第4話

図書館の静寂から一歩外に出ると、デヴァプラの街の活気が、心地よい喧騒となって私たちを包み込んだ。ヴァーニ様の言葉が、まだ私の心の中で温かい光のように響いている。最高の材料は、私の心。誰かを想う純粋な愛情こそが、最高のスパイスなのだと。今まで頭を覆っていた分厚い雲が晴れ、目の前の世界が、昨日までとはまるで違って見えた。


「アマラ、なんだか顔つきがすっきりしたみたい」


隣を歩くリラが、私の顔を覗き込んで優しく微笑んだ。彼女の言う通り、私の心は不思議なくらい軽やかだった。あれほどまでに私を縛り付けていた「完璧なラドゥを作らなければ」というプレッシャーが、嘘のように消え去っていた。


「うん。ヴァーニ様のおかげで、大切なことに気づかせてもらえたから。私はずっと、何か特別なものを外に探し求めていたみたい。でも、本当に探すべきだったのは、自分自身の中にあるものだったのね」


「そうね。ヴァーニ様の言葉は、いつも私たちの心の深いところに届くわ。まるで、乾いた大地に染み込む水のように」


リラは穏やかに頷いた。私たちは並んで、人で賑わう中央市場の通りを歩く。スパイスの香り、焼きたてのナンの香ばしい匂い、花輪を売る少女の呼び声、遠くから聞こえる鍛冶屋の槌音。それらすべてが、今日はやけに鮮やかに感じられた。


以前は、市場の喧騒が少し苦手だった。菓子作りのことばかり考えている私にとって、それは集中を乱す雑音のように思えることもあったからだ。でも、今は違う。この活気こそが、デヴァプラの心臓の鼓動なのだと感じられる。ここで生きる人々の笑顔や、交わされる言葉の一つ一つが、この街を形作っている。


「ねえ、リラ。少し、遠回りしない? 川のほうへ行きたいの」


「ええ、もちろんよ。なんだか今日は、風が気持ちいいわね」


私たちは人込みを抜け、街の東側を流れるガンジス川の支流へと続く道を選んだ。この川は、カイラス山から溶け出した雪解け水を集めて、豊穣な大地を潤している聖なる川だ。川辺にはガートと呼ばれる沐浴場がいくつも設けられていて、多くの人々が祈りを捧げたり、水浴びをしたりして過ごしている。


川辺に到着すると、開けた視界と共に、涼やかな風が私たちの頬を撫でた。太陽の光が水面に反射して、きらきらとダイヤモンドのように輝いている。遠くでは子供たちが水しぶきを上げてはしゃいでいて、その楽しそうな笑い声がこちらまで届いてきた。私たちはガートの階段に腰を下ろし、しばらくの間、その穏やかな光景を眺めていた。


「こうしていると、心が洗われるようだわ」


リラがうっとりと目を細めて言った。彼女はいつも、自然の美しさを見つけるのが上手だった。


「本当に。毎日見ていたはずの景色なのに、今日はなんだか特別に美しく感じる。不思議ね」


「それは、アマラの心が変わったからよ。世界は、自分の心を映す鏡のようなものだから。あなたが穏やかな気持ちでいれば、世界もまた、穏やかな顔を見せてくれるの」


リラの言葉は、いつも詩のように美しい。彼女の舞が人々の心を癒すのも、きっと彼女がこうして、世界の美しさを全身で感じ取っているからなのだろう。


「リラは、舞を踊る時、どんなことを考えているの?」


ふと、そんな疑問が口をついて出た。彼女の芸術もまた、形のない、心で作り上げるものだ。何かヒントがあるかもしれない。


「そうね……。特に何も考えていない、と言うのが一番近いかもしれないわ」


「何も考えない?」


「ええ。もちろん、振り付けや型は体に染みついているわ。でも、いざ舞う段になったら、頭で考えることはやめるの。ただ、音楽を感じて、風を感じて、見ている人々の視線を感じる。そして、そのすべてに、私の心を委ねるのよ」


彼女はそう言うと、すっと立ち上がり、その場で軽やかに一回転してみせた。サリーの裾がふわりと広がり、まるで一輪の花が咲いたかのようだった。


「私の舞は、私だけのものではないの。私を通して、神々が、自然が、そしてこのデヴァプラの空気が、物語を紡いでいる。私はただ、そのための器になるだけ。心を空っぽにして、世界と一つになるの。そうするとね、自分でも思いがけないような、素晴らしい瞬間が訪れることがあるわ」


その言葉は、ヴァーニ様が教えてくれたことと、どこか深く繋がっているように思えた。心を空っぽにする。そして、世界と一つになる。それは、自分という存在を消すことではなく、むしろ、自分を取り巻くすべてと繋がることで、より大きな自分になる、ということなのかもしれない。


