第7話
中央図書館に到着すると、昼間の賑わいはなく、静寂が支配していた。高い天井まで続く書架の影が、床に長く伸びている。夜の図書館は、まるで知識の巨人が眠っているかのような、荘厳な雰囲気を漂わせていた。私たちは息を潜めるようにして、奥にある館長室へと向かった。
館長室の扉をそっとノックすると、中から「どうぞ」という、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。私たちが中に入ると、ヴァーニ様は机に向かい、熱心に何かを書き記しているところだった。彼女が顔を上げ、私たちに気づくと、その知的な瞳が優しく細められた。
「まあ、アマラさんとリラさん。どうかなさいましたか、こんな夜分に」
「夜分に申し訳ありません、ヴァーニ様。どうしても、ヴァーニ様に召し上がっていただきたいものがございまして」
私は緊張しながら、葉っぱに包んだ最後のラドゥを彼女に差し出した。ヴァーニ様は少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべ、それを受け取ってくれた。
「私に? ありがとうございます。これは……ラドゥ、ですね」
彼女が包みを開くと、黄金色のラドゥが、部屋のランプの光を受けて、内側から発光するようにきらめいた。その輝きを見たヴァーニ様の目が、興味深そうに細められる。
「まあ、美しい……。まるで、星の光を閉じ込めたようですわ」
「先日、ヴァーニ様に教えていただいたことを胸に、私なりに心を込めて作ってみました。ヴァーニ様への、感謝の気持ちです」
私の言葉に、ヴァーニ様は深く頷いた。
「そうですか。……あなたの心が、この輝きを生み出したのですね」
彼女はラドゥを指先でそっとつまみ上げると、その香りを確かめるように、静かに鼻を近づけた。そして、目を閉じて、一口、ゆっくりと口に含んだ。
パワンプトラ様のような派手な反応はなかった。リラのように、涙を流すこともなかった。ただ、彼女は静かに目を閉じたまま、長い間、その味わいを深く、深く、感じ入っているようだった。
沈黙が、部屋を支配する。私は固唾を飲んで、彼女の言葉を待った。やがて、彼女はゆっくりと目を開けた。その瞳は、先ほどよりもさらに澄み渡り、まるで湖の底まで見通せるかのように、深く、静かだった。
「……素晴らしい」
ぽつりと、彼女は呟いた。
「えっ……」
「ええ、本当に。技術的な完成度もさることながら、このラドゥに込められた想いは、まさしく芸術と呼ぶにふさわしいものですわ」
ヴァーニ様は、うっとりとした表情で、残りのラドゥを惜しむように、少しずつ口に運んだ。
「口に入れた瞬間、まずギーとスパイスの完璧な調和が広がります。そして、噛みしめると、ひよこ豆の粉の香ばしさとナッツの食感が、楽しいリズムを奏でる。甘さも、実に上品。……ですが、このラドゥの本当の素晴らしさは、そこではありません」
彼女は一旦言葉を切ると、私とリラの顔を交互に見つめた。
「このラドゥから伝わってくるのは、作り手である、あなた自身の物語です。リラさんへの、温かい友情。パワンプトラ様への、力強い尊敬。そして、この私や、デヴァプラの街そのものへの、深く静かな感謝の念。それらの感情が、複雑に、しかし見事に調和して、一つの美しい旋律を奏でています。これはもはや、食べ物というよりも、一編の詩を読むのに近い体験ですわ」
ヴァーニ様の言葉は、私の想像を遥かに超えていた。彼女は、この小さなラドゥの中に、私が込めた全てを、寸分違わず読み取ってくれたのだ。いや、それ以上に、私自身も気づいていなかった、想いの奥深くにあるものまで、見抜いているようだった。
「私には、わかります。あなたが、どれほど真摯に、このお菓子と向き合ったのか。どれほど純粋な気持ちで、私たちの幸せを願ってくれたのか。その想いが、奇跡の雫となって、このラドゥに宿っているのですね。アマラ、あなたは、最高の材料を見つけただけでなく、それを最高の芸術に昇華させる方法をも、見つけ出したのです」
これ以上ないほどの賛辞だった。私の心は、喜びと、そして少しの畏れで打ち震えた。ヴァーニ様のような方にここまで言っていただけるなんて。
「ありがとうございます、ヴァーニ様……。もったいないお言葉です」
「いいえ、もったいなくなどありません。事実を述べたまで。むしろ、お礼を言うべきは、私のほうです。このような素晴らしい体験をさせていただき、心から感謝します」
