。
……本来の一族の慣例に則るならば、当主の座は本家の血筋で継承するか、あるいは一時的に本家の血筋から外れたとしても可能な限り本家の血筋に引き戻すことが求められている。
つまり血筋的には私が後継者候補筆頭になるのだが、「無能」の私が当主になるのが厳しいことは誰の目にも明らかだったので、存命の者の中で他に唯一本家の血を引く、母の妹の息子――私のいとこの
ところが、そこで大きな問題として立ち上がってきたのが、母が悪鬼との戦闘の中で命を散らすことになったという事実。
というのも朱夏家は異能を極めて重視していて、そして異能は悪鬼を倒すための力であるがゆえに、「悪鬼に殺される」という死に方は何よりも恥ずべき汚点であると伝統的に考えられていたのだ。
そこを突いた父は「一族に汚点を残した現・本家は、果たして本家としての正当性を有しているのか」などという主張をし始めた。
「……確かに、そのまま放置していては、父は当主の座を失うことになっていたのかもしれないけれどね」
しかも両親の関係性だってもともとあまり良くなかったことは子どもながらに察していたけれど、それにしても本家当主の座というものは正真正銘自分の妻だった女性をここまで貶めてでも維持したいほど魅力的なものであるのかしらと、ひどく絶望的な気分に陥ったことは記憶に新しい。
そんなふうに私がただただ呆然としている間に、父はいつの間にか一族内の議論を「現・本家に本家たる資格はなし」ということで一つにまとめきることに成功していたようだ。
結果として、朱夏の「本家」は傍系家系筆頭――つまり本家に何かがあった場合は本家を一番に継ぐ資格があるとされていた、父自身の血筋へと移り変わることになったのだった。
「その後に父がしれっと連れてきた妾が、今の父の本妻にして私の継母である
異能者家系においては能力の確実な次代への継承のためという体裁で、本妻・本夫以外に愛人を持つ例は決して珍しくはない。
とはいえ父もまさかその例に漏れず、しかも私と数ヶ月しか誕生日の変わらない妹までいるなどとは、夢にも思ってもいなかったのだけれど。
「それでも、いるものはもはやどうしようもないわ。だから、私も腹をくくることにしたのよ」
そうして私は父の新たな本妻として迎え入れられた承子と、正当なる本家当主の実娘として迎え入れられた虹子に、初めて対面することになったわけだ。
しかし、なるべく友好的に接しようとした私に対し、向けられたのは二対の凍るように冷たい眼差しであって。
……一瞬にして、鈍い私だってはっきりと理解できてしまった。
この先一生、彼女たちが私の存在を受け入れることなどありえないに違いないという現実を。
その予感は的中し、すぐに私は彼女たちに召使い扱いをされるようになった。
主が主ならば、使用人もそれに倣ってしまうものだ。
加えて当主たる父も見て見ぬふりを決め込むとなれば、私の立場が今まで以上に落ちぶれていくのはあっという間のことであった。
「失礼いたします。……虹子お嬢さま」
「お姉サマぁ、遅ぉい!」
……ほら、こんなふうに。
自室で傍系家門から献上された豪奢な舶来の椅子に座り、緩く巻いた一房の赤髪を弄びながら、氷のように冷たい視線で私を射すくめてきた令嬢こそ、私の異母妹である虹子その人に他ならない。
今日も今日とてまるで虫けらを見るような目で私を一瞥し、そしておもむろに椅子から立ち上がるやぞんざいに言い放った。
「あたし、十分後に出かけるわ。だから、お姉サマもそのつもりで随行の準備をしといて」
「……えっ?」
「なあに? あたしに口答えでもしようっていうの?」
「いいえ、そんなつもりは」
「だったら黙っていなさい」と言われてしまえばもはや、私には「はい」と頭を下げる以外の選択肢など残されてなどいない。
慌てて自室に戻り外出の支度を整えた私は、これ以上文句を言われる隙を与えないようにと、駆け足で庭を横切って虹子が出てくるはずの屋敷の正門へ先回りしようと試みることにしたのだった。
***
「あれ、櫻子。これからどこかへ出かけるのか?」
そうして庭に入った私は、そこでこの屋敷で唯一の、私と普通に言葉をかわしてくれる人にばったりと行き合うことになった。
朱夏琥珀――私の母の妹が産んだ一人息子で、本来であれば今頃朱夏本家の当主に就任していてもおかしくなかった人物だ。
