第8話
「あら、アマラちゃんじゃないか。それにリラさんも。こんな朝早くから、どうしたんだい?」
スパイス店の主人、ラージューさんが、店のシャッターを上げながら、人の良さそうな笑顔をこちらに向けた。彼の店の前には、もうすでにカルダモンやシナモンの入った麻袋が並べられ、朝の空気の中に、食欲をそそる香りが漂い始めている。
「おはようございます、ラージューさん。開店の準備ですか?」
「ああ、おはよう。市場の一日は早いからね。それで、今日は何か特別なものでも作るのかい? いつにも増して、アマラちゃんの目が輝いているように見えるが」
ラージューさんの言葉に、私は少し照れながらも、胸を張って答えた。
「はい! 私、決めたんです。この市場で、自分のお店を開こうって!」
その言葉を聞いた瞬間、ラージューさんは目を丸くし、それからすぐに、満面の笑みになった。
「おお、それは本当かい! それは素晴らしい知らせだ! 君なら、きっとデヴァプラで一番の菓子職人になれると、ずっと思っていたんだよ!」
「ありがとうございます。まだ、小さな屋台から始めるつもりですけど。それで、今日は開店の準備のために、新しいスパイスをいくつか見せていただきたくて」
「なるほど、なるほど。そういうことなら、いくらでも協力させてくれ! さあ、中に入って。今日は特別に、奥にしまってあるとっておきのサフランを見せてあげよう。カシミール地方の王族にしか卸さないと言われている、極上の品だ」
ラージューさんは、自分のことのように喜んでくれて、店の奥から、それは美しい木箱に入ったサフランを取り出してきてくれた。蓋を開けると、濃厚で華やかな香りが立ち上る。それから、彼は私が屋台で使いやすいようにと、シナモンスティックやクローブを、いつもよりたくさん袋に詰めてくれた。
「ラージューさん、こんなにたくさん……」
「いいんだよ、開店祝いだ。代金は、お店が繁盛してからでいい。君の作るお菓子が、この市場の名物になるのを、楽しみにしているよ」
その温かい言葉に、胸が熱くなった。私は何度も頭を下げてお礼を言うと、リラと一緒にラージューさんの店を後にした。
「よかったわね、アマラ。みんな、あなたのことを応援してくれているのね」
「うん……。本当に、ありがたいわ。この街の人たちの優しさに、改めて気づかされる。だからこそ、私の作るお菓子で、みんなに恩返しがしたいの」
私の決意は、さらに固くなっていた。スパイスを手に入れた私たちは、次に屋台に敷くための布を探しに、色とりどりの織物が並ぶ布地屋の通りへと向かった。軒先には、シルクやコットン、金糸で刺繍された豪華な布が、風に揺れている。
「まあ、きれい……。どれも素敵で、迷ってしまうわね」
リラが、うっとりとした表情で、一枚のサリーを指先でなぞった。
「そうね。お店の顔になるものだから、慎重に選びたいわ。明るくて、温かくて、見ただけで幸せな気持ちになれるような布がいいな」
私たちは何軒もの店を見て回り、たくさんの布を手に取った。そして、ある店の隅で、ついに理想の一枚を見つけたのだ。それは、太陽の光をたっぷりと吸い込んだような、鮮やかなマンゴーイエローのコットン生地だった。そして、その縁には、可愛らしいジャスミンの花の刺繍が、銀色の糸で丁寧に施されていた。
「これだわ……!」
「まあ、アマラ。あなたにぴったりね。あなたの作るお菓子みたいに、明るくて優しい布だわ」
リラも、その布をとても気に入ってくれたようだった。店主に値段を尋ねると、少し高価だったけれど、私は迷わずそれを買うことに決めた。この布を屋台に敷けば、きっとお客さんたちの心も明るくなるに違いない。
次に必要なのは、お菓子を並べるためのお皿だ。私たちは、素焼きの食器を売る店が並ぶ一角へと足を向けた。
「お皿は、シンプルなものがいいかしら。お菓子の色が引き立つように」
「そうね。でも、少しだけ遊び心があっても素敵じゃない? 例えば、葉っぱの形をしたお皿とか」
リラの提案に、私は「それはいい考えね!」と手を叩いた。二人で話しながら、店先に並べられた様々な形のお皿を見て回る。その時間は、宝探しのようで、とても楽しかった。
