第9話
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むろん、全ては命あっての物種です。とにかく今は、無事に基地へ戻ることだけに集中しようと思いました。少しでも操縦の気を抜こうものならば、墜落でもしかねないほどに、天候が激しいものになっていたからです。突撃を中止した現在、他の原因で命を落とすことだけは、どうしても避けたいという心境でありました。
三十分ほど飛び続けたときのことでしょうか。本当ならば特別攻撃を行っているはずの、夜明けに至る、数刻前のことでした。天候は依然として不順でしたが、それ以上悪化することはなく、踏みとどまってくれておりました。この様子なら、ことなく基地まで戻ることができるだろうという状況です。しかし突然、前方上空で雷鳴がとどろき始め、その直後、永ヰとわたしの乗った練習機は、落雷にあってしまったのです。
ほんの数瞬、辺りが日中のごとく明るくなったかと思うと、次の瞬間にはもう、我々の機は海上へと墜落しておりました。落雷の際、操縦桿を伝わってきた電流によって気を失ってしまい、操縦できなかったことが要因と思われます。しかし悪天候によって極限まで減速していたことと、低空飛行していたこと、そして右翼から海面へ突入して翼が折れたことにより、更に減速したといったこととが幸いし、十数秒後に気が付いたときには、機はさながら着水した飛行艇でもあるかのように、水面にぷかりと浮かんでおりました。そのようにして、落雷によって搭乗する機が墜落したのにもかかわらず、わたしは再び、奇跡的に一命を取り留めることができたのです。
わたしは助かった喜びを永ヰと分かち合おうと、すぐに振り返りました。しかし永ヰは、息絶えておりました。見た瞬間、そのことがはっきりとわかりました。両目を大きく見開き、舌をぐねりと垂らし、機銃の銃把を両手でしっかりと握りしめたまま、既にこときれていたのです。どうやら複座から突き出していた機銃へと落雷したために、電流の直撃を受けてしまったようでした。座席から抜け出したわたしは機体上を歩き、彼の元へとゆきました。そしてそのゴーグルをずらし、両まぶたを指の背で閉じてやりました。その後舌を押し込んで口をも閉じてやったあと、形見とするため、被っていた帽子を脱がせ、自分の帽子の上より、二重にして被りました。それから左右の紐同士を結び合わせた自らの軍靴を首にぶら下げると、沈みつつあった機首が指す方角へと向かって泳ぎ始めました。生き延びるためにです。空全体が瑠璃色へと染まり始める、夜明けが始まる直前のことでした」
蠅原はほんの微かではあるものの、またにこりと微笑んだ。
「わたくしは、運がよかったのでございます。もしも同じことが冬の寒い日に、そして夜半に起こったのならば、おそらくは生き延びることができなかったでしょう。しかし季節は真夏で、夜明けがまもなく始まろうとしている時刻でした。おかげでわたしは自分が進むべき方角を見極めることができ、荒れ模様とは言え、それほどの苦もなく泳ぎ続けることができました。海水は適度にひんやりとしていて心地よく、むしろ久しぶりの泳ぎを愉しんだほどでした。わたしは幼少の頃より、泳ぎが得意だったのです。ですからゆっくりと泳ぎ続ければ、やがては陸まで辿り着く自信がありました。ただ一つ、フカに襲われるかもしれないという心配がありましたが、それはほとんど幻のようなものです。現実でフカに襲われるようなことは、滅多にはありません。よってさほどの恐怖は覚えませんでした。
ほどなく朝がやって来て、徐々に丘が見えてまいりました。どうやら沖合で墜落したわけではないようでした。この分ならば、陸に辿り着くのはもう時間の問題だろうと思いました。雨風も凡そは収まっていて、天気も回復に向かいつつありました。しかしその反面、心は暗く沈んでおりました。あの寮のことを考えていたからです。
わたしは泳ぎながら、陸に上がってからの、自身の取るべき行動を考えておりました。当たり前に考えるのなら、基地へ戻り、結果を報告すべきだったのでしょう。しかしそうすると、またあの寮に送られるかもしれません。それでなくとも、再度特別攻撃隊へと編成されることだけは明らかです。寮に送られることにはどうにか耐えられたとしても、特別攻撃隊として出撃することだけは、もう耐えられそうにありませんでした。二度に渡る不条理な出撃により、わたくしは、自国に対する考え方が、百八十度変わってしまったのです。お国のために死ぬのは、もうまっぴらごめんでした。戦うことも同様です。かと言って逃げ出すことも、病気や怪我を装うこともままならない。ならば一体どうするのか? わたしはある決意を胸に秘め、陸へと向かって泳ぎ続けてゆきました」
