第3話

デヴァプラの中央図書館は、静寂と知性に満ちた場所だった。高い天井まで届く書架には、古い貝葉に書かれた経典から、最新の天文学の書物まで、ありとあらゆる知識が眠っている。中に入ると、ひんやりとした空気と共に、古い紙とインクの独特な香りが私たちを迎えた。市場の喧騒とは対照的なその空間は、心を落ち着かせる不思議な力を持っていた。


館内には何人かの学者や学生が、熱心に書物を読みふけっている。私たちは物音を立てないように注意しながら、奥にある館長室へと向かった。館長室の扉は美しく彫刻された木でできており、そっと開けると、中からヴィーナの優雅な音色が聞こえてきた。


部屋の中心で、純白のサリーを身にまとった美しい女性が、ヴィーナを奏でていた。知恵と芸術、そして弁舌を司る女神、ヴァーニ様だ。彼女の周りだけ、まるで時間がゆっくりと流れているかのように穏やかで、その姿は一枚の絵画のようだった。彼女の足元には、乗り物である聖なるハムサ鳥が、うっとりとその音色に耳を傾けている。


私たちが部屋に入ったことに気づくと、ヴァーニ様は演奏を止め、慈愛に満ちた笑みをこちらに向けた。


「いらっしゃい、アマラ、リラ。あなたたちが来ることは、風が教えてくれましたよ」


その声は、ヴィーナの音色のように滑らかで、心に安らぎを与えてくれる響きを持っていた。


「お邪魔いたします、ヴァーニ様。お忙しいところを申し訳ありません」


リラが優雅に一礼するのに倣って、私も深く頭を下げた。神様を前にすると、どうしても緊張してしまう。


「構いませんよ。どうぞ、お座りなさい」


ヴァーニ様は、私たちに柔らかなクッションを勧めてくれた。私たちは勧められるままに腰を下ろした。ハムサ鳥が、こてんと首を傾げて私たちを見ている。


「して、今日はどのような相談かしら。あなたの顔には、少し迷いの色が見えますね、アマラ」


ヴァーニ様には、すべてお見通しのようだった。私は少し躊躇いながらも、今日ここへ来た理由を正直に話すことにした。


「はい。実は、最高のラドゥを作るために、お知恵をお借りしたくて参りました。ガジャラージ神様に捧げるにふさわしい、特別な一品を作りたいのです。ですが、どうしても『喜びのきらめき』とでも言うべき、特別な輝きがお菓子に宿らないのです」


私の言葉を、ヴァーニ様は静かに聞いていた。彼女の瞳は湖のように深く、私の心の奥まで見透かしているようだった。


「喜びのきらめき、ですか。それは、作り手の魂の輝きそのものです。技術や材料だけで生み出せるものではありません」


「はい。私もそう感じています。市場で最高の材料を手に入れ、パワンプトラ様からは笑顔の大切さを教わりました。それでもまだ、最後の何かが足りない気がするのです」


私がそう言うと、ヴァーニ様はふっと微笑んだ。


「あなたはとても真面目で、探求心が強いのですね。その姿勢こそが、あなたをより高みへと導くでしょう。……良いでしょう。少し、古いお話をしましょうか」


ヴァーニ様はそう言うと、近くの書架から一冊の古びた本を取り出した。表紙には見たこともない文字が記されている。


「このデヴァプラには、多くの伝説が残されています。その中に、『アムリタの雫』というものが出てくるお話があります」


「アムリタの雫……」


アムリタと言えば、神々が乳海攪拌の末に手に入れたという不老不死の甘露のことだ。まさか、そんなものがこの世に存在するのだろうか。


私の考えを読み取ったかのように、ヴァーニ様は首を横に振った。


「いいえ、神々の甘露そのものではありません。ここで語られる『アムリタの雫』とは、ヒマラヤの奥深く、神々の庭でしか咲かないという伝説の花の蜜から作られた、特別な蜂蜜のことを指します」


「伝説の花の……蜂蜜?」


「ええ。その蜂蜜は、一滴で心に光を灯し、どんな食べ物にも天上の風味を与えると言われています。人々はそれを、奇跡を信じる純粋な祈りや想いが宿ったものだと信じてきました」