彼女はそう言うと、すっと立ち上がり、書架の一つへと向かった。そして、一冊の、古びた革の装丁の本を手に取って、戻ってきた。
「これは、私からの感謝のしるしです。受け取ってください」
「本、ですか?」
「ええ。古代の菓子職人たちが遺した、秘伝のレシピが記されています。ですが、ただのレシピ帳ではありません。そこには、お菓子作りの技術だけでなく、作り手としての心構えや、自然の恵みへの感謝の祈りなども記されています。今のあなたになら、この本に書かれていることの、本当の意味が理解できるでしょう」
私は恐る恐る、その本を受け取った。ずっしりと重く、長い年月を経てきたことがわかる、独特の匂いがした。ページをめくると、そこには美しい手書きの文字と、精密な挿絵が描かれていた。
「ありがとうございます……。大切にします」
「ええ、きっとあなたの助けになるはずです。……アマラ、あなたのその力は、これからもっと多くの人々を幸せにできます。どうか、自信を持って、あなたの信じる道を進んでください」
ヴァーニ様の最後の言葉が、私の胸に深く刻み込まれた。図書館を後にした時、夜空には満月が皓々と輝いていた。月明かりが、デヴァプラの街を銀色に照らし出している。
「アマラ、本当によかったわね」
帰り道、リラが心から嬉しそうに言った。
「うん……。なんだか、まだ夢みたい。でも、わかったの。私のやるべきことが」
「やるべきこと?」
「ええ。私、お店を開くわ。まだ小さくて、みすぼらしいかもしれないけれど、私のお店を。そして、このラドゥを、もっとたくさんの人に食べてもらうの。パワンプトラ様やヴァーニ様だけじゃない。この街で暮らす、普通の人たちにも、私の作ったお菓子で、少しでも幸せな気持ちになってもらいたいの」
それは、ディワリでガジャラージ神に最高のラドゥを捧げるという、当初の目標から、さらに一歩進んだ、新しい夢だった。神様のためだけじゃない。人々のための、菓子職人になる。
「素晴らしいわ、アマラ! あなたなら、きっとできる! 私も、全力で応援するわ!」
リラは私の手をぎゅっと握りしめてくれた。その温かさが、私の決意をさらに固くしてくれた。
「ありがとう、リラ。……そうだ、決めたわ。明日、さっそく中央市場で場所を探してみる。まずは、小さな屋台からでもいい。そこから、私の新しい物語を始めるの」
私の心は、燃えるような情熱で満たされていた。ヴァーニ様からいただいた古い本を、胸に抱きしめる。この本が、私の新しい羅針盤になってくれるだろう。
翌朝、私は夜が明けきる前に目を覚ました。リラはまだ、すやすやと寝息を立てている。私は彼女を起こさないように、そっと家を抜け出した。ひんやりとした朝の空気が、心地よかった。
向かう先は、もちろん中央市場だ。まだ人影もまばらな市場は、がらんとして静まり返っている。私は、屋台を出せそうな場所を探して、ゆっくりと歩き回った。そして、広場の一角に、ちょうど良い大きさの空きスペースを見つけた。朝日が、ちょうどその場所を照らし始めている。ここだ。ここから始めよう。
私はその場所に立つと、大きく深呼吸をした。これから始まる、新しい挑戦。不安がないわけではない。でも、それ以上に、わくわくする気持ちの方が、ずっと大きかった。私のラドゥを待っていてくれる人が、きっといるはずだ。その人たちの笑顔を思い浮かべると、無限の勇気が湧いてくるようだった。
まずは、屋台に敷くための美しい布を買いに行こう。それから、お菓子を並べるための、可愛いお皿も必要だ。ラドゥだけじゃなく、他の種類のお菓子も作ってみよう。ヴァーニ様にもらった本に、何か良いレシピが載っているかもしれない。考えることは、山のようにあった。でも、その一つ一つが、楽しくてたまらなかった。
私は市場を後にして、布地屋が並ぶ通りへと足を向けた。朝日が昇り、デヴァプラの街が、ゆっくりと目を覚まし始める。私の心も、この新しい一日の始まりと共に、希望の光で満たされていた。どんな未来が待っているのかはわからない。けれど、一歩一歩、心を込めて進んでいけば、きっと道は開けるはずだ。そう、信じることができた。私は、これから始まる自分の物語に、胸を高鳴らせながら、朝の光の中を歩き始めた。ラドゥ作りのための新しい材料を仕入れるために、まずは馴染みのスパイス店へと向かう。店の主人は、早起きな私を見て、少し驚いた顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます