揚州

 揚州ようしゅう


 秋八月、皇帝劉秀りゅうしゅうしょう県から南東に進んで揚州九江きゅうこう寿春じゅしゅん県に御幸みゆきする。撫循ぶじゅんするためであるが、将兵を引き連れれば示威じいとも為る。その上で、各地の太守県令豪族に太中たちゅう大夫たいふらをって漢にいているかを確認する。使いの用いる言葉は寛容丁寧であるが、帰順きじゅんせねば討伐とうばつする所となるとの含みは見える。鄧晨とうしんは太中大夫の上位の光禄こうろく大夫たいふであれば、劉秀、鄧晨も使者の一員として引き連れる。

 じょ州南東端の臨淮りんわい郡の太守侯覇こうは、字は君房くんぼうというのが居る。矜持きょうじ威厳いげん好学こうがく篤志とくしにて認められ、王莽おうもうによって臨淮を預かることになり、能名のうめい有り。王莽が敗れても一郡を全うし、前の皇帝劉玄りゅうげんが召そうとするも、人民の老弱は号哭ごうこくして使者の車をさえぎり、或いは道に伏せ、みな曰く「願わくは使君に、年を以てまた留めんを乞う」

 民は妊産婦に向いて曰く「子をはぐくむこと無かれ。侯君まさに去らん。必ずまっとうすること能わず」

 使者、侯覇が召しに応ずれば臨淮が必ず乱れんことを恐れ、敢えて璽書じしょを授けず、つぶさに状を以て奏上した。この後、劉玄が敗れた故に、往来は途絶えた。

 劉秀、侯覇を召して代わりに劉度りゅうどを立てる。帰順させるために遣られた劉秀の使者、時にはその使命故に行動を逸脱いつだつすることもある。太中大夫徐惲じょうんはその臨淮郡の太守劉度を殺害する。

 止む無く劉秀は鄧晨に節を渡して徐惲を免じ、行いが公正であることを示す。もしうやむやにすれば万民をして皇帝を疑わせる所と為す。また脅しとなる討伐は実際にそれを行い、成功して見せねば脅威とならない。劉秀にはそのための絶好の的があった。盧江ろこうで天子を称する李憲りけんである。公卿百官を置き、九城をようし、兵衆は十余万。もとより劉秀が兵を引き連れて揚州に来たのは李憲を討つためである。この機に揚州諸郡に何れかにくかを選ばせる。すなわち、壇場だんじょうを設け道祖神どうそしんまつり、揚武ようぶ将軍馬成ばせいをして、新たに誅虜ちゅうりょ将軍を拝した劉隆りゅうりゅう振威しんい将軍宋登そうとう射声しゃせい校尉こうい王賞おうしょうひきいさせて、揚州北部の六安りくあん郡、九江郡、東部の丹陽たんよう郡、会稽かいけい郡の兵を発して李憲を撃たせる。

 翌九月、馬成らは李憲を盧江郡の主都じょに囲む。馬成は劉秀の命通り、陣営の周囲の溝を深く掘り、塁壁るいへきを高くして、幾度も李憲が挑発するのにも乗らず、堅守を決め込む。

 冬十月、劉秀は洛陽らくようかえる。鄧晨は太守職に馴染なじみ名もある故、九江太守として留まらせる。侯覇はうわさ通りの能臣と分かれば、尚書令しょうしょれいと為して鄧晨の代わりに都に連れ帰る。洛陽では太傅たいはく卓茂たくぼこうず、老衰である。劉秀、内棺うちひつぎ外棺そとひつぎ・墓地を用意させ、自ら白装束しろしょうぞくの喪服となり、これを送る。卓戊に功有り、王莽をこばみて、劉秀に仕える。これは劉秀に徳有りと天下に喧伝けんでんする所である。卓茂に誉れ有り、劉秀に教えずにおのずとさとらせる。これは帝自みずからに天下をおさめさせる所である。よって劉秀は最大限の礼を以て送る。


 劉秀が帰還するのに合わせたかの様に、隗囂かいごう馬援ばえんをして書を洛陽に奉じさせる。劉秀、関中かんちゅうの情勢、馬援の人柄や目的、公孫述こうそんじゅつとの経緯いきさつ馮異ふういからつまびらかに知るところであれば、馬援が至るや、中黄門ちゅうこうもんをして宣徳せんとく殿でんに引き入れる。劉秀、只頭巾ずきんを被って殿の南廊下に引見する。