そして、私たちは見つけた。蓮の葉をかたどった、美しい緑色の釉薬がかかった小皿のセットを。これなら、黄金色のラドゥを乗せれば、まるで水面に浮かぶ宝石のように見えるだろう。私はそのお皿も購入し、買い物かごは、新しいお店への希望でいっぱいになった。
「さあ、これで必要なものは大体そろったかしら。あとは、一番肝心な、屋台を置く場所の許可をもらわないとね」
「市場のことは、管理人のドゥルヴァーサ様に相談するのが一番よ。少し気難しい方だって聞くけれど……」
リラが少しだけ心配そうな顔をした。ドゥルヴァーサ様は、短気で怒りっぽいことで有名な聖仙だ。彼を怒らせると、恐ろしい呪いをかけられるという噂もあった。
少し緊張しながら、私たちは市場の中心にある管理事務所へと向かった。事務所の中では、ドゥルヴァーサ様が、眉間に深いしわを寄せて、分厚い帳簿に何かを書き込んでいるところだった。
「あ、あの……。失礼いたします。ドゥルヴァーサ様」
私がおずおずと声をかけると、彼は帳簿から顔を上げ、鋭い目で私たちを睨みつけた。
「む。なんだ、お前たちは。わしは今、忙しいのだが」
その威圧的な態度に、思わず後ずさりしそうになる。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。私は勇気を振り絞って、もう一度口を開いた。
「わたくし、アマラと申します。この市場で、お菓子の屋台を開かせていただきたく、ご挨拶に伺いました」
「ほう、菓子屋だと? この市場には、すでに腕利きの菓子屋が何軒もある。新参者が入り込む隙など、ないと思うがな」
ドゥルヴァーサ様は、鼻で笑うように言った。その言葉は冷たく、私の心をくじくには十分だった。それでも、私は諦めなかった。
「わたくしの作るお菓子は、ただ美味しいだけではございません。食べた人の心を、ほんの少しだけ幸せにする力が宿っていると、信じております。どうか、一度だけ、機会をいただけないでしょうか」
私はそう言って、深く頭を下げた。隣でリラも、静かに頭を下げてくれている。
しばらくの沈黙の後、ドゥルヴァーサ様は、ふう、と大きなため息をついた。
「……面白いことを言う小娘だ。そこまで言うのなら、試してみるがいい。だが、もし市場の評判を落とすようなことがあれば、即刻追い出すからな。覚悟しておくがいい」
「は、はい! ありがとうございます!」
思いがけない許可の言葉に、私は顔を上げて、勢いよく返事をした。
「場所は、今朝お前が立っていた、あの広場の隅でよかろう。あそこなら、人通りも多い。せいぜい、頑張ることだな」
ドゥルヴァーサ様はそう言うと、もう興味を失ったかのように、再び帳簿に視線を落とした。私たちは何度もお礼を言うと、そっと事務所を後にした。
「やったわ、アマラ! 許可が下りたのね!」
外に出た途端、リラが私の手を握って、嬉しそうに言った。
「うん! なんだか、信じられないくらい。ドゥルヴァーサ様、噂よりも優しい方だったわね」
「きっと、あなたの一生懸命な気持ちが伝わったのよ」
私たちが喜んでいると、そこに大きな影が差した。
「おお、アマラとリラじゃないか! なんだか、すごく嬉しそうだな! 何かいいことでもあったのか?」
聞き覚えのある、豪快な声。振り返ると、そこにはパワンプトラ様が、にっと歯を見せて立っていた。
「パワンプトラ様! あの、聞いてください! 私、この市場にお店を出す許可をいただいたんです!」
「なにっ、そりゃ本当か! よかったじゃねえか、アマラ! で、屋台はどうするんだ? もう準備はできてるのか?」
「いえ、それが……。これから、どうしようかと考えていたところで……」
屋台そのものを、どうやって手に入れればいいのか、そこまで考えていなかった。大工さんに頼むにしても、お金がかかるだろう。私が少し困った顔をしていると、パワンプトラ様は、自分の胸をどんと叩いて言った。
「なんだ、そんなことか! それなら、この俺に任せておけ! お前の開店祝いだ、俺がとびっきりの屋台を作ってやる!」
「ええっ! 本当ですか!?」
「おう、任せとけ! 俺は街の消防団長であると同時に、警備隊長でもあるからな! ちょっとした日曜大工くらい、お手の物よ! 材料は、カイラスの森から、一番丈夫なチーク材を運んで来てやるぜ!」
