徐州 その3

 冬十月、劉秀が龐萌の討伐を名目に徐州親征に入って三月が過ぎ去った。沛郡を驃騎ひょうき大将軍杜茂とぼ・討虜将軍王覇・漢忠将軍王常に平定させた劉秀は、成皐せいこうの県令とした杜詩としを沛郡都尉と為し地固めして、鮑永ほうえいが太守を勤める郡に御幸する。魯は孔子の里、劉秀、孔子を祀ろうと欲す。有職ゆうそく故実こじつを知る者につかさどらせようと考えれば、大司徒だいしと伏湛ふくたん大司空だいしくう宋弘そうこうか、考えた末に詔して洛陽の宋弘を呼び寄せ、祀らせる。

 臨淄を得た耿弇、配下に命じて曰く「みだりに劇県の城下を掠奪す事無かれ、張歩が降るのを待ちてこれを得ん」

 耿弇、張歩を挑発するために言う。これを聞いた張歩、激怒することは無いものの大笑いに笑いて曰く「尤来ゆうらい大彤だいとうの十余万の兵を以てしても、吾は自らの陣営にいてこれを破る。耿況こうきょうの長子の兵衆、彼らよりもずっと少なく、また遠路を来たれば疲弊す。くじくにも物足りぬ」と腰を上げる。三弟の張藍、衛将軍張弘ちょうこう高密こうみつ太守張寿ちょうじゅと前は尤来の渠帥きょすい重異じゅういらの兵衆と共に総勢二十万と号して、臨淄のとうじょうに到り、耿弇を攻めようとした。

 掛かったなとほくそ笑むは耿弇、魯に御幸す皇帝劉秀に策を上書して曰く「臣、臨淄に拠り塹を深く塁を高くす。張歩、必ず臣を攻めようと来らん。逸を以て労を待ち実を以て虚を撃てば、十日の間にて張歩の首を獲るべし」

 檄を読みたる劉秀も莞爾かんじと笑ってこの策をとする。耿弇、先ず淄水のほとりに出でて重異と出遭う。突騎を放てばこの先鋒を挫くことが出来るが、それでは張歩が敢えて進軍しないかも知れない。よって耿弇、殊更ことさら弱きを示して以て敵の気勢を上げさせ、小城に退いて内に陣を敷き、少勢と見せかける。張歩、意気盛んにして、直ちに耿弇の陣営を攻め、騎都尉劉歆らと合戦した。

 耿弇は昔の王宮の懐台に登ってこれを望見し、劉歆らが鋒を交えるを見るや、即座に自ら精鋭を率いて以て真横から張歩の陣を突いて、これを分断する。すなわち張歩、大敗する所と為る。耿弇、ももに激痛が走るを見れば、流れ矢である。咄嗟とっさに手にした刀でこれを切り落せば、左右の者は気付かず。日暮れと為り戦いは自然と止む。手当てした耿弇は明朝、兵を整えて出ようとすれば、皇帝劉秀からの璽書が届く。劉秀は臨淄の南西の魯郡に在って、耿弇が張歩に攻められるを知れば、自ら行きてこれを救おうとせしも、遠い故にすぐさま到れぬ、と書にある。

 そこで泰山太守陳俊、耿弇に謂いて曰く「劇の賊虜ぞくりょの兵は意気盛んなり。しばらく陣営を閉ざして兵士を憩わし、以て今上の来たるを待つべし」

 兵の損失を抑えるのが兵法の要諦ようていであれば、正論、上々策である。耿弇それは分かっている。しかし、元々張歩を討つ戦略は耿弇が上奏し、ここまで兵を率いて来た。そして張歩を引きずり出した故に、後は突騎兵に全力を尽くさせればこれを破れる。ここで皇帝の手を借りるは耿弇の矜持きょうじに訴えるものがあった。

 されど耿弇、それを陳俊に直接言うほどおろかではない。陳俊は知勇兼備の大将軍である。しかしその陳俊であればこそ、耿弇と同じく逆らえない大義がある。よって耿弇は返して曰く「天子の車駕まさに到らんとす。君子は当に牛をつちにて打ち殺し酒をしてうたげの用意以て百官を待ち受けるべきに、返って賊虜を以て君父にのこそうと欲するか」

 これには陳俊もしからずと答え、返って進んで耿弇に従う。将兵が一体と成る所、最大の勢いを為す。すなわち耿弇ら兵を出だして大いに戦い、払暁ふつぎょうから黄昏たそがれに及んで、大いに張歩の兵を破って殺傷すること無数となって城の塹壕はそれで満ちた。

 耿弇、この猛攻に張歩が苦しんで正に退こうとするを察知し、あらかじめ張歩の陣の両翼に伏兵を置いて時を待つ。夜半、張歩が引き去さろうとすれば、この伏兵が縦横無尽に撃って、追っては巨味きょみすいほとりに至る。その道すがらに屍々は類々と横たわり、耿弇らは輺重二千余両を収め得た。張歩は劇県に還り、その兄弟は各々兵を分かって散じ去る。


 男はにやりと笑いて曰く「虎を調あしらって山を離れさせる計に、逸を以て労を待つ計を加える。しかし、これは引っ掛かる方が悪い。それに加えて実を以て虚を撃つとなれば、負けに妙あれど、勝ちに妙無し」

 男はまた続けて曰く「朝の気は鋭、昼の気は惰、暮れの気は帰。故に良く兵を用うる者は、その鋭気を避けて、その惰帰だきを撃つ。これ気を修める者なり。この将、『孫子兵法』を極めるも、戦わずして勝つという最上策を取らぬは、出自が突騎の地で、兵を軽んじる故か」と気に入らぬばかりに顔をひそめる。