本家の名をうちの父に乗っ取られた今では傍流扱いを受け、しかも両親が早逝しているという後ろ盾のなさも相まって、私と同様に一族の中では孤立状態に陥っている。
とはいえ「無能」の私と違って異能はきちんと持っているために、一族の末席くらいには名を連ねることを認められ……もとい、他の異能者たちがやりたがらない仕事を雑多に押し付けられているようだった。
「うん。虹子お嬢さまの外出に随行するよう命じられちゃったから、少し出かけてくるわ」
そう言うと、彼は眉をひそめ、「お前、また
「大丈夫なのか? だってあの女、今日は新しく召喚した式神の力を試しに行くって言っているのを聞いたぞ!? それってつまりは悪鬼がいるところに行くつもりなわけで、そんな場所に異能の使えないお前を連れて行こうだなんてどう考えても正気の沙汰じゃあねえからな!?」
……うん。あれだけぞんざいに扱われた後だと、人の心の温かさというものというものがいっそう心に沁みるものなのね。
「まあ、これまでも色々あったけど、なんだかんだ結局は無事に生き残ってこられたんだから、今日だってきっと大丈夫なんじゃないの? いくら嫌っていても、まさか命まで奪うつもりはないと思うし」
あまり心配をかけないようにとへらりと笑いながらそう応じた私に対し、琥珀はぐっと唇を噛み締めた後に思わずと言った様子で口を開いたのだった。
「なあ。もう、こんなところからは逃げちゃわないか?」
「……うーん」
実際のところ、そんなふうに考えたことがないわけではないし、いずれは……という気持ちもあることもまた事実なんだよね。
母が最後まで私にくれようとしていた後継者の地位を取り戻したいとか、あるいは「無能」を排斥する朱夏の気風を変えたいだとか、そういう強い意欲や高尚な志のようなものは、昔はともかく辛酸を嘗めたこの数年を経た私の中からはすっかりと失われてしまっていたのだから。
だからこの家にそういう意味での未練は全くないのだけれど――。
「でも、今はまだ大丈夫かな」
というのも、私にはこの家に――というかもっとはっきり言えば「朱夏の娘」という地位に、まだ一つだけ心残りがあったもので。
だってこの家から出ていってしまったら、名門家の子息である彼に再会できる可能性は今以上に低くなってしまうと思ったのだ。
彼――私の初恋にして最愛の、冬陽伊織さま、その人に再びめぐりあうことが出来る可能性というものが。
無論、九歳のあの日からあまりにも周りの状況が変わってしまったことは、誰に言われずとも十分に承知している。
敵対意識の強い両家門の融和を推進していた互いの母が亡くなって、私自身も異能を持てずに一族内での地位を失ってしまって。
今や優秀な異能者として世間に名を馳せている彼と私とでは釣り合いようがないことくらい、私だって重々承知しているのだ。
……だからもう彼と結ばれたいなんて、分不相応な夢は語らないわ。
それでも、どうかもう一度だけ。
ただ一目で良いから彼の顔をもう一度見たいと願うことだけは、どうか許してほしいと思うの。
それさえ叶えば心を整理して、朱夏家とは関係のない場所でしがない一平民として生きていってみせるから。
彼は私がこの家から逃げて平民身分に落ちてしまえば、一生目にすることも叶わないであろう雲上人だ。
しかし虹子のそばに仕えていたならば、いずれ四大家門の交流会などで彼の姿をちらりと見ることくらいは出来るに違いない。
だから、それまでの間だけの辛抱よ。
その一心で私はいくら嘲笑の的になろうとも、ぐっと唇を噛んで今の立場にしがみついているというわけなのだった。
「櫻子はいつだって大丈夫って言うけれど、本当に大丈夫なときもあれば、本当は大丈夫じゃないときもあるからなあ……」
「今日は、本当に大丈夫なときの大丈夫! だから、私のことを心配している暇があったら自分のことでも心配していなさいよ!」
じゃあね、と手を振り私は屋敷の正門へ向かってぱたぱたと駆けていく。
「……頼むから、本当に頼むから、どうか無事に帰ってきてくれよ」
去り行く私の背に向かって琥珀がぼそりと呟いた言葉は、私の耳には届かず風の中に溶けて消えた。
***
「……ふうん。まあ良いわ。さっさと出発することにしましょう」
「はい、虹子お嬢さま」
……よし、虹子の機嫌を大きく損ねずに車に乗せることに成功したわよ!