パワンプト様の申し出は、あまりにも心強く、ありがたかった。
「ありがとうございます、パワンプトラ様! なんてお礼を言ったらいいか……」
「礼なんていらねえよ! その代わり、屋台が完成したら、お前の作るうまいラドゥを、腹いっぱい食わせてくれよな! ガハハハ!」
彼はそう言って、豪快に笑った。その笑い声は、市場中に響き渡り、私の不安をすべて吹き飛ばしてくれた。
それからの展開は、本当にあっという間だった。パワンプト様は約束通り、次の日の朝には、山から切り出してきたという、立派な木材を担いでやってきた。そして、市場の広場の隅で、トントンカンカンと、驚くべき速さで屋台の組み立てを始めたのだ。
その音を聞きつけて、市場の子供たちが「パワンプトラ様が何か作ってるぞー!」と集まってきた。
「隊長、何を作ってるんですか?」
「おう、お前らか! 見てわからねえか? アマラの菓子屋の屋台だよ! お前らも、手伝ってくれるか?」
「うん、やるー!」
子供たちは大喜びで、木材を運んだり、釘を渡したりと、小さな助手として活躍し始めた。市場の他の店主たちも、興味深そうにその様子を眺め、「頑張れよー!」と声をかけてくれる。
リラと私は、一生懸命働くみんなのために、冷たいラッシーを差し入れた。パワンプト様は、それを一気に飲み干すと、「うめえ!力が湧いてくるぜ!」と、さらに作業の速度を上げた。
昼過ぎには、もう屋台の骨組みがほとんど完成していた。それは、私が想像していたよりもずっと大きく、頑丈で、立派な屋台だった。
「すごいわ、パワンプトラ様……。まるで、魔法みたい」
私が感嘆の声を漏らすと、彼は汗を拭いながら、にっと笑った。
「魔法じゃねえよ。みんなの力が合わさっただけだ。お前がいつも、うまい菓子でみんなを幸せにしてるから、みんなもお前の力になりたいんだよ」
彼の言葉に、胸がじんと熱くなった。私は、一人じゃなかった。こんなにたくさんの人たちが、私の夢を応援してくれている。
夕方になる頃には、屋根もつき、商品を並べるための棚も取り付けられ、素晴らしい屋台が完成した。子供たちが、屋台の周りを「わーい、お店だ、お店だー!」とはしゃぎながら走り回っている。
「アマラ、どうだ? 気に入ったか?」
パワンプトラ様が、誇らしげに尋ねた。
「はい……! 最高です! 私には、もったいないくらいです……!」
「何言ってやがる! お前にぴったりの屋台だ! さあ、これで準備は万端だな! いつから始めるんだ?」
「はい! 明日から、始めようと思います!」
私のその言葉に、周りにいたみんなから、「おおー!」という歓声と、温かい拍手が沸き起こった。
その夜、私は完成したばかりの屋台の前に一人で立っていた。昼間の喧騒が嘘のように、市場は静まり返っている。私は、パワンプトラ様が作ってくれた、まだ新しい木の香りがする屋台の柱に、そっと触れた。たくさんの人の優しさが、この柱に詰まっているようだった。
「アマラ」
静かな声に振り返ると、リラが温かいチャイの入ったカップを二つ持って、立っていた。
「リラ……」
「お疲れ様。本当に、素敵な屋台ができたわね」
彼女は私にカップを一つ手渡すと、隣に並んで屋台を見上げた。
「うん。みんなのおかげだわ。私、このご恩を、絶対に忘れない」
「ええ。きっと、あなたの作るお菓子が、最高のお礼になるわ。……それで、お店の名前はもう決めたの?」
リラの問いかけに、私は少し考えてから、微笑んで答えた。
「うん、決めたわ。『アムリタ・ミターイー』っていう名前にしようと思うの」
「アムリタ・ミターイー……。奇跡の雫のお菓子、ね。素敵だわ」
「ヴァーニ様が教えてくれた、『アムリタの雫』は、誰かを想う純粋な気持ちの中に生まれるって。私の作るお菓子も、そんな存在でありたいの。食べた人の心に、小さな奇跡の雫を届けられるような」
「あなたなら、きっとできるわ」
リラは、力強く頷いてくれた。私たちはしばらく、二人で夜空に輝く月を見上げながら、温かいチャイを飲んだ。いよいよ、明日から私の新しい物語が始まる。不安よりも、期待で胸がいっぱいだった。
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