記憶の運び屋

紡月 巳希

第九章

深淵の記憶、その実験


カイトが私の手を取り、迷うことなく地下道の奥へと走り出した。彼の足取りは澱みがなく、その背中は頼もしい光のように見えた。彼の「認識遅延」の術の効果はまだ残っているようで、追手の男たちは未だ完全に動けない。しかし、いつまでも持つ術ではないことは明白だった。

私たちは、木箱を奪った謎の男が消えた暗闇の通路を突き進んだ。通路の壁には、これまでよりもさらに複雑な配線が剥き出しで這い、規則的な機械音が響いている。地下深くへ潜れば潜るほど、空気は冷たく、そしてどこか電子的な匂いが混じり始める。

やがて、通路は巨大な金属製のハッチへと繋がっていた。ハッチの縁からは、かすかに青白い光が漏れている。カイトはハッチの表面に手を触れると、数秒間、目を閉じた。彼の指先から微かな波動が放たれ、ハッチが重々しい音を立ててゆっくりと開いた。

開かれたハッチの向こうに広がっていたのは、先ほどの記憶クリスタルが並ぶ空間とは、比べ物にならないほど大規模な施設だった。無数の発光するチューブが天井を走り、壁一面には巨大なモニターが埋め込まれている。そのモニターには、複雑な記憶の波形や、人間の脳の構造を示す三次元モデルが映し出されていた。

そして、中央には、巨大な円形の装置が鎮座している。その装置の周囲には、先ほど木箱を奪った、一際背の高い男が立っていた。彼の周囲には、白衣を着た複数の研究員らしき人物が忙しなく動き回っている。彼らの手元には、無数のクリスタルが収められたトレイが積まれていた。

「見ろ、アオイさん。」カイトが、私の耳元で囁いた。「あれが、彼らの記憶操作の中心施設だ。そして、あの男は、おそらくこの組織の幹部だろう。」

あの男の手に、私が母から託された木箱が握られているのが見えた。男は、木箱を装置の中央にある台座に慎重に置くと、装置の起動ボタンを押した。装置全体が鈍い唸り声を上げ、台座の木箱から、これまで見たことのない、どす黒い光が放たれ始めた。その光は、周囲のクリスタルが放つ青白い光を吸収し、空間全体を不気味な暗闇へと変えていく。

「…何をしているの?」私は震える声で尋ねた。

カイトの顔に、苦渋の表情が浮かんだ。

「あの木箱が偽物であることに、彼らは気づいていない。彼らは、あなたが持っていた記憶、つまり『真実の記憶』が、他の盗まれた記憶の情報を引き出す『鍵』となると考えているのだ。」

「鍵…?」

「彼らは、盗んだ記憶を操作し、都合の良いように改ざんして、それを世に放つことで、歴史や人々の認識を歪めてきた。しかし、真実の記憶は、その歪みを正す力を持つ。だからこそ、君の母親はそれを守ろうとしたのだ。」

男は装置のモニターを注視していた。モニターには、木箱から放たれるどす黒い光と、周囲のクリスタルから流れ出る青白い光が衝突し、混ざり合っていく様子が映し出されている。しかし、男の期待に反し、何かがおかしい。どす黒い光は、青白い光を吸収するどころか、逆に不安定に揺らめき始めた。

「なぜだ…!なぜ起動しない…!」男が苛立ちを露わにした。

カイトは、静かに私に語りかけた。

「あの箱は偽物。本物の記憶はここにある。」彼は、腕の中に抱えた、私の記憶を封印した木箱を軽く叩いた。「彼らが何をしようと、真実はここから生まれる。しかし、同時に…。」

カイトの視線が、装置の中心にある木箱に固定された。

「…彼らは、私たちが記憶を奪還しようとすることも見越しているだろう。これは、罠だ。」

その瞬間、ハッチの奥から、複数の足音が再び響いてきた。

「見つけたぞ!記憶の運び屋!そして、記憶の鍵となる女も!」

追手が、この場所までたどり着いたのだ。私たちは、新たな敵に囲まれてしまった。どす黒い光を放つ装置。そして、その背後には、私たちを捕らえようとする男たち。私たちは、絶体絶命の窮地に立たされていた。カイトは、私の手を強く握った。彼の瞳には、再び強い覚悟の光が宿っていた。

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記憶の運び屋 紡月 巳希 @miki_novel

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