琥珀と別れてから数分。
全速力で正門へと向かった私は、何とか無事に虹子よりも先回りすることに成功した。
おそらく虹子は彼女よりも遅く到着してしまったという咎で私をなじるつもりだったのだろうが、目論見が外れたので少々不機嫌そうではあった。
それでも激昂して叩かれるよりは、ずーっとずっとましだと思うから良いとするわ!
屋敷の前にはすでに車が停められており、虹子が乗り込んだことを確認してから私も同乗し、ばたんとドアを閉める。
すでに、運転手の発車準備は整っていたようだ。
車はそのまま滑らかに出発し、静かな……もとい、居心地の悪い沈黙が流れる車内の空気に耐える、修行のような時間が始まることになった。
「……で、琥珀の言っていた通りの展開を迎えるというわけね」
到着した場所は、街から少し離れた位置にある森の中であった。
車から降りるなり、虹子は自らが新たに使役したという式神を召喚した。
ぶるると嘶いたそれはあまり大きくはない馬型の下位式神で、がしがしと蹄で地面を蹴り、傍目に見ても戦闘する気満々であるように思われる。
「つまりこの子は、これから虹子とともに、悪鬼との戦闘に臨むことになるというわけね」
……そんな場所に「無能」で何の役にも立たない私をなぜわざわざ連れてきたのだろうだなんて、考えるだけ無駄なことに違いないわ。
大方ちょっと怖い目に遭わせて身の程を理解させたいとか、そういう子どもじみた嫌がらせであるという線が濃厚なのではないだろうか。
まあいずれにせよ私には、虹子に付き従い、その一挙手一投足を間近で見守ることしか出来ない。
「行くわよ」
「はい!」
だから私は式神の背に乗って移動し始めた虹子の後を、必死に小走りでついて行ったのだった。
そうしてしばらく森の中を進んでいった虹子は、がさりと茂みをかき分けて現れた黒い犬のような物体を目にした瞬間に、式神の背からぴょんと飛び降りた。
そう、あれこそが「悪鬼」。
基本的に動物の形をしていて、どこもかしこも真っ黒で、鳥肌が立つほど禍々しい気を放っている物体である。
今回は犬型のようだが、その形は一定というわけではない。
子リス程度の小型なものから、熊型など人の背丈を超えるサイズの猛獣まで。
大きさも強さもまちまちで、今回のものがそこまで大きくない犬型悪鬼なのは不幸中の幸いというところだろう。
そんなふうに私が頭の中で考えているうちに、虹子は式神とともに火を使った攻撃を仕掛け始めていた。
「〈火炎〉!」
「ぶるるっ!」
さすがは曲がりなりにも朱夏の血を引く娘というところだろうか。
虹子の手のひらから放たれた炎に触れた悪鬼はすぐに苦しみ悶え始め、そして式神にがっと食いつかれるとまるでもとから何もなかったかのように雲散霧消してしまった。
虹子と式神はそのまま目についた犬型悪鬼を何体か打ち倒し、「大した事ないわね」と余裕たっぷりに笑っている。
「……さあ、そろそろ良いでしょう。帰るわよ」
「はい、虹子お嬢さま」
そうして満足したらしい虹子が帰宅を宣言し、私も何事もなく終了したことにほっとしながらそれに頷いた瞬間――。
「おお、こんな鬱蒼とした森の中で麗しいお嬢さまと出会えるとはな」
「「……!?」」
誰もいないと思っていた木々の間から何者かの低い声が突然響いてきたために、私たち姉妹はびくりと肩をはねさせるやそろそろと、音の出どころに目を向けることになったのだ。
***
「皇太子殿下……!」
即座に喜色に満ちた声をあげたのは、虹子だった。
「……っ!」
次いで私も相手を視認し、勢いよく頭を下げる。
虹子の言葉通り、目の前にいたのは我が国の第一皇子にして皇太子であらせられる御方だ。
彼の身内――つまり皇族以外が真名を呼ぶことは不敬として許されず、そもそも対外的に名前も公表されてはいないので、一般的には「皇太子殿下」や「一の君」などと呼称されている。
恐れ多くも皇族でいらっしゃる御方を前にしている以上、普段は威張り散らしている虹子だって最大限礼節に気を払わねばならないのはもちろんのこと、名目上は一応彼女と同じ名門家の令嬢ではあっても使用人同然……いや、使用人にも及ばぬほど粗末な身なりである私はなおさらへりくだりすぎるほどへりくだらなければ機嫌を損ねてしまうのではないかと思い、深く深く頭を下げる。
「このようなところでお会いできるとは、なんと幸運なことでございましょうか。まるで、運命の糸に導かれているようですわ! あっ、申し遅れました。朱夏家の虹子、皇太子殿下にご挨拶を申し上げます!」
「ああ、虹子嬢か。お父上にはいつも世話になっているよ。それと、正式な謁見でもないからもっと気楽に接してくれても構わない。他の者も頭を上げてくれ」
「なんと、なんと! もったいなきお言葉……っ!」