ヴァーニ様の話は、まるでおとぎ話のようだった。しかし、その声には不思議な説득力があり、私たちは引き込まれるように聞き入っていた。


「その蜂蜜を使えば、私のラドゥにも、喜びのきらめきが宿るのでしょうか?」


期待を込めて尋ねる私に、ヴァーニ様は静かに微笑みながら続けた。


「そうかもしれません。ですが、アマラ。その花がどこに咲くのか、その蜂蜜を誰が作ったのか、それを知る者は誰もいません。それは、人々の心の中にだけ存在する、希望の象徴のようなものなのです」


「希望の、象徴……」


「そうです。本当に大切なのは、伝説の材料を手に入れることではありません。むしろ、その伝説が何を伝えようとしているのかを、理解することなのです」


ヴァーニ様は本を閉じ、その深い瞳で私をまっすぐに見つめた。


「『アムリタの雫』とは、言い換えれば、作り手の純粋な想いの結晶です。あなたがガジャラージ様を心から敬い、そのお菓子を食べる人々の幸せを本気で願う時、あなたの手から生み出されるものの中に、奇跡の雫は自然と生まれるのです」


その言葉は、雷のように私の心を打ち抜いた。私は、外にばかり答えを求めていた。最高の材料、特別な秘訣、伝説の品。でも、本当に探すべきだったのは、自分自身の心の中にあったのだ。


「私の……心の中に……」


「ええ。あなたはすでに、最高の材料を持っています。それは、あなたのその真摯な心です。パワンプトラが言ったように、笑顔も大切でしょう。ですが、最も大切なスパイスは、誰かを想う純粋な愛情です。それさえあれば、どんなお菓子も、神様への最高の捧げものとなり得るのです」


ヴァーニ様はそう言うと、再びヴィーナを手に取った。そして、先ほどとは違う、優しく、そして力強い旋律を奏で始めた。その音色は、まるで私の心の中の迷いを洗い流し、進むべき道を照らし出してくれる光のようだった。


どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。演奏が終わる頃には、私の心はすっかり晴れやかになっていた。悩んでいたことが、とても些細なことに思えた。


「ヴァーニ様、ありがとうございました。おかげで、目が覚めたような気持ちです。私が本当にすべきことが、ようやく分かりました」


私は立ち上がり、心からの感謝を込めて深く頭を下げた。


「良い顔になりましたね、アマラ。あなたの作るラドゥ、きっと素晴らしいものになるでしょう。楽しみにしていますよ」


ヴァーニ様は、母のような優しい笑みを浮かべていた。


「ええ、私たちもよ。ありがとう、ヴァーニ様」


リラも私に続いて礼を述べた。私たちは館長室を後にし、静かに図書館を出た。


外に出ると、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。夕方の涼しい風が、火照った頬に心地よい。


「よかったわね、アマラ。すっかり迷いが晴れたみたいで」


隣を歩くリラが、嬉しそうに言った。


「ええ。本当に。ヴァーニ様のおかげよ。そして、今日一日、一緒に付き合ってくれたリラのおかげでもあるわ。本当にありがとう」


「ううん。私も楽しかったもの。それに、親友の力になれるのは、私にとっても喜びだわ」


私たちは顔を見合わせて微笑んだ。一人で悩んでいた時には見えなかった答えが、親友や、街の仲間たちとの交流の中で、少しずつ形になっていく。デヴァプラは、本当に温かい街だ。


家に帰り着くと、もうすっかり暗くなっていた。私は家のディヤに火を灯し、ささやかな祈りを捧げた。そして、リラと一緒に簡単な夕食をとった。食事の間も、私の心は不思議なくらい穏やかで、満たされていた。


「さあ、始めましょうか」


夕食を終え、リラが淹れてくれたチャイで一息つくと、私は決意を込めて言った。


「ええ。あなたの好きにやってみて。私はここで見ているわ」


リラはそう言って、台所の隅の椅子に静かに腰掛けた。彼女がそばにいてくれるだけで、とても心強い。


私は深呼吸を一つすると、真新しい気持ちで聖域である台所に向かった。

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