「誰かの幸せを願う心……か」


私は川面を見つめながら、ぽつりと呟いた。ガジャラージ神様。リラ。パワンプトラ様。ヴァーニ様。市場の人々。この街で生きるすべての人たち。私の作るお菓子を食べてくれるかもしれない、まだ見ぬ誰か。その人たちの顔を思い浮かべると、胸の奥からじんわりと温かい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。


それは、義務感やプレッシャーとは全く違う、とても自然で、穏やかな感情だった。


「私、少しわかったかもしれない。最高のラドゥを作るために、本当に必要なものが」


「まあ、なあに?」


リラが私の隣に再び腰を下ろし、小首を傾げた。


「技術を磨くことも、良い材料を選ぶことも、もちろん大切。でも、それだけじゃ足りなかったの。一番大切なのは、この気持ち。私が今感じている、この温かい気持ちを、そのままお菓子に込めることだったんだわ」


パワンプトラ様は「最高の笑顔」と言った。ヴァーニ様は「純粋な愛情」と教えてくれた。そしてリラは「世界と一つになる」と言った。言葉は違えど、その本質は同じなのかもしれない。それはつまり、自分自身の心が、喜びや感謝で満たされている、ということ。


「私、試してみたいことがあるの」


「試したいこと?」


「うん。もう一度、ラドゥを作ってみる。でも、今度はガジャラージ神様のためだけじゃない。いつも私を支えてくれる、大切な人たちのために作るわ。リラのために。パワンプトラ様のために。ヴァーニ様のために。あなたの顔を思い浮かべながら、あなたへの感謝の気持ちを込めて、一粒一粒、心を込めて作るの」


それは、今まで考えもしなかったことだった。私の目標は、あくまでディワリの日に、ガジャラージ神へ最高のラドゥを捧げること。その一点に集中するあまり、私は周りが見えなくなっていたのかもしれない。でも、本当に大切なのは、日々の暮らしの中にある、ささやかな幸せや感謝の気持ち。それを一つ一つ丁寧に拾い集めて、形にしていくことだったのだ。


「それは、とても素敵な考えね。きっと、今までで一番素晴らしいラドゥが出来るわ」


リラは心から嬉しそうに微笑んでくれた。その笑顔を見ているだけで、私の心はさらに温かくなった。


「ありがとう、リラ。なんだか、すごくわくわくしてきた! 早く台所に立ちたい!」


私は勢いよく立ち上がった。夕日がガンジス川をオレンジ色に染め始めている。空には一番星が瞬き始めていた。もう、迷いはない。やるべきことは、はっきりと見えている。


「帰りましょう、リラ。家に帰って、もう一度最初から始めるわ」


「ええ、もちろんよ。私も、あなたの新しいラドゥが生まれる瞬間を、そばで見届けたいわ」


私たちは顔を見合わせて笑い合った。そして、夕焼けに染まるデヴァプラの街を、軽やかな足取りで家路についた。私の心は、希望と喜びに満ち溢れていた。これから始まる新しい挑戦への期待に、胸が高鳴るのを感じながら。


「まずは、誰のためのラドゥから作ろうかしら」


「ふふ、それはもちろん、一番の親友である、私のためのものでしょう?」


リラがおどけたようにそう言うと、私たちはまた笑い合った。その笑い声は、川辺の風に乗って、どこまでも遠くへ響いていくようだった。台所に戻ったら、まずは新しいギーを温めよう。そして、ひよこ豆の粉を炒る時には、リラのこの美しい笑顔を思い浮かべよう。きっと、今までで一番甘くて、香ばしい香りがするはずだ。


そんなことを考えていると、自然と私の口元にも笑みが浮かんでいた。それは、パワンプトラ様が言っていた「最高の笑顔」に、少しだけ近づけたような気がした。私の菓子作りの新しい一歩が、今、確かに始まろうとしていた。これまでの私は、レシピという地図に頼りすぎていたのかもしれない。けれどこれからは、自分の心という羅針盤を信じて、進んでいける。そんな確信が、私の中に芽生えていた。


ガートの階段を上りきり、再び街の通りへと戻る。家々の窓からは、夕食の準備をする匂いが漂い、ディヤの温かい光が灯り始めていた。デヴァプラの日常の光景が、今は何よりも愛おしく感じられる。この街で菓子職人として生きていけることへの感謝が、胸の奥から込み上げてきた。


「ねえ、リラ。今日の夕食は、私が腕を振るってもいいかしら?なんだか、誰かのためにお料理がしたくてたまらないの」


「まあ、嬉しいわ。じゃあ、私はそのお礼に、食後に一曲、舞を披露しましょうか」


そんな会話をしながら、私たちは家路を急いだ。私の頭の中では、もう新しいラドゥの姿が、はっきりと形を結び始めていた。それは、黄金色に輝くだけでなく、食べた人の心をふわりと軽くするような、優しい光を放っている。そんな、魔法みたいなお菓子を。いや、魔法なんかじゃない。心を込めて作る、当たり前で、でも一番大切なこと。

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