夢見るようにぽうっと頬を染める虹子は、まさに恋する乙女そのものといった様子で皇太子殿下をうっとりと見つめている。
対する私は皇太子殿下の言葉に従って頭を上げた後、虹子とは別の意味で彼からしばらく目が離せなくなっていた。
というのも、この御方は紛れもなく――。
「……私の運命を捻じ曲げた、因縁の
誰よりも敬意を持たなくてはならない人であると同時に、誰よりも恨めしい人であったのだから。
***
実は、私が皇太子殿下と顔をあわせるのは、これが初めてではないのだ。
初めて出会ったのは、皇宮の宴に出席した九歳のとある春の日のこと。
つまり、皇宮の宴に仮託した伊織さまと私のお見合いの日のことで、伊織さまに出会うよりも先に、私は皇太子殿下に対面することになったのである。
と言っても、別に会いたいと思って会ったわけではないのだけれども。
「……ああ、伊織さまって、なんて素敵なのかしら!」
私は母親主導での伊織さまとの面会が正式に始まるよりも前に、彼の姿を物陰から見つめてはうっとりとしていた。
そうして、あまりにも熱中していたのが悪かったのだろうと思う。
「あっ、申し訳ございません!」
不意に、どんと誰かにぶつかってしまった。
それが他でもなく、幼き日の皇太子殿下だったのだ。
申し訳なさ以上に瞬間的に感じた「美しい皇子様だな」という、その感嘆だけで終わってくれれば素敵な思い出として記憶されただけだっただろうに。
「ふうん。見ない顔だが、悪くないな。お前、僕のものになれ」
「……えっ?」
天は、非情にも私に味方をしてくれなかった。
皇太子殿下は、どういうわけか私に目をつけたらしかった。
一瞬前まで秀麗だと思っていたその顔を意地悪そうに歪め、にいと口の端を吊り上げた皇太子殿下は、私のことを背後から抱きしめる。
そして突然のことに固まる私を抱きしめたままの状態で、これまで私が取ってきた姿勢を自分も取ることで、視線の先に何を見ていたのかを正確に理解したようであった。
その瞬間、皇太子殿下は「なるほど」と呟いて、私の耳元でそっと囁いたのだ。
「あれは、冬陽伊織だな。冬陽家といえば、『皇家の犬』と呼ばれるほど我々への忠義心が高いことで知られる家柄だ。その三男坊である彼も当然その流れを汲んでいることだろう。実際、家柄の良さのみならず、能力的にも悪くないと小耳に挟んだことがある。しかし、もしお前が僕の命令に従わないのなら、あれの栄達ももはやこれまでと思えよ」
「えっ? そ、そんな……っ!」
私のせいで、何も関わりのない、強いて言えば見られていただけの伊織さまが被害を被ることになるというの?
そんな理不尽なことはない……いや、敬愛すべき皇太子殿下がそのようなことをする御方ではないはずだと、叶うことならば信じたいと心の底から思った。
しかし、相手はこの国の頂点に立つ皇族なのだ。
望んで叶えられないことなどないのかもしれない……。
「余計なことなど考えず、僕が連絡をするまで待っているが良い」
「……承知いたしました」
それ以外に、どう答えられるというのだろうか。
皇太子殿下の姿が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けることで、この場をやり過ごすことしか私には出来なかった。
「……我らがお仕えする皇太子殿下は、どうにも移り気な御方でございます。もしかしたらこのままお忘れになる可能性も、高いのではないかと思いますよ。それを祈られるのがよろしいでしょう」
次いで皇太子殿下の後ろについて歩いていた護衛が、通り過ぎざまに私にしか聞こえない小声でそう囁いた声が風の中に溶けて消える。
見ず知らずの人ではあったが、育ち始めた恋心を人質にされ、踏みにじられたことを見て取って、私に同情したのかもしれなかった。
「……本当に、そうであってくれたら良いのにな」
いずれにせよ、今はあまりにも危険だ。
だから私はひとまず、伊織さまとの婚約話が進まないように何とか立ち回り……結局再び縁が結ばれることはないままに、今日という日を迎えることになったのだ。
***
「おお、凛々しい式神だな。虹子嬢も、悪鬼討伐をしているところか?」
思考の海に沈んでいた意識を引き上げたのは、皇太子殿下の声だった。
「ええ。新しく使役した式神との連携を確認することを兼ねて、討伐をしていたのですわ」
虹子は相変わらず嬉しそうに、皇太子殿下に答えを返している様子である。
……過去の嫌な記憶に引きずられすぎるのは、きっと良くないわ。
あの日だって、幸いにしてすぐに私の存在は忘れ去られたようで、結局それ以上皇太子殿下からの接触はなく終わったのだから。
そうね。このまま適当に二人で会話してもらって、虹子の気分が上がったまま帰路につけば、少なくとも今日は妙な言いがかりをつけられたりすることもなく安泰に過ごせそうだわ!
