第8話
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鼻を使って静かな深呼吸をしたあとに蠅原は続ける。
「前回と同じく吶喊錠を飲んでいたにもかかわらず、わたくしは、沸き起こる恐怖心と闘いながら操縦をしておりました。風脚が次第に強まり、いつからか空を覆っていた雲が雨をも降らせ始め、荒天になりつつあったからというわけではありません。特別攻撃を行うことが、怖かったからです。そうして命を失うことが、たまらなく怖かったからです。なぜならばそれは、一度は助かった命です。ありがちな機体の故障によるものではなく、十二人の尊き仲間の命と、時の運を以ってしてなんとか取り留めることのできた、奇跡の産物と言っても差し支えない、類い稀なき命です。それなのに再び国家というものの意思で、かつ見かけ上は自ら進んで放棄するのかと思うと、無性に怖く、そして惜しいような気持ちへとなっていたのです。しかしもはやどうすることもできません。わたしは感情を抑え込み、覚悟を決め、今度こそは特別攻撃を確と成功させるのだと、何度も自分に言い聞かせておりました。
雨風が一段と強くなり、敵の艦隊が浮かぶ目標地点まで、約半分ほどの距離を飛び終えた頃でした。本来なら引き返してもよいほどの悪天候になっていたのですが、分隊長はそうしようとはせず、あくまで強行するつもりのようでした。我々は目標地点へと向けて、ただただ黙々と、海上すれすれの高度を低空飛行し続けておりました。低空飛行をしていたのは、敵艦のレーダーに探知されにくくするためです。
目標地点まで、残り三分の一ほどに迫った頃でしょうか。雨風は強くなる一方で、収まる気配がありません。──と、右斜め前方を飛ぶ機の複座に搭乗する男が、こちらを振り向き、白い手旗を振っている姿が目に入りました。それは天候悪化により、目標を捉えきれぬ可能性が非常に高いため、全機一旦基地へ引き返すという合図でした。無線機がないために、他機との通信は、そうして手信号で行っていたのです。雨風はますます強まり、月も雲陰へと隠れ、もう前方もろくに見えぬ状態でしたから、やむを得ない判断だったと思います。残燃料から考えてみても、そこが戻ることのできる、限界の地点でした」
そこで唐突に何かを思い出したような顔になって蠅原は言った。
「それはそうと、特別攻撃隊員の乗った戦闘機には、片道分の燃料しか積んでいなかったという無情な逸話がありますが、あながち嘘ではございません。戦況悪化による慢性的な資源不足ゆえ、燃料は貴重品と化しつつあったからです。そのため訓練時には、混ぜ物の多い、粗悪な燃料を使用することが日常となりつつもありました。特別攻撃に練習機が使われることとなった背景には、おそらくはそのような事情も関係していたのでしょう。練習機は粗悪な燃料でも、最低限の飛行が可能なよう造られていたためです。そのような有様ゆえに、燃料節約のため、訓練自体が制限されるということもままありました。ですから状況や部隊によってまちまちだったようですが、出撃時において、逸話に近いことをしていたところもあったのだと聞いております。しかし現実は、やるせなきかな、より一層ひどいものでありました。これはずっとあとになってから知ったことなのですが、そもそも燃料量の問題以前に、我々の搭乗した練習機は、たとえ油槽一杯にまで給油したとしても、現地と基地とを往復できるだけの航続距離を、初めから持ち合わせてなどはいなかったという態様なのですから。そしてそれは、一度目の突撃の際に乗せられた戦闘機にしても、また然りだったのです。当たり前の話ですが、誰もその事実を我々に教えてはくれませんでした。教えたくとも教えることができなかったというところでしょうか。それは何かしらの理由によって特別攻撃に至れなかった際、海上で死ねということと同義なのですからね。
現場で働いていた整備士たちの名誉のために言っておきますが、彼らは上からの命令に仕方なく従っていただけであって、我々に悪意を持っていたわけではありません。個人的には、彼らの全員が、まだ年端もゆかぬ若い我々のことを随時丁重にもてなしてくれ、できる以上のことをしてやろうと、精一杯心がけてくれていたように思います。事実採用こそされませんでしたが、わたしたちの出撃の際も、燃料を多く積んだ方が特別攻撃の威力が増すという主張の下に、油槽の増設を上層部へ要望してくれていたようです。当時は自分が乗らぬからといってひどい提案をするものだと密かに思ったものですが、実際のそれは、我々の境遇を不憫に思った彼らの手による、何かあった際に無事帰還することができるようにとの、非情さを装った、心ある根回しだったのです」
そこで蠅原がにこりと微笑む。
「話を戻しましょう。かような次第で、我々は全員基地へと引き返すことになりました。わたしは前方の機に続き、進路を慎重に変更しました。再び命拾いしたことに安堵こそしていたものの、またあの寮へ入らねばならぬかもしれないことを思うと、複雑な心境でありました。わたしはあの寮へは、もう二度と戻りたくはなかったからです。
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