第16話


  16


 ほとんどまぶたは開いていなかったけれど、ぼくには蠅原が遠い目をしていることがわかった。変わらない表情のままで蠅原は続ける。

「直後のことでございました。わたくしの目の前には、この世に存在しうる、ありとあらゆる感情と理念と想念とが交じり合って発する『光』が、ずらりと並べられておりました。これは比喩などではありません。実際に目に見えるものとして並べられていたのです。わたしの目の前には、光度と色合いの違う大小の光が、無限に存在していたのでした。そこには言うまでもなく、他のものと同じように、死という仄暗く黒い光もありました。わたしはその中から、どれを取ってもいいのです。ただ手を伸ばしさえすれば、どれでも取ることができるのです。わたしは実に十三年ぶりに笑いながら、同時に涙を零しながら、そのうちの一つにそっと手を伸ばしました。するとどうでしょう、その光はわたしの手の中に、いとも容易くすっぽりと納まるではありませんか。他の光を手にし直してみても同じです。いずれの光も、すんなりと手中に納まるのです。わたしは歓びのあまり、何度となく同じ行為を繰り返しました。そうして繰り返すうちに、自分に最も見合う光の存在を知ったのです。そしてその光を選び、手に取った直後の出来事でございました。たった今手にしたこの一つの光こそが、自分の真に選択すべきものだということが、はっきりとわかったのです。『ただ』、はっきりとわかったのです。わたしは神聖で敬虔なる想いに打たれながら、その光を手にしたままに、ふっと辺りを見渡しました。すると驚いたことに、ほんの微かにではありますが、目の前を行き交う人々の手にしている、あるいは身に纏っている光が、しごくぼんやりとではありますが、わかるようになっていたのです。己の目前に並んでいる光ほどではありませんが、薄っすらと見えるのです。音として聴くこともできましたし、波長として、肌で感じることもできました。そして時間をかけさえすれば、確実とは言えないにしても、自分の手にしている光くらいには、はっきりとわかるようになる気がしていたのです。ただそれとは別に、行き交う多くの人々が、自分に見合うべき光を選び取っていないということにだけは、そのとき既に気が付いておりました」

 蠅原は一度完全に目を閉じたあとに、半分ほどすっと開いた。

「以来、わたくしが浮浪生活を続けることは、もうありませんでした。そのときよりわたしはまったきの自由になり、自由になったからこそ初めて知り得ることのできた、わたし自身の光が照らす道を、既に歩き始めていたからです。他の選択は、かき消えてしまったのです。唯一、死という仄暗く甘美な黒い光だけが残されてはいましたが、それを選び取ってはならぬということは、わかっておりました。わたしは誘惑をきっぱりと振り払うと、自分の体格に見合った衣類をゴミの中より見つけだし、川の水で全身を洗い、身なりを整えたあと、妻の元へ戻りました。

 妻は病院にて、病に臥しておりました。決して回復する見込みのない、重篤な病を患っていたのです。わたしには妻を覆っている仄暗く黒い光が、ほんのりとではありますが、確かに見えておりました。わたしは、妻の枕元に立ちました。彼女は、わたしを受け入れてくれました。一切責めることをせずに、ただ一言だけ、お帰りなさい、と微笑んで言ってくれました。わたしは、泣きました。幼子のように幾度となくしゃくり上げながら、泣きじゃくってしまいました。人生で流す全ての涙を、一時いちどきに流し切ってしまったのです。

 以降わたくしは、病院に寝泊りするようになりました。そして数日をかけ、少しずつ、妻と話をいたしました。妻いわく、わたしとの籍は入れたままということでした。マンションは手放してしまったようですが、土地の価格が上がり、購入時の倍ほどの値で売ることができたようなので、入院生活とは言え、生活に事欠くことはなかったということです。ただ一つ気がかりなのは、娘のことなのだと言っておりました。娘は七年ほど前に結婚して子供を授かったものの、二年足らずで離婚してしまったそうです。ほどなく再婚して再び子供を授かったのですが、その子が生まれて間もない三年ほど前に、ある日忽然と姿を消したまま、いまだに帰ってこないという話でした。警察に捜索願いを出してはみたものの、梨のつぶてということでした。その一年ほどあとに、再婚相手の男性もまた姿を消したとのことですが、娘の蒸発と関係があるのかは、わかりませんでした。ただ一人残された子供は、今は再婚相手の男性の実家において、祖父母と共に暮らしているということでした。妻はそうしてあらかたを話し終えると、自分の役目を終えたかのように、まもなくあの世へと旅立ってゆきました。わたしは妻に、弟のことや、自身の身上を話す機会を永久に失ってしまいましたが、結果的には、よかったのかもしれません。

 その頃からでしょうか。わたしの視力は、急激に落ちてゆきました。稀に見る難病のために、治療は不可能だった模様です。しかし、色と輪郭がわかる程度の視力だけは、かろうじて残りました。以来ずっと同じ状態が続いています」

 何も答えないぼくをよそに蠅原はしゃべり続ける。

「かようにしてほとんどの視力を失ってしまったものの、特別な問題はありませんでした。むろん相応のつらさはあったものの、わたしはわたしのすべきことを、ただ行うのみでございました。まずはその手始めとして、妻がほとんど使うことなく残してくれていった蓄えで、アパートを借りました。そして資格を取った按摩あんまにて生計を立てながら、占い稼業を始めることにいたしました。己が手にした能力を、そうやって人さまのために使うことが、自身の歩むべき道の中に含まれていたからです。経済的な面におきましては、満額でないとは言え、一般的な年金に加え、障害者用のそれも別途支給されましたので、さほど苦労することはありませんでした。この間わたしは、娘を捜すことも続けてまいりました。妻の唯一の心残りを果たすためです。そうして生活をしているうちに、一年ほど前にこの地へと辿り着き、現在に至るのでございます」

 話が現在と繋がり、ふっと黙り込んだところを見ると、どうやら蠅原の話は終わったようだ。全てを話し終えた蠅原は、注意しなければ認識できないほどに、静かで長いため息をついた。ぼくの耳にはその音が、蠅原のこれまで生きてきた、長い長い人生の圧縮された音でもあるかのように、一種独特な感覚をたずさえながら響き、そして響き終えた。

 と。蠅原はにっこりと微笑んだ。

「さあ、そろそろ離別するお時間の模様です」

「待て」ぼくは手に取った銃を蠅原の顔の前で二、三度振ったあとに、無数の小じわの走っている眉間に狙いを定めた。「ぼくはこれから、どうすればいいんだ。教えろ、教えるんだ」

「あなたにお教えすることは、もう何もありません」

「もう、だと?」

「既に一度、お答えしたはずでございます」

 ぼくは、思い出すことができなかった。もう一度言え、とぼくは言った。

 ほんの少しだけ首を前へ傾げながら、変わらずに微笑んだままで、おゆきなさい、とささやくように蠅原は言った。「そのまま」

 蠅原のその声は、まるでもう一つの別の夢からでも聞こえてくるような、不思議な残響を伴って耳に届いた。

 繰り返し蠅原が言った。「──そのまま」


【Extra Chapter『ベルゼブブの幽鬱』〈了〉】

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ベルゼブブの幽鬱 カミュカ @kamyuka

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