無理やり前向きな思考に切り替えて、私は二人のやり取りを静かに見守る。
そう。ただ大人しくしていただけなのに――。
「……っ!?」
不意に、皇太子殿下の視線がこちらに向いた。
まるであの日の記憶をなぞるように、意地悪そうな光をたたえたその眼差しが。
「……悪くないな」
どうして? ねえ、どうしてなの?
少なくとも上辺はきれいに着飾っていたあの日とは違って、ボロボロの姿でどう考えても使用人以下にしか見えないはずなのに。
「……皇太子殿下?」
自分から外れた皇太子殿下の視線の行く先をたどった虹子が、数瞬遅れて私の姿をじいっと見つめた。
「お前、僕のものにならないか?」
「っ……皇太子殿下!?」
どうして? ねえ、本当にどうしてなの?
どうしてあの日の続きをなぞるような光景が、私の目の前に広がっているというの……?
「……っ」
皇太子殿下の嫌な熱を帯びた視線と虹子の敵愾心に満ちた視線が、私の体を貫いていく。
逃げたいのに、この世界のどこにも逃げ場などない。
そんな恐怖の中で、私はただ身をすくませることしかできなかった。
次に動いたのは、虹子だった。
「皇太子殿下? あの、ご冗談はこのあたりで。我らは悪鬼討伐の途中でしたので、もしよろしければ改めてご挨拶することにしてもよろしいでしょうか?」
「……まあ、良いだろう。早く再会できることを願っているよ」
鷹揚に頷いた皇太子殿下は、最後に熱っぽい一瞥を私にくれてから、その場をさっと後にしていったのだ。
「……行くわよ」
何の感情もこもらない声で告げた虹子は、皇太子殿下と出会う前に言っていた「帰る」という言葉を翻したようで、森の奥に向けて静かに歩いていく。
「はい……」
私はそんな虹子のあとを、無言のまま必死に追いかけていった。
そうして、どのくらい歩いたのだろうか。
不意に、目の前にあった茂みががさりと大きく揺れた。
「何……?」
見れば、そこにいたのは大きな体躯の真っ黒な狼だ。
明らかに普通ではない気を放っており、これも悪鬼の一種であることは間違いないと思う。
とはいえ、幸いにしてここには異能者とその式神がいるのだから――。
「……別に、問題はないわよね?」
しかし戦闘を開始した虹子をちらりと横目で見遣り、続いてその式神へと視線を移すと、何か様子がおかしいことに気付いた。
端的に言えば、式神が悪鬼の勢いに押されているように見えたのだ。
大丈夫なのかしらと思ったのもつかの間、どういうわけか虹子の強い視線がこちらを射すくめてくる。
「ちょっと! こっちに来なさいよ! 早く!」
「は、はい!?」
これまでの生活で虹子の指示にはとにかく素早く反応することが身に染み付いていたため、私はほとんど反射的に彼女のそばに近寄った。
すると――どんっ。
「……えっ?」
次の瞬間には、私は地面の上に倒れ込んでいて。
一拍遅れて、私は自分が虹子に突き飛ばされたことに気付いたのだった。
しかも、よりにもよって悪鬼の面前、戦闘の最前線というとんでもない位置に押し出されてしまっているではないか。
「な、にを……?」
「親愛なるあたしの『無能』のお姉サマ、せめてこのくらいはあたしの役に立って頂戴ね?」
にっと口の端を吊り上げた虹子は――。
「というか、無能のくせに生意気なのよ! 皇太子殿下にちょっと気に入られてちやほやされたからって、良い気になるんじゃないわ! 身の程を知りなさい!!」
――次いで、一気に表情の抜け落ちた顔でそれだけまくしたてると、そのまま式神の背に飛び乗り、その場を立ち去っていってしまったのだ。
「え……?」
虹子の背が遠ざかっていくにつれ、唖然とするばかりだった私の頭もようやく多少なりとも動き始めてくれた。
「な、なんてことなの……!」
つまり、虹子は私に逆恨みした結果、自分が逃げる時間を稼ぐための囮という体裁で私を殺すことにしたということ……!?
