第15話
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以降わたくしは、笑うという行為がまったくできなくなってしまいました。笑いとは生き物の発揮する最も酷な行為なのだと、臨終間際の母親の笑みを見て、気が付いてしまったからです。と同時にわたしは、自分の家族を愛することもができなくなってしまいました。自分が家族を心から愛してなどはいないということに、どうあがいても愛することなどはできないということに、問答無用に気付かされてしまったからです。そして仕事の方のやる気もまた共に消え失せてしまい、それは日々の糧を得るためのみの、単なる労働としか思えなくなってしまいました。わたしは仕事を辞め、家を出ようと考えました。全てが無意味で、虚しいものとしか思えなくなっていたからです。もちろん死ぬことも考えましたが、いずれにせよ妻と娘にだけは迷惑をかけたくない。他人だからこそ迷惑はかけられない。自死を遂げるならば、せめてマンションの月賦を払い終えてからにせねばなるまいと、そう己に鞭を振るって言い聞かせつつ、どうにか働き続けました。母親のことを強く恨みながら。見当の違う行為と解ってはいましたが、彼女を恨まねば、自らの心の均衡を保つことができなかったのです。
それから七年ほど働いたのち、わたしは仕事を辞め、署名捺印をした離婚届と実印、通帳を台所のテーブルに置き、着の身着のままで家をあとにいたしました。月賦の方はまだわずかに残っておりましたが、預金と退職金で充分にまかなえるはずです。売却も容易にできるよう、名義も妻へと変更しておきました。わたしはそれ以上はもう、ただの一日たりとも働くことができなかったのです。その日が、わたくしの限界でした。
以後何日もの間、いくつもの街を、ときおり水だけを口にしながら、ふらふらと彷徨い歩きました。死に場所を探していたのです。ですが結果的に、死ぬことはできませんでした。実を申しますと、考えるだけで、試みようとしたことさえもありません。勇気がなかったのはもちろんですが、気力がなくなってしまっていたのです。死んでしまうことすらも、そのときのわたしにはもう面倒になっていたのでした。わたしは自虐しながらも、こうして生きることこそが、弟への償いになるのだと自らに言い聞かせながら、以降は毎日ゴミ捨て場の残飯をあさり、野良犬のようにして生き続けました。そのような生活が、約十三年間続きました。
しかし皮肉なことに、わたしはいつからか、浮浪生活を愉しむようになっていたのでした。世間一般の方からすると、当時のわたしのような人間は汚らしく、惨め以外の何ものでもないように見えるかもしれません。事実その通りではあるのですが、実際には、少々ことが違うのです。自分が当事者になってみて、初めてそのことを知りました。人間汚いことなどには、すぐに慣れてしまいます。他人からするとひどく臭うでしょうが、自分にとっては、あくまでも自分の臭いにしか過ぎません。残飯あさりにしても同じです。初めこそ情けなく、かつ恥ずかしく思うのですが、すぐに慣れ、慣れてみると、街には生きてゆくに足る、充分な食料があるということに気付かされます。食料だけでなく、煙草も酒も、そうしようと思えば、ごくわずかな額ではありますが、金すらも手に入ります。道端にはまだ吸うことのできる大量の吸殻が投棄され、ゴミと共に出された酒瓶には微量ながらも酒が残されていて、目の前に箱を置いて昼寝をすれば、起きた頃には、金が入っているのですからね。根気よく探せば、たいていのものを手に入れることさえもができました。そして道行く人々は誰一人としてわたしのことなど、気にも留めないのです。どこへ行こうと、何をしようと、蔑みや哀れみの視線さえやり過ごせるようになってしまえば、こちらが何もしない限り、大人しく座っている限り、誰もわたしのことになど、見向きもしないのです。それは果てしなく孤独であると同時に、果てしなく自由でもありました。そのように、恐ろしいまでに孤独である反面、浮浪生活には、普通に生きていては決して気付くことのできない、広大なる自由が内包されていたのです。十三年後のある晩、路地裏でいつものようにバケツの蓋を開け、残飯あさりをしている最中に、唐突にわたしはその事実に気付いてしまいました。いえ、事実の方がわたしを見つけ出し、打ちのめしたと言った方が正確でしょう。それほどまでに、それはわたしにとって、衝撃的な気付きでした。人間という生き物は、果てしなく孤独かつ、誰からも真に愛されることはない、誰のことをもまた真に愛することもできない哀れな存在なのだという考えに、変わりなどはありません。しかし裏を返してみると、それは果てしなく自由で、無限の可能性に満ち溢れた存在ということでもあるのです。表面的な思考だけではなく、芯からその事実──いえ、真理に気が付いた、次の瞬間でした。それまで抱えていた見せかけの絶望は粉々に砕け散り、真の意味での絶望と、そして希望とが、同時にわたしを包み込んだのです。そうしてわたくしは、かつて一度も経験したことのない、そしてこれからも一度もないであろうと予感する、この上なく深い感動を覚えるに至ったのです」
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