第9話

翌朝、私は夜が明けきるよりも前に目を覚ました。ひんやりとした空気が、私の心をきりりと引き締めてくれる。今日から、私は自分のお店の主人になるのだ。そう思うと、体の奥から力が湧いてくるようだった。


聖域である台所に立つと、私はまず、深く息を吸い込んだ。そして、昨日までの感謝の気持ちを、一つ一つ思い浮かべた。リラの優しい励まし、ラージューさんの応援、パワンプトラ様の力強い協力、そして、私の夢を後押ししてくれた、デヴァプラのすべての人々。


「ありがとう……。みんな、本当にありがとう」


私の手には、もう迷いはなかった。心を込めて、ただひたすらに、お菓子を作る。ギーを溶かし、ひよこ豆の粉を炒める。その香ばしい香りが部屋に満ちていくにつれて、私の心も、幸福な気持ちで満たされていった。


今日は、いつものラドゥに加えて、ヴァーニ様からいただいた古い本に載っていた、新しいお菓子にも挑戦することにした。それは、「バルフィ」と呼ばれる、牛乳を煮詰めて作る、素朴で優しい甘さのお菓子だった。レシピは古代の文字で書かれていたけれど、不思議と、私はその意味を直感的に理解することができた。まるで、遠い昔の菓子職人たちの心が、私に直接語りかけてくるようだった。


大きな鍋にたっぷりの牛乳を入れ、聖なる牛スラビー様への感謝を捧げながら、根気よく煮詰めていく。焦げ付かないように、木べらでゆっくりとかき混ぜ続ける。時間が経つにつれて、牛乳はとろりとしたクリーム状になり、甘いミルクの香りが台所いっぱいに広がった。


そこに、砕いたピスタチオとカルダモンを加え、砂糖で甘みを調整する。出来上がった生地を、ギーを塗ったお皿に平らに伸ばし、冷やし固める。仕上げに、銀箔をそっと飾り付けた。それは、まるで緑色の宝石が散りばめられた、雪の野原のようだった。


ラドゥとバルフィ。二種類のお菓子が出来上がった頃には、空が白み始めていた。リラが、目をこすりながら台所にやってきた。


「おはよう、アマラ……。すごい、なんて甘くていい香りなのかしら」


「おはよう、リラ。手伝ってくれるの?」


「もちろんよ! 私が、記念すべき最初のお手伝いさんだもの!」


彼女はそう言って、にっこりと笑った。私たちは二人で、出来上がったお菓子を、昨日買った蓮の葉の形をしたお皿に、一つ一つ丁寧に並べていった。黄金色のラドゥと、乳白色にピスタチオの緑が映えるバルフィ。その彩りの美しさに、私たち自身も思わずため息をついた。


「さあ、行きましょう! みんなが待っているわ!」


お菓子を乗せた大きなお盆を、慎重に二人で運び、私たちは中央市場へと向かった。


市場は、すでに朝の活気に満ち溢れていた。私たちが新しい屋台の前に着くと、どこからか噂を聞きつけたのか、近所の店主たちが「待ってたよ!」「開店おめでとう!」と、次々に声をかけてくれた。


私たちは、マンゴーイエローの美しい布を屋台に敷き、その上にお菓子を並べたお皿を配置した。朝日が、お菓子をきらきらと照らし出し、甘い香りが周囲に漂い始める。


「さあ、開店よ!」


リラのその言葉を合図に、『アムリタ・ミターイー』の最初の一日が始まった。


最初のお客さんは、向かいの八百屋の小さな男の子、ラヴィだった。彼は、屋台の前でもじもじしながら、ラドゥをじっと見つめている。


「いらっしゃい、ラヴィ。一つ、いかが?」


私が優しく声をかけると、彼はお母さんにもらった一枚のコインを、大事そうに差し出した。


「これ、ください」


「はい、どうぞ」


私は、一番きれいな形のラドゥを一つ、小さな葉っぱの器に入れて彼に手渡した。ラヴィはそれを受け取ると、その場で大きな口を開けて、ぱくりと食べた。


彼の小さな顔が、ぱっと輝いた。


「おいしい……! お日様の味がする!」


その純粋な感想に、私の心は温かくなった。


「ありがとう、ラヴィ。また来てね」


「うん!」


彼は元気よく返事をすると、お母さんの元へと走っていった。その様子を見ていた周りの人々が、どっと屋台に押し寄せてきた。


「俺にも一つくれ!」

「私は、その白いお菓子をいただこうかしら」

「なんていい香りなんだろう!」


あっという間に、屋台の前には長い列ができてしまった。


「アマラ、すごいわ! 大繁盛じゃない!」


リラが、目を輝かせながら言った。


「う、うん……! リラ、手伝ってくれる?」


「任せて!」


それから私たちは、息つく暇もないほど忙しくなった。リラがお客さんの注文を聞いてお金を受け取り、私がお菓子を包んで手渡す。その連携は、まるで舞を踊るようにスムーズだった。


「このバルフィ、なんて優しい味なんだ。故郷の母の味を思い出すよ」


長距離の荷運びで疲れた顔をしていた男性が、一口食べて、ふっと表情を和らげた。


「まあ、このラドゥを食べたら、なんだか元気が出てきたわ! これで今日の仕事も頑張れそう!」


毎日市場で花輪を売っている、働き者の女性が、力強くそう言った。


喧嘩をしていたらしい若い恋人たちが、一つのバルフィを分け合って食べ、はにかみながらお互いに微笑み合っている。


私の作ったお菓子が、人々の心に、小さな温かい光を灯していく。その光景を目の当たりにして、私は胸がいっぱいになった。これこそが、私のやりたかったことなんだ。菓子職人として、これ以上の喜びはない。