そこで蠅原は一つ息をついた。
「ときに、わたくしには戦闘機の設計士となるべく、工学学校へ通うために兵役を猶予された、双子の弟がいるという話は憶えておいででしょうか?」
「ああ」とぼくが言うと、蠅原は頷いた。
「弟は、性格こそ違えど、外見はわたくしとうり二つでした。見ず知らずの他人はおろか、肉親までをも欺けるほどに、それはそれはよく似ていたのです。わたしと弟は、一卵性の双生児だったのです。これだけ言ってしまえば、陸に上がってからのわたしが一体何をしたか、もうおわかりですね?」
訊かれるまでもなく、蠅原が特攻隊だったと知った時点で、ぼくにはなんとなくわかっていた。殺したのか? とぼくは訊き返した。
自虐的な笑みを浮かべながら、蠅原がそっと頷く。
「わたくしは、怒っていました。国に対してです。こんなやり方はあまりにもひどいじゃないかと、二度までも死線を乗り越えたことにより、はっきりと気が付いたのです。わたしは泳ぎながら、一度目の出撃の際に、命がけで敵機へと体当たりしてくれた、三人の男たちを思い出しておりました。彼らの言っていたことを、初めて心から、『本当に』理解することができたのです。彼らは死ぬことが怖くてあのような主張をしていたのではなかったという紛れもない事実に、気が付いたのです。その証左に、いざ戦闘状態に陥ったとき、彼らは自らの命を以ってして、敵機の粉砕に至ったのですからね。命が惜しいのならば、なんとか逃げ出すことを考えたはずでしょう。少なくとも自ら突撃していくなどということはなかったはずです。現にそのときは、わたくしも同じ気持ちでございました。特別攻撃を遂行するにあたり、心のどこかでは悔やみながらも、死ぬ覚悟はできておりました。ですからやぶれかぶれであったとしても、我が身を顧みることなく、敵機へと突撃していけたのです。そしてそれは、自国のためという想いが根底にあったからこそでした。矛盾するようですが、わたしを救って死んでいった三人にも、同じことが当てはまるだろうと思います。彼らも心の根幹では、この国を愛していたがゆえに、あのように上層部に反発しながらも、最終的には、特別攻撃隊に参加したのでしょう。それ以外の理由をうまく考えることが、自分にはできません。
次にわたしは、永ヰのことを思い出しました。本当は映画を撮りたいのだと、泣きながらわたしに打ち明けてくれた彼のことを。感傷的な映画は撮りたくないと考えながらも、万が一生き残ることができた暁には、たとえそうなってもかまわないから、我々特別攻撃隊員を描いた映画を撮りたいと言ってくれた彼のことを。しかし、その永ヰも死んでしまった。死の覚悟を決め、いざ特別攻撃へ向けて飛び立ったにもかかわらず、無念にも、帰還途中に受けた落雷によってです。我が国の軍が、現場の隊員への配慮を尋常に持っていさえすれば、回避することのできた死だったと思われます。
蠅原は少しだけあごを引いた。
「三人の死や、永ヰの死だけではありません。特別攻撃隊員として無残にも死んでいった者、他の軍隊であえなく戦死していった者や、空襲を受けて焼死していった者、原子爆弾により被曝して死んでいった者、そして貧困や、伝染病などが原因による間接的原因で命を落とした者皆を含めた、戦争にもたらされた全生物の死は、決して個々によって望まれた死ではありません。たとえ個人が自ら望んでいたとしても、根底では違います。それはそれぞれの愛国心を逆手にとって執行された、国による、言わば理由なき死刑でしかありません。それほどまでに戦争によってもたらされた死は、理不尽で、不条理で、無意味なるものに過ぎないのです。その事実に頭だけではなく、『我が身を以って』気が付いたそのとき、わたしは、怒りました。しかし残念ながら、その怒りが本来向かうべき国に向かうことは、ありませんでした。弟へと向かったのです。
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