第10話
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陸に辿り着いたわたしは、まずは付近にあった神社の境内に身を隠し、服と靴を乾かし、睡眠をとりつつ夜を待ちました。そして闇にまぎれながら、百キロあまり北方にある実家まで、二晩をかけ、徒歩で移動しました。食料は日中空襲警報が発令された際に、民家より盗んだもので補いました。逃げ惑うものたちとは逆方向に走り、無人の民家へと忍び込み、
先ほどわたくしは、国に向かうべき怒りが弟に向かってしまったと言いましたが、あるいはそれは、間違いかもしれません。厳密に言うのならば、わたしはわたしの中に沸き起こった怒りを、誰に向けるのでもなく、放棄しようとしていたのです。そのときのわたしは、一個人が大勢によって組織されたものに打ち克つなどということは、絶対にありえないのだということを、経験によって思い知らされておりました。ゆえにわたしは己の怒りを放棄し、戦争に直接参加せずともよい弟に成り代わることで、当座をしのごうとしたのだと思います。誤解されることを恐れずにあえて正直に言えば、わたしはそれほどまでに、疲れていたのです。
実家へ辿り着いたわたしは、まずは弟の部屋に忍び込み、彼を起こそうと考えました。しかし弟は起きたまま、勉学に励んでおりました。戦地へ行かない分、一刻を惜しんで学ばずにはいられなかったのでしょう。明かりは松の皮を剥いで作った手製の蝋燭を使っていました。かのごとく弟は、至って真面目な男だったのです。しかしわたしは彼の真摯さに何も感じることなく、見せたいものがあるからちょっと外に出てくれないかと言って誘い出し、近くの林へと連れて行きました。
弟は道々、興奮した様子でしゃべり続けていましたが、内容はほとんど憶えておりません。わたしは彼を殺すことだけを考えていたのですからね。そのときにはもう既に、背後より両手で首を絞めて殺すと決めておりましたので、うまくゆくように頭の中で、何度も重ねて想像していたのです。しかし弟が、自分もやはり隊に志願しようと考えている、と言ってからのことは、はっきりと憶えています。わたしは我に返ると同時に、思わず鼻で笑ってしまいました。弟は怪訝そうな顔をしてわたしを見つめました。まあお前がそう思うのならあるいはいいのかもしれんな、とだけわたしは答えました。それからわたしは現在の生活様式をさりげなく訊ねながら、目的の場所に辿り着くと、あそこの木の根元に見せたいものがあるのだと嘘をつき、弟がしゃがんだところを狙って、背後より首を絞めて殺したのです。
弟を殺すことは、それほど難しくはありませんでした。ひどく簡単だったと言ってもよいほどでした。わたくしは軍隊で日々身体を鍛えておりましたし、弟は勉学に懸命で、運動をあまりしていなかったからです。一卵性の双生児とは言えど、力の差は歴然でした。加えて、弟はまさかわたしに殺されるとは思ってもいなかったのでしょう。ほとんど抵抗することがありませんでした。何かの冗談と思っていたようです。証左に初めのうち弟は、首を絞めているわたしの手の甲を、ぽんぽんと軽く二度ほど叩きました。おそらくは笑っていたように思います。しかしわたしが力を弛めることなく、逆に強めていることに気が付くと、今度は激しく、同じ場所を何度も叩き始めました。わたしは更に力を強めました。その後弟はわたしの手を掴んで強引に引き剥がそうとしましたが、力はもう無きに等しく、幾ばくもないままに、息絶えてしまいました。そうしてわたしはいともたやすく、弟の命を奪うことができたのです。しかし彼を苦もなく殺すことのできた一番の要因は、わたしに確固たる殺意があったからだと思われます。相応の強い殺意さえあれば、たとえわたしが弟より非力だったとしても、途中いかに困難だったとしても、結果的には、確実に殺害することができたでしょうから。殺意とは、そういうものです。わたしは経験により、その事実を知ったのでございます」
ぼくは亜門がいとも簡単に太一を撃ち殺したときのことを思い出した。逆にルシがなかなか亜門を撃とうとしなかったことも。確かに蠅原の言う通りなのかもしれない。蠅原は続けている。
「弟を殺し終えたわたしは、一度家へ戻り、物置からこっそりとシャベルを持ち出して、元の場所に戻りました。そして近くの木の下に深い穴を掘り、裸にした弟を埋めました。自分の着ていた航空隊の軍服一式と一緒に、永ヰの形見だった帽子も埋めました。林は今も同じ場所に、変わらずに残っているようです。
その後わたしは弟の衣服を身に着け、家へ帰りました。シャベルを元の場所に戻し、母親が眠っているのを確認したあとで、部屋へ行って布団に入りました。気持ちは昂ぶってなどいませんでした。罪の意識も驚くほどにありません。わたしはすぐに深い眠りへと落ちてゆき、朝までぐっすりと眠りました。
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