第5話

自分の聖域である台所に戻ると、私はまず、深呼吸を一つした。カルダモンとシナモン、そしてギーの香りが混じり合った、いつもの匂い。でも、今日のそれは、ただの慣れた香りではなく、私の心を落ち着かせ、同時に奮い立たせてくれる、特別なもののように感じられた。リラは、私が作業しやすいように、テーブルの上を片付け、静かにチャイを淹れてくれている。そのさりげない優しさが、私の心を温かくした。


「ありがとう、リラ。そばにいてくれて、本当に心強いわ」


「いいのよ。私は、アマラの一番の応援団長だもの」


彼女はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔が、私の背中をそっと押してくれた。


私はまず、真鍮の大きなボウルを取り出した。そして、丁寧にふるったひよこ豆の粉を入れる。いつもなら、ここでレシピ帳に書かれた分量を正確に計るところだ。でも、今日は少し違った。もちろん、基本の分量は頭に入っている。けれど、それ以上に、自分の手の感覚を信じてみることにした。


粉に触れた時、私は目を閉じて、リラのことを思った。彼女の優雅な舞、穏やかな微笑み、いつも私を励ましてくれる温かい言葉。感謝の気持ちが、波のように心に広がっていく。ありがとう、リラ。いつも、本当にありがとう。


次に、火にかけたカダイ(中華鍋に似たインドの鍋)に、スラビーの聖なるギーを溶かす。黄金色の液体が、甘く香ばしい香りを立て始めた。その香りの中で、私はパワンプトラ様のことを思い浮かべた。彼の豪快な笑い声、力強い励ましの言葉、街の平和を守るその大きな背中。「最高の笑顔がなくっちゃな!」という彼の言葉が、耳の奥で蘇る。自然と、私の口元がほころんだ。


ギーが十分に温まったところで、ひよこ豆の粉をゆっくりと加える。木べらで絶えず混ぜながら、焦がさないように、じっくりと火を通していく。じゅう、という心地よい音と共に、部屋中に nutty な香りが満ちていく。この作業は、根気と集中力がいる、ラドゥ作りで最も重要な工程の一つだ。


以前の私なら、きっと眉間にしわを寄せて、鍋の中だけを睨みつけていただろう。でも、今は違った。私の心は、とても穏やかだった。鍋を混ぜる手は規則正しく動きながらも、私の意識はもっと広い世界へと繋がっているような感覚があった。


粉の色が、だんだんと美しいキツネ色に変わっていく。香ばしい香りが一層強くなったところで、火から下ろすタイミングを見計らう。ここで私は、ヴァーニ様のことを思った。彼女の奏でるヴィーナの音色、知性に満ちた深い瞳、そして、「最も大切なスパイスは、誰かを想う純粋な愛情です」という、あの言葉。まるで彼女の知恵が、私に最適なタイミングを教えてくれているようだった。


絶妙なタイミングで鍋を火から下ろし、粗熱を取る。その間に、別の鍋で砂糖と水を煮詰めてシロップを作る。ここにも、心を込めることを忘れなかった。市場で野菜を売るおばあさんの優しい笑顔、花輪を売る少女の懸命な姿、いつもすれ違いざまに挨拶をしてくれる隣人。この街で暮らす人々の、ささやかな日常の幸せを願った。


粗熱が取れた粉に、カルダモンの粉と、細かく刻んだピスタチオとアーモンドを加える。そして、熱いシロップを少しずつ注ぎ入れ、手早く混ぜ合わせていく。生地が一つにまとまっていく感触が、手に伝わってくる。それはまるで、私の想いが形になっていく過程そのもののようだった。


「すごいわ、アマラ……」


いつの間にか私の隣に来ていたリラが、感嘆の声を漏らした。


「見て。生地が、光っているわ」


彼女の指さす方を見ると、確かに、ボウルの中の生地が、内側から淡い黄金色の光を放っているように見えた。それは、以前私が作っていた時のような、ただ材料が良いからという輝きではない。もっと温かく、柔らかく、まるで生きているかのような、優しい光だった。


「本当だ……」


私自身も、その光景に息をのんだ。これが、心が宿るということなのだろうか。


生地が、手で触れるくらいの温度になったら、いよいよ最後の工程、ラドゥを丸める作業だ。手のひらに少しギーを塗り、生地を適量取って、優しく、しかし確実に丸めていく。


最初の一つは、リラのために。彼女の幸せと健康を祈りながら、丁寧に形を整える。ありがとう。私の最高の友達。


二つ目は、パワンプトラ様のために。彼の武勇と、街の平和を願いながら。いつも、ありがとうございます。


三つ目は、ヴァーニ様のために。彼女の知恵と芸術が、これからも多くの人々を導いてくれますように。感謝しています。


一つ、また一つと、大切な人々の顔を思い浮かべながら、ラドゥを丸めていく。それは、祈りのようでもあり、瞑想のようでもあった。不思議なことに、全く疲れを感じなかった。むしろ、丸めれば丸めるほど、私の心は喜びとエネルギーで満たされていった。


すべての生地を丸め終えた時、銀の大皿の上には、完璧な形をした黄金色のラドゥが、まるで宝石のように並んでいた。そして、その一つ一つが、先ほどよりもさらに強い、温かい光を放っている。部屋全体が、その優しい光と、甘く幸福な香りで満たされていた。


私は、出来上がったラドゥをしばらく無言で見つめていた。これが、私の心。私の感謝。私の祈り。技術やレシピだけでは決して辿り着けなかった、答えがここにあった。涙が、自然と頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなく、深い喜びと感謝から生まれた、温かい涙だった。


「アマラ……。本当に、素晴らしいわ」


リラが、そっと私の肩を抱き寄せてくれた。彼女の声も、少し潤んでいるようだった。


私は涙を拭うと、リラに向かって微笑んだ。そして、大皿の中から一番美しく輝いているラドゥを一つ、そっとつまみ上げた。


「リラ、これを……。まず、あなたに食べてほしいの」


私はそのラドゥを、彼女の前に優しく差し出した。私の今の、ありったけの感謝を込めて。彼女の大きな瞳が、ラドゥの放つ光を映して、きらりと輝いた。彼女が、そのラドゥを受け取ろうと、白い指を伸ばした。

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