第2話

 厨房から立ち上る湯気がゆっくりと空気に溶けていく。僕と美沙以外に、客はカウンター席の、昼休みの会社員らしき男ただ一人。常連らしき雰囲気を纏ってはいるものの、特に店主と会話を交わす様子はない。彼の、新聞をめくる音のみが静寂に響く。ぺら、ぺら、ぺら――一定のリズム。本当に読んでいるのだろうか。

 二人席で向かいに座る彼女は石関美沙。彼女とは一応、幼馴染なのだが、頻繁に連絡を取り合うほどの仲ではない。久しぶりに故郷に帰ってきて、予定が合うのが美沙だけだった、というだけ。

「ここ、初めて入ったかも」

 涼し気な風鈴の音。壁にかかる昔ながらのカレンダー。うどんを啜る彼女の長いまつ毛。出汁の香りが鼻をくすぐる。

「僕も。ここら辺毎日通ってたのにな」

「本当だね」

 彼女はふふっと笑った。身なりは随分と変わったけれど、笑う美沙は昔のまんまだった。彼女はクラスでもいつも中心にいて、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプだった。傍から見れば、僕とは正反対だったに違いない――うん、実際そうだった。

 僕達の小学校の向かいにある、薄汚れた暖簾の「いちょう庵」。あの頃は気にも留めなかった。あれから二十数年、何もかもが変わり果ててしまった僕を抱きかかえるように、いちょう庵は何一つ変わらないままここにある。まあ、きっといちょう庵からしてみたら二十年なんて取るに足らない時間なのだろう。

 口数こそ少ない僕達だったが、むしろこれくらいが心地よかった。僕はもともと、人と談話を楽しむような性分じゃない。

 ふと、つゆの表面に映る蛍光灯の光に目をやった。光がやけに目を刺す。

 「最近、思うんだけど」

 色々考えるより先に、僕の口は言葉を発していた。彼女は、なに、どうせ大したことじゃないんでしょう、と言わんばかりにまったくこちらを見ない。でも深刻な空気になるほうが困る。僕は続けた。

 「……最後は皆死ぬんだよね。あのおじさんもさ、いつかは」

 美沙は目を丸くして僕を見た。カウンター席の会社員も、聞き耳を立てているのがわかる。

 そのとき、店の外で風が強くなった。窓際の席のすぐ横、小さなすりガラスの窓がかすかに揺れ、ぽつ、ぽつ、と雨粒が当たる音がする。

 「どうしちゃったの大輔」

 答えられなかった。なにを、なんのために話しているのかわからなくなった。久しぶりに会った幼馴染に、僕はなにを言っているのだろう。

 「えっと、その、なんでもない」

 そう言いかけたとき、美沙がぼそっと呟いた。

 「そりゃあね。皆死ぬ。でも怖がることないよ。死んだらもう自分じゃないんだから」

 怖がることない――言葉がすんなり入ってこない。自分が自分じゃなくなる、その感覚を彼女は受け入れられているのだろうか。僕は感情を隠すように、白い麺をすすった。

 だんだんと大きくなる雨音に紛れて、心臓の鼓動が響く。その頃にはもう、カウンターのおじさんは新聞を読むのをやめていた。

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