第3話

 いちょう庵を出て、小学校に沿って右にひたすら直進したところに郵便局がある。これもまた、あの頃からいっさい姿を変えていない。この郵便局を左折すると地下鉄の駅があるはず――で、ここが最寄り。帰ってくる場所。でも今日は、ただ出ていくだけ。

 「美味しかったですって、店主に言ってきた?」

 僕は地下への階段の前で、何気なく言った。せっかくだから、なにか一言でも会話を交わしてから別れたほうが粋だろうと思った――が、美沙はなにも言わない。少し待っても、やはりなにも言わない。ちらりと見ると、彼女は遠くの何かを見つめているようだった。その視線には、もうあの頃の少女の面影はまったく感じられなかった。大人になったのだろう。彼女も、僕も。そんなことを思っていると彼女はぽつりと口を開いた。

 「見て、あのカラス。あんなに痩せてちゃ飛べないね」

 どうやら僕の発言はスルーされたようだけど、まあいいだろう。そんなことより彼女がカラスだと思っているらしいあれはどう見ても黒い折り畳み傘だ。誰かの落とし物を、誰かが拾って、丁寧に立てて道路の角に置いている。そういうふうにしか見えない。彼女は少し抜けているところがある。適当に笑って流した。

 そうこうしているうちに、時間になった。階段を降りてもホームまでは少し距離があるから、余裕を持って行ったほうがいい。

 「じゃ、行くね。ありがとう。会えてよかった」

 僕は美沙と別れ、階段を降り、改札を通ろうとした。

 が、ない。ポケットの中をまさぐる。鞄の中も確認する。ない。ICカードがない。さっきまでの行動を思い出そうとするが、だめだ、思い出せない。僕はどこで、何をしていたのだろうか。誰といたのだろうか。焦りがじわじわと広がる。

 仕方なく、近くを片っ端から探すことにした。

 足元を気にしながら歩いていると、銀色のカードが一枚、落ちているのが見えた。「いちょう庵」という老舗のうどん屋の前だった。

 しゃがみ込み、拾い上げる。ふと、入口の貼り紙が目に入った。


 ――閉店のお知らせ


 そうか、閉店したのか。一昨日で最後だったらしい。店主が一人で切り盛りしていた、みたいなことは聞いたことがある。まあ、昔から店の存在は知ってはいたものの入ったことはないので、なんの感慨もない。

 一瞬、なにかが引っかかるような感覚があったが、それが何なのかわかる前に違和感は消えた。すぐに、白い霧のように。

 とにかく、カードが見つかってよかった。僕はまた駅へと歩き出した。もう雨はやんで、曇った白い空からは光がしゃんと差した。

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