 劉秀、馬援をにこやかに笑って迎え、言いて曰く「卿は二帝の間を往来する。今、卿にまみえて、人とくらべられると思うと大いに恥じ入る」

 馬援、頓首とんしゅして、それはあらぬことと断る。馬援曰く「昨今さっこんの世、只君主だけが臣を選ぶにあらざるなり。臣も君主を選ぶもの。臣は公孫述と県を同じくし、若くして相善あいよし。臣、先にしょくに至るや、公孫述はげきを連ねてしかる後に臣を進める。臣、今遠来から来る。陛下、どうして刺客姦人しかくかんじんに非ざると分って、このように礼儀作法も服装も簡易とされるや」

 言外に言わんは、見ず知らずな者に無防備で会うことへの非難である。劉秀、馬援の言葉の額面通り、馬援の性格とその目的を知る故に無防備であった。よってた笑いて、真顔になって曰く「卿は刺客しかくに非ず、只説客せつかくなるのみ」

 しかつめな顔が一瞬後には再びほころぶ。ところが、これに馬援は飲み込まれた。公孫述は警護の兵も厳しく旧知きゅうちにも心を閉ざす。逆に劉秀は装いも軽く、見ず知らずの人間にも心を開くと見えた。単なる諧謔かいぎゃくがそうさせた。

 馬援曰く「天下は転覆し、天子の名をかすめ取る者を挙げれば切りがありません。今、陛下を見るに大器にして度量有り、高祖と同じうす。すなわち帝王に自ずから真物有るを知るなり」

 そこまで言われれば世辞せじでも嬉しい、劉秀、馬援をはなはだ壮と為す。


 翌十一月、劉秀は、将兵を引き連れ南陽なんようえんに御幸する。隴西ろうせいの使者馬援も連れる。この御幸の目的は秦豊しんほうを降すことである。秦豊とほこを交えて三年、黎丘れいきゅうに囲んで一年。けい州南部に進軍できないのは、秦豊が片付かないからである。劉秀、建義けんぎ大将軍朱祐しゅゆうに、破姦はかん将軍侯進こうしん輔威ほい将軍耿植こうしょくを率いさせ、征南せいなん大将軍岑彭しんほうに代わらせ秦豊を撃たせる。岑彭を解き放ち文字通り征南の役目と為さんがためである。朱祐、早速、とう県と舂陵しょうりょう郷の間、蔡陽さいよう県に秦豊の将張康ちょうこうを破ってこれを斬る。朱祐、黎丘に至れば、岑彭にこのたびの将兵の采配さいはい今上きんじょうが為されること、故に今上がじき沙汰さたを下されましょうと告げる。

 十二月、劉秀は黎丘に御幸し、岑彭をねぎらい、岑彭の吏士の功有る者百余人を封ず。岑彭、これまで兵力が三倍にもなる秦豊を攻め続け、首を斬ること九万級に至れば、抗う秦豊の兵の大半をほふったことになる。秦豊の残れる兵は千人程、城中の兵糧ひょうろうまさに尽きようとしている。そこで劉秀、御史中丞ぎょしちゅうじょう李由りゆうをして璽書じしょを持たせて秦豊を招かせる。しかし秦豊は悪態あくたい雑言ぞうごんし、降ることをがえんじぬ。

 劉秀、隴西の使者に漢軍の勢いを見せ、隗囂を確実に漢にかせようと思って馬援を連れてきた。よって劉秀、馬援に向って、ここに至れば降るものと思いしに、うまく行かぬものよのう、と言う。

 劉秀、洛陽に戻るに当たって、朱祐にちょくして、今城を囲む所と為ればこれを守れ、兵糧が尽きるのも近ければこれを待ち、敵が強ければまともに当たらず、敵がはやれば受け流し、敵がしのぎたればしなびるを待ち、敵が暴ならば滅ぶに任せ、敵が義にもとれば義をうたえ、と方略を与える。

 また劉秀、岑彭を積弩せきど将軍傅俊ふしゅん騎都尉きとい臧宮ぞうきゅうと共に江南こうなんに遣ろうと、すなわち征南を命じる。次に侍中じちゅう趙憙ちょうき簡陽かんようしょうと為し任地に遣ろうと欲す。劉秀、趙憙に騎都尉の儲融ちょゆうより兵二百を受けて、道中を行くべしと勅したが、趙憙、今上にもうすらく、儲融の兵を受けることを願わず、単車で簡陽にき、その形勢を量ろう、と。皇帝劉秀、これを許す。いざ趙憙が簡陽に至れば、吏民は趙憙を入れることを欲しない。そこで趙憙、すなわちげて諭して城中の長老を呼び、皇帝の命でやって来たと節を見せ、寸分もたじろぐことなく、国家の威信を示す。そのすいただちに門を開き、後ろ手に縛って帰順する。これによって諸所の陣営保塁はことごとく降った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る