第十一話:時守亀<クロノテスカ>
森の深奥に向かう道は、これまでとは明らかに異なっていた。正嗣の足音が妙に響く。一歩一歩が、まるで水の中を歩いているかのように重く、空気そのものが粘性を帯びているような感覚だった。
九体の守護者を倒し、その力を継承してから、正嗣の身体能力は飛躍的に向上していた。重力を操り、霧のように身を隠し、空間を把握し、風のように駆け、鋼のような肉体で敵を粉砕する。それらの能力は今や彼の一部となっていた。しかし、この場所だけは違う。まるで時間そのものが歪んでいるかのようだった。
「また夢か」
正嗣は苔むした岩に腰を下ろし、目を閉じた。戦闘前の仮眠は、もはや習慣となっていた。リュティアからの情報を得るために。
夢の中の白い空間で、青髪の精霊は相変わらず表情を変えることなく立っていた。
「十体目の守護者です」リュティアの声は機械的だった。「時守亀、クロノテスカ。時間停滞・鈍化の能力を有します」
「時間を操るのか」
「正確には、局所的な時間の流れを変化させます。半径約十メートルの範囲で、時間の進行を最大十分の一まで遅延させることが可能です」
正嗣は眉を顰めた。これまでの守護者とは毛色が違う。物理的な攻撃や防御ではなく、時間という概念そのものを操る。
「対処法は?」
「時間停滞領域の外から攻撃するか、領域内での長期戦を覚悟することです。ただし——」リュティアは少し間を置いた。「この能力を継承することで、あなたの時間感覚が変化する可能性があります」
「どういう意味だ?」
「データが不足しています。観測を継続します」
そう言うと、リュティアの姿は薄れていった。
正嗣が目を覚ますと、森の空気がさらに重くなっていた。立ち上がろうとすると、動作が明らかに鈍い。まるで見えない糖蜜の中にいるかのようだった。
前方に、巨大な影が見えた。
そこにいたのは、想像を絶する大きさの亀だった。甲羅の直径は優に五メートルを超え、表面には複雑な幾何学模様が刻まれている。よく見ると、それは時計の文字盤のような構造をしており、無数の針が様々な速度で回転していた。頭部は岩のように重厚で、琥珀色の瞳が正嗣を見つめていた。
クロノテスカ。時の番人。
正嗣は剣の柄に手をかけた。しかし、その動作があまりにも遅い。通常なら一秒もかからない動作が、まるで水中にいるかのように引き伸ばされる。
クロノテスカは低い唸り声を上げた。それすらも、音程が下がったかのようにゆっくりと響く。
正嗣は重力操作を発動した。クロノテスカの周囲の重力を増大させようとする。だが、能力の発現も遅い。意識してから実際に重力が変化するまで、数秒のラグが生じる。
その間に、クロノテスカがゆっくりと首を振った。まるで正嗣の行動を予測していたかのように。重力の変化を感知すると、亀は四肢を甲羅に引っ込めた。増大した重力は甲羅に吸収され、効果を成さない。
正嗣は舌打ちした。それも間延びして聞こえる。
今度は俊敏性を活かして距離を詰めようとした。しかし、全力で駆けているつもりなのに、歩いているのと変わらない速度しか出ない。時間の流れが遅いのではなく、自分の動作そのものが遅延しているのだ。
クロノテスカは首を甲羅から出すと、正嗣に向かって歩き始めた。亀の動きも遅いが、相対的には正嗣と同程度の速度を保っている。つまり、クロノテスカだけは時間停滞の影響を受けていない。
正嗣は剣を抜いた。動作に三秒もかかる。クロノテスカはその間に、悠然と正嗣の側面に回り込んでいた。
巨大な頭部が正嗣に向かって突き出される。正嗣は横に飛び退こうとしたが、反応が遅すぎる。クロノテスカの頭部が正嗣の脇腹を捉えた。