その推測は間違っていなかったようで、悪鬼は私に狙いを定め、がばりと大きな口を開けたかと思えばがちがちと歯を鳴らし始めた。
「に、逃げなきゃ……!」
こんなの、どう考えてもこのままぼうっとしていたらおしまいだ。
異能者でもない私には有効な攻撃の手段がないのだから、今取れる選択肢は「とにかく逃げる」の一択しかないことは誰の目にも明らかなことであった。
しかし、恐怖心から足ががくがくと震えている上に、ここは奥深い森の中だ。
「ど、どうしよう……」
そんなふうに、思うように動けない焦りにとらわれていると――。
「助けてあげようか?」
突然、そんな声が間近から響いてきた。
「こ、皇太子殿下……」
それは、先ほど立ち去ったはずの皇太子殿下で、指先をもてあそんで何らかの異能を発動させようとしながらこちらに近づいてきたのだった。
「やれやれ、あの虹子とかいう令嬢。我が寵愛を求めるあまり、敵となりうる者を容赦なく排除しようとするとはな! 思いのほか、可愛らしいところもある女じゃないか。それでも、僕にとってはお前の方がより好ましく感じられるのだけれどね。僕のものになってくれるのならば、今の窮地からも喜んで助けてあげようと思うけど、どうする?」
……どうするって、こんな状況でそんなことを言われても。
そう言われてしまえば答えは、一つ以外にはありえないのではないだろうか。
全ては、命あっての物種だから。
生きてさえいれば、きっとまた伊織さまにお目にかかれる日も来るかもしれない。
あなたにもう一度出会うことさえ出来るのならば、この身など、どうなっても……。
思わず皇太子殿下に向けて手を差し出しかけて、しかしすぐにはっと気付いてその手を引っ込める。
……でも、本当にそれで良いのだろうか?
そんな気持ちが、私の中で急速に湧き上がってきたからだ。
理不尽に立ち向かわないだけであるならば、まだ自分を許せたかもしれない。
しかし好きでもない男に屈し、この身を汚されたとして、それでもなお堂々と私は愛する
そう考えると、私は首を縦には振れそうにないなと、ふと思ってしまったのだ。
優しいあなたは、それでも良いと言ってくれるのかもしれないけれど。
しかし、私はあなたの前に立つなら心の底から誇りを持って立っていたいと思う。
だから、瞬時に覚悟を決めたのだ。
「やめておきます。ご配慮をいただきまして、本当にありがとうございました」
「……そうか。存分に後悔すると良いさ」
私の行動に思いきり気分を害したらしい皇太子殿下は、表情を歪めると、即座にその場から立ち去った。
「よし、やれるだけやってみよう」
一生懸命に走り出してはみたものの――。
「うっ!」
おそらくは木の根につまずいてしまったのであろう。
足場の悪さも相まって、私は悪鬼とほとんど距離を取れぬままに、転倒することになってしまったのだった。
……ああ、万事休すだわ。
私は一歩、また一歩と近寄ってくる悪鬼の姿を、ただ呆然と見上げることしか出来ない。
それでなくとも転倒の衝撃で、だいぶ意識が朦朧としてきている、と、いうの、に……。
「わ、私、こんな、ふうに、死ぬの、ね……」
地面に倒れ伏し、目前に迫る悪鬼の姿を最後に、私はふつりと意識を手放してしまった。
だから、知る由もなかったのだ。
その瞬間、その場に恐ろしく強い風が吹き抜けて、悪鬼も皇太子殿下も何もかも吹き飛ばしてしまっただなんて。
そして、私の体が眩い光に包まれ、ぱっとその場から消え去ってしまっただなんてことも当然知る由もない。
しばらくして意識を取り戻した悪鬼は、きょろきょろと周りを見回した。
しかし攻撃対象がいなくなったことに気付くや、ここにいる義理はないわけで、くるりと身を翻すとすたすたと森の奥へと消えていった。
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