お昼を過ぎた頃、お客さんが少し途切れたタイミングで、リラが素晴らしい提案をしてくれた。


「アマラ、今よ。私が舞を披露して、もっとお客さんを呼びましょう。これは、私からの開店祝いよ」


彼女はそう言うと、屋台の前の少し開けた場所に出て、静かに目を閉じた。そして、彼女がゆっくりと腕を上げた瞬間、市場の喧騒が、嘘のように静まり返った。


リラの舞が始まった。その動きは、天女の名にふさわしく、どこまでも優雅で、美しかった。サリーの裾が風に舞い、まるで色とりどりの花が咲き乱れるようだった。彼女の舞には、見る人の心を浄化し、幸せな気持ちで満たす力がある。道行く人々は皆、足を止め、その神々しいまでの美しさに、うっとりと見入っていた。


舞が終わると、どこからともなく、割れんばかりの拍手が沸き起こった。リラが優雅にお辞儀をすると、その拍手はさらに大きくなった。


「素晴らしい舞だったわ、お嬢さん!」

「感動したよ! まるで女神様みたいだ!」


そして、リラの舞に引き寄せられた人々が、今度は私の屋台に興味を示し始めた。


「あの美しい人が舞っていたお店は、ここかい?」

「噂の菓子屋は、ここだったんだな!」


再び、屋台の前には、さっき以上の長い列ができてしまった。


「ありがとう、リラ……! あなたのおかげよ!」


「うふふ、どういたしまして。親友の門出ですもの、これくらいはさせてもらうわ」


彼女の助けもあって、用意していたお菓子は、夕方になる前には、すべて売り切れてしまった。


「申し訳ありません、今日はもう売り切れなんです」


私が最後のお客さんにそう告げると、周りからは「ええーっ!」「明日もまた来るよ!」という声が上がった。


初めての営業は、大成功のうちに幕を閉じた。私とリラは、空っぽになったお皿を見つめながら、二人で顔を見合わせて、笑い合った。


「やったわね、アマラ!」


「うん……! まだ、夢みたい」


私たちが後片付けを始めていると、地響きのような足音と共に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「アマラーーー! うまい菓子の匂いがすると思ったら、やっぱりここか!」


パワンプトラ様が、消防団の仲間を十人ほど引き連れて、やってきたのだ。


「パワンプトラ様! みなさんも!」


「おう! 開店おめでとう! で、俺たちの分のラドゥは、もちろん残ってるんだろうな?」


彼の期待に満ちた顔に、私は申し訳なく思いながら答えた。


「そ、それが……。すみません、たった今、売り切れてしまって……」


「な、なんだとーーーっ!?」


パワンプトラ様の悲痛な叫びが、市場中に響き渡った。周りにいた消防団の男たちも、がっくりと肩を落としている。その姿は、なんだかとても微笑ましくて、私とリラは思わずくすくすと笑ってしまった。


「すみません、パワンプトラ様。明日、一番に、皆さんの分を取り置きしておきますから」


「おお、本当か! 約束だぞ、アマラ! 絶対だからな!」


パワンプトラ様は、何度も念を押すと、少ししょんぼりしながらも、仲間たちと一緒に帰っていった。


そのすぐ後だった。今度は、聖なるハムサ鳥を連れた、ヴァーニ様が、穏やかな微笑みを浮かべて屋台の前に現れた。


「アマラ、開店おめでとうございます。素晴らしい賑わいでしたね。あなたの想いが、たくさんの人々に届いたようですわ」


「ヴァーニ様……! 見ていてくださったのですか?」


「ええ。あなたの作るお菓子と、リラの美しい舞が、この市場にどれほどの幸福をもたらしたか、この目でしかと見届けました。そのお店の名前も、素晴らしいですね。『アムリタ・ミターイー』。あなたの決意が、よく表れています」


ヴァーニ様にそう言っていただけて、私の心は温かい自信で満たされた。


「ありがとうございます。これもすべて、ヴァーニ様や、皆さんがお知恵と力を貸してくださったおかげです」


「いいえ、あなたの努力の賜物ですわ。これからも、その純粋な心を忘れずに、美味しいお菓子を作り続けてください。きっと、あなたの作るお菓子は、このデヴァプラの宝になるでしょう」


ヴァーニ様はそう言うと、また穏やかに微笑んで、図書館の方へと帰っていった。彼女の乗るハムサ鳥が、まるで「おめでとう」と言うように、一度だけ、クェッと鳴いた。


神様たちからの祝福を受け、私の心は喜びでいっぱいだった。片付けを終え、リラと二人で家路につく。夕焼けが、デヴァプラの街を茜色に染めていた。


「本当に、すごい一日だったわね」


「うん。でも、これからが本番よ。明日も、もっとたくさんの人を笑顔にできるように、頑張らないと」


私の言葉に、リラは力強く頷いた。


その頃、デヴァプラの中央市場で始まった、新しい菓子屋の噂は、すでに風に乗って、街中に広まりつつあった。食べた人の心を、ほんの少しだけ幸せにするという、不思議で美味しいお菓子の話。その噂は、人から人へと伝わり、やがて、遠くの寺院で静かに瞑想していた、ある神様の耳にも届くことになる。


「ほう……。アムリタの雫、か。それは、面白そうじゃな」


大きな象の顔をしたその神様は、長い鼻を揺らしながら、楽しそうに目を細めた。彼が、甘いお菓子、特にラドゥに目がないことを、デヴァプラの住民なら誰もが知っている。私の新しい挑戦が、思いがけない形で、私が最も尊敬する神様のもとへと届こうとしていた。

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