第14話


  14


 爪の長くて筋張った巨大過ぎる怪物の手のひらが、若い蠅原を後ろからぐっと握り締める様子がぼくにも見える気がした。それはHPが優に一万はありそうな、ラスボスの片腕だった。蠅原はとくとくと続けている。

「その罪の意識には、このような確信も含まれておりました。それは母親が、我々兄弟が入れ替わっているという事実を、ほぼ最初から、知っていたというものでした。なぜならば母親は、臨終の間際、確かにこう言ったからです。戦争が終わるまでは大変だったけれど、『それからのわたしは、おまえのおかげで』、本当に幸せだったよ、と。わたしが弟と入れ替わったのは、終戦の直前、わずか十一日前だったのです。よって彼女が我々の入れ替わりにほぼ初めから気が付いていたことは、間違いのないことだろうと思います。こちらには確証はありませんが、おそらくはどのようにして入れ替わったのかも知っていたのでしょう。少なくともわたしが弟を殺害したであろうことは、可能性の上位に挙がっていたものと思われます。

 ただ、その際に母親が、もしもわたしを責めるようなことを言っていたとしたら、先のように罪の意識を感じることは、なかったかもしれません。たとえ感じたとしても、一時的なものに過ぎなかったはずでしょう。それほど母親はわたしによく尽くしてくれましたし、同時にそれは、彼女が弟のことをもきちんと忘れずに、愛し続けていたという証明にもなるのですから。そうして弟の死を嘆き悲しんでいる姿勢を見せることにより、生きているわたしを愛しつつ、同時に死んだ弟の存在をも、片時も忘れえずに愛していたのだという『可能性』を、提示することができたはずなのですから。ですのでもしも取り返しがつくのであれば、彼女はそのときに、わたしのことを責める言葉を口にすべきでした。ですが母親は、何らわたしを非難することなく、確かに微笑んでいたのでした。そして幸せだった、ありがとうと言ったのです。

 むろん母は母なりに、いろいろと考えた結果、わたしに感謝の言葉をことづけていったものと思われます。それは当時からわかっていたことでした。多分母親は、わたしの感じているだろうはずの罪の意識を、少しでも軽くするべく、全てを知っていたことを告白し、わたしを許したことを主張したのちに死んでゆこうと、そう思ったのでしょう。彼女は悩んだ末に、生きているものを優先すべきだと判断したものと思います。しかしその想いとは裏腹に、母親の行為は、ひどくわたしを苦しめることになってしまいました。

 なぜならわたしには、母親が発した言葉を、どうしても彼女が思っている通りに、かつ自分のいいように受け止めることが、できなかったからです。試みはしてみたのですが、駄目でした。わたしは弟を自らの手で殺した本人なのにもかかわらず、弟のことが、不憫でならなくなってしまったのです。自分が弟を利用してきたことに対しては一切何も感じなかったくせに、母親と共謀し、弟の存在をこの世から抹殺していたのかもしれぬという、先のものとは対極の『もう一つの可能性』を知ってしまってからは、彼のことが不憫で不憫で、たまらなくなってしまったのです。わたくしは、母親のわたしへの言葉を、彼女が弟のことを完全に見捨ててしまったがゆえのものと解釈してしまったからです。そしてそれは、否定できない真実でもありました。

 無視することと許すということとは、一見とても似てはおりますが、互いにまったく逆の意志が込められている行為です。わたしは母の感謝の言葉の中に、後者の『許し』ではなく、前者の『無視』を見てしまったのです。

 そもそもの話、わたしが死んだ弟に対して何も思わなかったのは、その死因がわたしだけの、秘めごとだったからです。そして弟が、母親に愛されているという前提があったからこそなのです。ですからわたくしは、罪の意識を感じずに済んだように思うのです。弟はあの世にいながら、兄のわたし越しに母親から愛されているのだと、そう信じて疑っていなかったからこそ、わたしは平静でいることができ、死んだ弟に嫉妬まですることができたのでした。しかし、実際は違っていたのです。弟はとうの昔に、母親から見捨てられていたのです。すなわちそれは、わたしが見捨てられていたということと同義でもあるのです。ともすれば見捨てられるのは弟ではなく、わたしだったかもしれないのですからね。そうして今際の際の母親の言葉によって初めてわたくしは、罪の意識に目覚めたのでした。

 ときを同じくし、人間というものは、たとえどこまでいったとしても、孤独に過ぎぬのだということをもまた、痛烈に思い知らされました。なぜならばそう、血を分けた母親から受ける以上の強い愛情を、人は誰からも受けることなどは、ありえないのですから。

 わたしの中で、何かが完全に崩れ去ってしまいました。

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