鈍い衝撃。正嗣の身体が宙に舞う。だが、それも妙にゆっくりとした動きだった。空中で身体を捻り、着地の準備をする。しかし、それすらも時間がかかりすぎる。
地面に叩きつけられた時、正嗣は奇妙な感覚に襲われた。痛みはある。だが、それが脳に伝わるまでに時間がかかる。まるで痛覚神経の信号すら遅延しているかのようだった。
正嗣は立ち上がろうとした。しかし、筋肉の収縮から実際の動作まで、全てが遅れる。この状況では、まともな戦闘は不可能だった。
クロノテスカが再び接近してくる。今度は前足を振り上げた。正嗣は回避しようとしたが、間に合わない。前足が正嗣の肩を打った。
骨にひびが入る音が、低音で響いた。正嗣は再び吹き飛ばされる。
着地した正嗣は、荒い息を吐いた。この戦い方では勝ち目がない。時間停滞領域から脱出する必要がある。
正嗣は空間把握の能力を使った。周囲の空間構造を認識し、時間の流れが正常な場所を探す。しかし、クロノテスカを中心とした半径十メートルの円形領域全体が、時間停滞の影響下にあった。
領域の境界まで移動するには、この遅延した動作で五分以上かかる計算だった。その間、クロノテスカに一方的に攻撃される。
正嗣は別のアプローチを考えた。時間が遅いなら、その中で最適な戦術を立てればいい。思考だけは、まだ正常な速度を保っているように感じられた。
クロノテスカの攻撃パターンを分析する。亀は基本的に頭部による突き攻撃と、前足による打撃を使っている。動きは正確だが、やはり亀らしく直線的だ。
正嗣は植物操作の能力を発動した。周囲の木々から蔓を伸ばし、クロノテスカの四肢に絡ませようとする。だが、蔓の成長も遅延している。クロノテスカはその様子を見て、甲羅の模様を光らせた。
時間停滞の強度が増した。正嗣の動作がさらに鈍くなる。蔓の成長は完全に止まったかのようになった。
正嗣は歯を食いしばった。このままでは、ただの的だ。
だが、その時、正嗣の中で何かが変化した。時間の流れが遅いことに対する焦燥感が、徐々に薄れていく。代わりに、冷静な計算能力が台頭してきた。
この遅延した時間の中で、正嗣は戦術を練り直した。クロノテスカの攻撃を詳細に観察し、その隙を見つけ出す。亀の動きは確実だが、攻撃後の僅かな硬直がある。その瞬間を狙えばいい。
正嗣は鋼化の能力を発動した。皮膚が金属的な光沢を帯びる。それも遅延しているが、時間をかけて確実に硬化していく。
クロノテスカが再び頭部を突き出してくる。正嗣は完全に回避することを諦めた。代わりに、最小限の動きで急所を外し、鋼化した腕でクロノテスカの頭部を受け止めた。
鈍い金属音。正嗣の腕に激痛が走るが、骨折は免れた。そして、クロノテスカの頭部が一瞬、正嗣の近くで静止する。
正嗣は重力操作と俊敏性を同時に発動した。自分の身体にかかる重力を軽減し、同時に足に力を込める。遅延した動作でも、至近距離なら攻撃が届く。
剣がクロノテスカの首筋を捉えた。だが、刃は甲羅の縁で止まる。亀の防御力は想像以上だった。
クロノテスカは前足を振り上げる。正嗣は後退しようとしたが、間に合わない。前足が正嗣の胸を打った。
肋骨が折れる音。正嗣は口から血を吐いた。だが、その痛みすら、どこか他人事のように感じられた。時間の遅延が、感情の起伏も鈍らせているのだろうか。
正嗣は立ち上がった。血を拭いもせずに、再びクロノテスカに向かう。今度は、霧虎から得た隠密能力を使った。姿を霧のように薄くし、クロノテスカの知覚から消える。
しかし、クロノテスカの琥珀色の瞳が、正確に正嗣の位置を捉えていた。時間を操る存在にとって、空間的な隠密は意味がないのかもしれない。
