第11話


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 母親は、何も気が付いていないようでした。翌朝彼女と顔を合わせても、類するそぶりをちらりとも見せません。わたしは安心して学校へ向かいました。本来なら夏季休暇だったのですが、弟の通う学校は、確実に大学へ進学させるための、補習授業を行っていたのでした。

 放課を迎えると、近隣にあった軍需工場へと向かいました。授業のあとはその工場で、主に機関銃用の弾丸の製造奉仕作業を、夜間まで行うことになっていたからです。そのように、わたしよりも年の若い学生や女生徒にとどまらず、当時は小学生までもが何らかの奉仕作業に参加させられていたのです。一歩間違えば、命をも落としかねない劇薬を扱う作業や、同然の機械を扱う作業、そして重い荷物をひたすらに運び続ける作業等と、内容はいずれも決して楽なものではありませんでしたが、特別攻撃隊として出撃したことに比べれば、何の苦にもなりませんでした。むしろ場は戦争中がゆえの活気に溢れ、愉しいものですらありました。さまざまな地域から集められたさまざまな年齢の人間による、冗談交じりの罵声や笑い声が、工場内を常時勢いよく飛び交っているのです。良きにつけ悪きにつけ、共通の敵がいると、人間とは互いの団結を強くする生き物のようです。わたしはその事実を改めて実感いたしました。

 細かい部分で戸惑うことが多々ありましたが、特に何の問題もなく、無事に日を終えることができました。わたしはその一日で、弟として生きてゆく自信を持ったのです。しかし、あるいは罪に対する報いでしょうか、運命とはまことにも皮肉なものです。翌る日、わたしが特別攻撃隊員として敵艦に突撃し、軍神として華々しく散ったという旨の記された一枚の葉書と、徴兵される前に通っていた学校からの卒業証明書が家に届けられたのです。それだけではありません。翌日を含む三日間のうちに、敵国の爆撃機により、二つの県へ新型の爆弾、いわゆる原子爆弾を落下せしめられ、多大なる犠牲者が出たという知らせが立て続けに伝わってもまいりました。そしてその六日後の十五日の正午、敗戦を知らせるあの玉音放送を、わたくしは学校で耳にしたのでした。これより非常に重大な放送がなされるからと、教員により、全生徒が呼び出された講堂において。朝顔のような形をした真鍮製のラッパ越しに放送された、初めて拝聴する天皇の、あの、詠うかのようなラジオ音声を。わたしが弟としての人生を歩み始めてから、わずか十一日後のことでございました」

 庭先から聞こえる蝉の声に耳を澄ませるような表情で蠅原が続ける。

「己の死亡通知と卒業証明書に関しては、特に驚きはしませんでした。どちらも予想していたことでしたから。ただ、そこまで早く到着するとは思ってもいませんでした。二枚の紙切れを手に持ってしばらくの間、皮肉なまなざしで眺めていたことを憶えています」

 ぼくは鴨居の上に飾られた賞状だと思っていたものが、卒業証書だということに気が付いた。振り返って見上げると確かにそうで、他のものもよく見ると、賞状ではない別の何かのようだった。

 しかし、と蠅原が続ける。

「立て続けにもたらされた原子爆弾投下の知らせは、少なからぬ衝撃をわたしに与えました。そして忘れもしない、あの日の正午に耳にした敗戦の知らせは、大いなる衝撃以外の何ものでもありませんでした。戦うことを放棄し、弟になりすまして生き始めたのにもかかわらず、町中では敗戦濃厚との噂がまことしやかにささやかれていたのにもかかわらず、どこかでわたしはまだ、この先もずっと戦争が続き、やがては自国の軍が勝利を収めるのではと考えていた己の本心に、はたと気付かされたからです。わたしは自分で思っていた以上に、戦争の継続と自国の勝利を期待していたのでした。

 とは言え、わたしは弟を殺したことを、後悔はしませんでした。一切、微塵もです。そんな自分が不思議だとも、酷だとも、露ほどにも思いませんでした。意思を以ってではなく、自然に思わなかったのです。原子爆弾によって何万という人間がいっぺんに死んでしまったと知ったとき、わたくしは、心からかわいそうだと思いました。ですが弟をかわいそうだとは、決して思ったりしませんでした。わたしは弟を、思い出しさえもしませんでした。以後何度かふいに思い出すこともあるにはありましたが、それは単に、存在していたことを思い出したまでに過ぎませんでした。昨晩の献立をふっと思い出すのと同程度の行為です。かのようにわたくしは、弟については何も考えることなく、ただただ一心に戦後の混乱した世の中を、弟として生きていったのです」

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