第13話


  13


 さようにして、もう一年が過ぎ去った頃のことでした。思いもよらぬ大きな不幸が、続けてわたしの下を訪れました。その一つめは、母親が病の床に臥し、臨終してしまったことでした。病名は、胃癌でございました。すぐに患部を摘出したのにもかかわらず、腕の骨と肝臓への転移が見つかり、二年ほどしたあとに、帰らぬ人となってしまったのです。

 しかし年齢的に言っても、それはいたし方のないことでした。母親は当時としては、非常に高齢でわたしたちを出産したために、齢八十を越えていたからです。よって寿命だと思えば、納得のゆくことです。問題は、もう一つの方でした。その不幸はわたしの心をしっかりと捉え、決して放すことはありませんでした。と言うのも、母親は臨終する間際にわたしの手を握り締め、じっと目を見つめ、痩せさらばえたしわだらけの顔に穏やかな笑みを浮かべながら、こう言ったのです。戦争が終わるまでは大変だったけれど、それからのわたしは、お前のおかげで本当に幸せだったよ、ありがとう、と。問題は、その後の一言でした。母は弟のではなく、確かに『わたし』の名前を呼んだのです。妻と娘がすぐそばにいたということもあり、わたしは即座に笑いながら、母さん、それはおれじゃなくて戦争で死んだ兄さんの名前だよ、と訂正いたしました。実際にそのときのわたしは、母親がうっかりしてしまっただけだろうと思っていたのです。強い痛み止めの薬を連日服用していたせいもあり、記憶が混濁しているものとばかり考えていたのでした。しかし母親は変わらずに微笑みながら、わたしの手を握る手により一層の力を込めつつ、再度ありがとうと言ったあとに、弟のではなく、やはりわたくしの名前を口にしたのです。そしてまもなくすると、静かに息を引き取りました。

 医師がわたしたち遺族へ臨終の言葉を告げている間、わたしは悲しむことも忘れ、弟を殺害した夜のことをひとり思い返しておりました。三十年近くも前の出来事ではありますが、驚くほど鮮明に思い出すことができました。その夜母親は、確かに眠りに就いておりました。何度思い返してみても間違いはありません。そうすると、それ以降に何か気付かせてしまう事柄があったのでしょう。記憶を頼りに、わたしは該当するそれを必死に探し出そうと努めました。しかし一向に思い当たることがありません。わたしは他人の前ではともかく、母親の前でだけは、完璧に弟を演じてきたはずなのです。同時に注意深く彼女を観察してもまいりました。結果気付かれたと思われるそぶりは、ただの一度も見たことがありません。いくら我が記憶を掘り起こしてみても、それら以外を探し当てることはできませんでした。ですから母親の発言は、やはり強い痛み止めの副作用による記憶の混濁と考えられました。いえ、そう考えるのがごく自然なことでしょう。他に証左は、何一つとしてないのですから。わたしは何度もそう自分に言い聞かせました。

 しかし母親は、わたしが弟ではないということを、知っていたのでした。と言いますのも、その後幾ばくもしないうちのことでした。わたしは母親を担当していた医師より診療室まで呼び出され、母親が痛み止めの薬を、死の二週間ほど前から飲んでいなかったことを知らされたのです。寝台のマットの下から大量の薬が発見されて、初めて事実がわかったとのことでした。予想していた通り、その痛み止めを服用すると、痛みが抑えられる代わりに、意識が朦朧とし、記憶が混濁するということだったのですが、おそらくはそれを嫌がって、母親は薬を飲まなかったのだろうと医師は言っておりました。同時に彼は、母親が薬を飲む様を、都度見届けていなかったことをしきりに謝っておりましたが、わたくしは、何も言いませんでした。母が自ら選んだのであれば、腹を立てることではないと思ったからです。がん患者の中には、似たような理由から、実際に痛み止めを処方してもらわない方もいるそうですからね。ただ、そうして薬を使わないとなると、わたしたち夫婦が気を使うだろうと考えたのでしょう、それで彼女は、飲むふりを続けていたのだと思います。そしてそれは、実に母親らしい行動でもありました。あまねく納得のいったわたしは、何ら問題はない旨を医師に告げると、部屋をあとにいたしました。そして後ろ手でノブを握りしめ、最後までそっとドアを閉め終えた、その、瞬間でございました。今まで一切、微塵も感じたことなどなかった、弟を殺害したという圧倒的な罪の意識が、わたしを握り潰すがごとく、一気に全身を捉えたのです」

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