正嗣は風翼鳥の能力で空中に舞い上がろうとした。だが、上昇速度があまりにも遅い。クロノテスカは首を伸ばし、空中の正嗣を捉えた。
巨大な顎が正嗣の足を咥える。クロノテスカは正嗣を地面に叩きつけた。土の味が口の中に広がる。
正嗣は起き上がろうとしたが、身体が思うように動かない。複数の骨が折れ、内臓にも損傷がある。しかし、鉄鱗熊から得た再生能力が作用し、徐々に傷が癒えていく。それも、時間停滞の影響で異常に遅いが。
クロノテスカは正嗣の真上に立った。巨大な前足が振り上げられる。このまま踏み潰されれば、再生能力があっても致命傷は避けられない。
だが、その時、正嗣の中で何かが弾けた。
時間停滞の感覚に慣れたのだ。遅延した世界の中で、正嗣の思考が加速していく。一秒が十秒に感じられる世界で、思考だけは正常な速度を保っている。つまり、相対的に思考時間が十倍に延長されているのと同じだった。
正嗣は全ての能力を統合した戦術を構築した。重力操作で自分の身体を軽くし、俊敏性で最大限の速度を出し、空間把握で最適なルートを計算し、植物操作で補助攻撃を行い、鋼化で防御を固め、隠密で攻撃タイミングを隠す。
クロノテスカの前足が降りてくる瞬間、正嗣は横に転がった。同時に、地面から伸ばした蔓がクロノテスカの後ろ足に絡みつく。亀が僅かにバランスを崩した隙に、正嗣は立ち上がった。
今度は、クロノテスカの甲羅に刻まれた模様に注目した。時計のような構造の針が、様々な速度で回転している。あれが時間操作の源だとすれば、そこが弱点かもしれない。
正嗣は重力操作を集中し、甲羅の特定の場所——最も複雑に針が回転している部分に向けて重力を収束させた。時間をかけて、徐々に重力圧を高めていく。
クロノテスカが異変に気づき、振り返る。だが、その時にはもう遅い。収束した重力が甲羅の一部を歪ませた。針の一本が停止する。
瞬間、時間停滞領域に僅かな揺らぎが生じた。正嗣の動きが一瞬だけ正常に戻る。
その瞬間を逃さず、正嗣は全速力でクロノテスカの側面に回り込んだ。甲羅の隙間、首と前足の間の柔らかい部分に剣を突き立てる。
刃が深く食い込んだ。クロノテスカが苦痛の咆哮を上げる。だが、まだ致命傷ではない。
クロノテスカは身体を回転させ、正嗣を振り落とそうとした。正嗣は剣を手放し、距離を取る。
亀の琥珀色の瞳に、初めて感情のようなものが宿った。怒り、そして僅かな畏敬。正嗣が時間停滞の中で順応し、反撃に転じたことを理解したのだ。
クロノテスカは甲羅の模様を再び光らせた。今度は、時間停滞の強度が最大まで上がる。正嗣の思考以外の全てが、ほぼ完全に停止した。
だが、正嗣はもはや慌てなかった。この極限まで遅延した時間の中で、完璧な戦術を構築する。十分な思考時間がある。急ぐ必要はない。
正嗣は森霊鹿の能力で森との調和を図った。周囲の植物と意識を繋げ、森全体を自分の身体の一部のように感じる。そして、クロノテスカの足元の地面から、太い根を隆起させることにした。
根の成長は極めて遅い。だが、クロノテスカも同様に遅い。時間をかけて確実に、根がクロノテスカの足を絡め取る。
クロノテスカが根の存在に気づいたときには、すでに身動きが取れなくなっていた。亀は甲羅に首を引っ込め、防御態勢を取る。
正嗣は螺旋蛇の空間把握能力を最大限に活用した。クロノテスカの甲羅の構造を詳細に分析し、最も脆弱な点を特定する。甲羅の継ぎ目、特に首の付け根部分に、僅かな隙間がある。
正嗣は慎重に接近した。一歩一歩に長い時間をかけながら、確実にクロノテスカに近づく。亀は根に絡まれて動けない。