 数日が経って、劉秀の車駕が臨淄に至る。援軍のつもりが既に戦いは終わっていた。劉秀、自ら軍をねぎらう。百官は坐し、群臣大いに会す。皇帝劉秀、耿弇に謂いて曰く「将軍、正に韓信かんしんなり。韓信は歴下を撃って名を著しくせり。今、将軍は祝阿を攻めて以て跡を発す。ここは斉の西境に非ずや」

 耿弇答えて曰く「歴下は即ち歴城なり。祝阿の東、五十里、みな斉の西境なり」

 振り返れば、大司馬呉漢は任城の劉秀に召されるや、後を全て耿弇に任せた。劉秀、耿弇は張歩を足止めにするだけで良いと思っていたが、その将が少兵で斉を殆ど平らげてしまったことに驚き、感歎する。劉秀、曰く「将軍嘗て吾に言うに、上谷の兵を以て涿郡・漁陽郡を撃ち、進んで富平・獲索を撃ち、因って東は張歩を攻め、斉を平らげようと。物事はちぐはぐと為るも、今、皆将軍の策の如し。志有る者は事ついに成るなり。将軍、斉を定む功有り。功は大司馬よりいづる。日月の如く明らかなり」

 復た皇帝劉秀、僅かに愁眉を為して曰く「昔、高帝臣下の韓信は歴下を破ってもといを開き、今、将軍は祝阿を攻めて以て功名をげる。これらは古の斉の西境であれば、この功はあい並ぶに足る。しかるに韓信は、説客れきり己に降れる斉を襲撃すも、将軍は独りにて強敵を破る。この功すなわち韓信よりもかたきなり。また斉王田横でんおうは韓信に襲われた故に、酈食其を煮殺すが、高帝は酈食其の弟、衛尉酈商れきしょうに詔してあだを討つを許さじ。張歩も前に光禄こうろく大夫たいふ伏隆ふくりゅうを殺せり。若し張歩が来て帰命すれば、吾は伏隆の父、大司徒伏湛に詔してその怨みをかせるべし。またはなはだ相似たるかな」

 皇帝劉秀が北海ほっかい郡に入り劇県に御幸すれば、張歩退いて南東の平寿へいじゅ県にとりでし、王閎おうこうは劇にて降り、蘇茂は万余人を率い来たって張歩を救う。蘇茂、張歩を責めて曰く「南陽の兵、精鋭故、延岑えんしんは善く戦うと謂えども、耿弇はこれを奔らせる。大王、如何してその陣営を攻むるや。既に吾を呼びたれば、待つことあたわざるか」

 張歩答えて曰く「ずかしや、愧ずかしや、言うべきこと無し」


 耿弇は再び張歩を追い、劉秀は使いを遣って、どちらかが相手を斬って降らば封じて列侯と為そうと張歩と蘇茂に告げさせる。敵が睦めれば分かとうとする、兵法に因る謀略である。思慮の浅い張歩は謀と見抜けず蘇茂を斬って、使いを遣ってその首を奉じさせる。自らは肩脱ぎし、斬刑台を背負いて降る。耿弇は張歩を劉秀の営舎に送り届け、兵を整えると平寿に入城する。耿弇、十二郡県すなわち城陽じょうよう琅邪ろうや、高密、膠東こうとう東萊とうらい、北海、斉、千乗せんじょう、済南、平原へいげん、泰山、臨淄の軍旗・陣太鼓によって張歩の兵をして各々郡人を旗の下に到らせれば、衆は猶十余万、輺重は七千両。皆兵を辞めさせ遣って故郷に帰らせる。耿弇、また兵を率いて城陽に到り五校の余党を降せば、斉の地、悉く平らぐ。張歩の三兄弟は各々その土地の獄に繋がれるも、劉秀、皆赦した。張歩を安丘あんきゅう侯に封じて、後に家属と共に洛陽に居住させる。

 劉秀の車駕、北海郡の各地を御幸し、亡き伏隆の弟、伏咸ふくかんに詔して伏隆の亡骸なきがらを収めさせ、納棺儀を執り行わせ、太中大夫に棺を護送させる。また詔して故地の琅邪に塚を作らさせ、伏隆の子、伏援ふくえんを以て郎中ろうじゅうと為す。次に劉秀、伏隆の従兄弟伏恭ふくきょうを、若くして叔父伏黯ふくあんの『斉詩』の学を伝え、性は孝、継母に謹んで仕える故、劇の県令と為す。

 劉秀、洛陽に還ろうと車駕を西に向ける。耿弇らにとっては凱旋であるが、耿弇は浮かれなかった。劉秀が自分の功を韓信になぞらえたからである。功名を願った耿弇、いざそれを得れば、功臣である韓信の末路、飛鳥尽きて良弓りょうきゅうおさめられ、狡兎こうと死して走狗そうくられるを思う。となれば、表情は浮かぬ。

 それより難しい顔をして馬を進ませるは馬援、漢兵の強靭、漢将の知略をまざまざと見聞し、劉秀が武将としても武勇・知略で秀でていることを己が目で確認すれば、心は如何に隗囂かいごうを降らせるかで苦悩する。天下はこの人に帰す、いや帰すべし、なれどそれを如何にわが君主に悟らせるか。

 車駕が黄河沿いに東郡に入れば、人民の老人子供数千人が車駕に訴え掛ける。涕泣ていきゅうして曰く「願わくは耿君こうくんを得んこと」

 随行者の中に前の東郡太守、高陽侯耿純がいることを聞きつけ、天子に懇願こんがんするのみ。劉秀、公卿くぎょうに謂いて曰く「耿純は年少にして甲冑を着けて軍吏と為るのみ。郡を治めて良く慕われることくの如きか」と、感歎する。様々な思いを載せて皇軍は洛陽に還る。

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