正嗣は剣を構えた。砕けた手首では、剣を正しく握ることはできない。だが、手のひらに刃を押し当て、指の骨で固定するような握り方で、何とか武器を保持した。手のひらが刃で切り裂かれ、血が滴る。だが、その程度の痛みは、もはや蚊に刺された程度にしか感じられない。
狙うのは、甲羅の継ぎ目。一撃で仕留める必要がある。正嗣の体力は、もう限界を超えていた。心臓の修復は完了したが、全身の血液の大部分を失っている。脳の酸素不足で、思考にも霞がかかり始めていた。
剣を振り下ろす動作に入る。極限まで遅延した動きで、剣がゆっくりとクロノテスカに向かう。だが、その動作の途中で、正嗣の右肩の筋肉が完全に断裂した。度重なる負荷で、筋繊維が限界を超えたのだ。
剣の軌道がぶれる。致命的な部位を外れ、甲羅の硬い部分に向かってしまう。このままでは、攻撃が無効化される。
だが、正嗣は咄嗟に左手を使った。脱臼した左肩を、意図的に逆方向に捻る。関節が更に破壊されるが、一瞬だけ腕が動く角度が変わる。その瞬間に、剣の軌道を修正した。
左肩の関節が完全に粉砕される激痛。だが、正嗣の表情は変わらない。痛みを感じる感情回路が、もはやほとんど機能していなかった。
その時、クロノテスカの琥珀色の瞳が正嗣を見つめた。そこには、もはや怒りも畏敬もなかった。ただ、静謐な諦めのようなものがあった。
剣が甲羅の継ぎ目を貫いた。クロノテスカの体内を通り、心臓を貫く。
巨大な亀は、ゆっくりと崩れ落ちた。その瞬間、時間停滞領域が消失する。正嗣の周囲の時間が、一気に正常な流れに戻った。
クロノテスカの身体から、金色の光の粒子が立ち上る。それは正嗣の身体に吸い込まれていく。
新たな力が正嗣に宿った。時間停滞・鈍化の能力。局所的に時間の流れを操る力。
だが、それと同時に、正嗣の時間感覚が変化していることに気づいた。一秒という時間の長さが、これまでとは異なって感じられる。まるで一秒が十秒にも感じられるかのような錯覚。
いや、錯覚ではないかもしれない。思考速度が上がったのか、時間の流れに対する感受性が変わったのか。いずれにせよ、正嗣の内的な時間は、外界の時間とは異なるリズムを刻み始めていた。
正嗣は剣を鞘に納めた。その動作が、妙に遅く感じられる。周囲の風で揺れる葉の動きも、鳥の羽ばたきも、全てが緩慢に見える。
これが、時間を操る力の代償なのだろうか。正嗣は感情の起伏が薄れていることにも気づいた。クロノテスカを倒した達成感も、戦闘中に受けた痛みの記憶も、どこか遠いもののように感じられる。
まるで、自分が時間の外側に立っているかのような感覚。他の全てがゆっくりと進む世界で、一人だけが正常な速度で思考している。
正嗣は森の奥へと歩き続けた。十体目の守護者を倒し、新たな力を得た。残すは五体。そして最後に待つのは、グラディア・ノクスとの邂逅。
だが、正嗣はもはや急ぐ必要を感じなかった。時間は十分にある。永遠にも等しい時間が。
彼の歩く姿は、どこか浮世離れしたものになっていた。時間という牢獄の中で、一人だけが自由な囚人。それが今の正嗣の姿だった。
森の木々が風に揺れる音も、鳥の鳴き声も、全てが低音で響く。正嗣の時間と、世界の時間が、既に同期しなくなっていた。
十一体目の守護者との戦いは終わった。だが、正嗣という人間が失ったものの重さを、彼自身はまだ理解していなかった。時間感覚の変化は、単なる能力の副作用ではない。それは、人間性そのものの変質を意味していた。
時を操る力を得た代償として、正嗣は時間の流れと共に生きる人間らしさの一部を失った。それは、最終的な破滅への道程における、また一つの重要な段階だった。
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