第十話:膠質巨体〈グリソム〉
森に入ってから数ヶ月が経過していた。正嗣の身体は以前とは比べものにならないほど研ぎ澄まされ、その動きには無駄がなくなっていた。しかし、同時に何かが変わりつつあることを、彼自身もぼんやりと感じていた。それが何なのかは分からないが、以前とは違う自分になりつつあるような気がしていた。
森の奥深くへと足を進める中で、正嗣は小さな洞窟を見つけた。外の冷たい風を避けるには十分な広さがある。今夜はここで休むことにした。
焚き火を起こし、簡単な食事を済ませると、正嗣は岩壁に背を預けた。疲労が身体の奥底から湧き上がり、瞼が重くなる。意識が薄れていく中で、彼は深い眠りに落ちていった。
夢の中で、リュティアが現れた。いつものように青白い光に包まれた少女の姿で、その表情は感情を読み取ることができない。
「次の守護者について報告する」
リュティアの声は平坦で、まるで機械的なデータを読み上げるかのようだった。
「膠質巨体グリソム。全長五メートルを超える巨大ナメクジ型の魔物。通常は半透明の粘液質で構成された柔軟な身体を持つが、意志により瞬時に鋼鉄並みの硬度へ変化させることが可能」
正嗣は夢の中で頷いた。
「継承される能力は『鋼化』。身体の一部、または全身を金属と同等の硬度に変化させることができる。硬化中は動きが制限されるが、攻撃力と防御力が飛躍的に向上する。攻撃時は局所的に、防御時は全身に適用することで戦闘効率を最大化できる」
「弱点は?」
「硬化と軟化の切り替え時に一瞬の隙が生じる。また、粘液による攻撃は火に弱い。現在位置は洞窟から西に約四キロメートル、湿地帯の中央部に位置している」
リュティアの姿が徐々に薄れていく。
「記録を継続する。観測を続行」
そう言い残すと、青白い光は完全に消失した。
翌朝、正嗣は夢で得た情報を整理しながら西へと向かった。足音を消し、森の植物たちの協力を得て痕跡を隠しながら移動する。これまでに継承した能力の組み合わせは、もはや彼にとって自然な行為となっていた。
三時間ほど歩いたところで、空気が湿っぽくなってきた。木々の間から見える景色も変わり、沼地特有の植生が目立ち始める。正嗣は空間把握能力を展開し、周囲の地形を頭の中に描き出した。
湿地帯は予想以上に広大で、その中央部には特に水分の多い区域があることが分かった。おそらく、そこがグリソムの住処だろう。
正嗣は霧を纏い、気配を完全に消した。湿地帯の縁から慎重に進入する。足元は不安定で、一歩間違えれば膝まで泥に沈みそうだった。植物操作能力を使い、蔦や根を足場として利用しながら前進していく。
湿地帯の奥へ進むにつれ、異様な粘液の痕跡が目立つようになった。木の幹に半透明のゼリー状物質が付着し、それが太陽の光でキラキラと光っている。グリソムが通った跡に違いなかった。
そして、中央部の開けた水溜まりで、ついにそれと遭遇した。
グリソム——全長五メートルを超える巨大なナメクジが、ゆっくりと身体をくねらせながらそこにいた。半透明の身体は陽光を通して内部の器官らしきものが薄っすらと見え、表面には常に粘液が分泌されて濡れた光沢を放っている。
守護者は正嗣の存在にまだ気づいていない様子だった。これまでの経験から、奇襲が有効であることを彼は学んでいた。
正嗣は空間を軽く捻じ曲げ、音を吸収しながら湿地帯の縁を回り込んだ。ナイフを取り出し、突破力を込める。一撃目は確実に当てなければならない。
距離を詰め、跳躍——
その瞬間、グリソムが振り返った。巨大な身体が素早く回転し、正嗣目がけて粘液を噴射する。
正嗣は咄嗟に俊敏性と空間認識を使って軌道を変えたが、完全には避けきれない。左肩に粘液がかかり、その瞬間に身体のバランスが崩れた。
着地と同時に足を滑らせ、正嗣は湿地帯の泥の中に転倒した。
「くそっ——」
立ち上がろうとするが、足場が不安定で思うようにいかない。その隙にグリソムが接近してくる。柔軟な身体を波打たせながら、予想以上に素早い動きだった。
グリソムの頭部が正嗣目がけて振り下ろされる。正嗣は横に転がって回避したが、着地点にも粘液が撒き散らされており、再び足を取られた。
今度は逃げる間もなく、グリソムの巨大な身体が正嗣を覆いかぶさるように迫ってくる。正嗣は重力操作を発動し、自分の身体を軽くして跳躍で距離を取ろうとした。
しかし、グリソムの動きはそれを予測していたかのようだった。柔軟な身体の一部が鞭のようにしなり、空中の正嗣を叩き落とす。
正嗣は地面に叩きつけられ、背中に鈍い痛みが走った。耐久力による再生能力が働き始めるが、ダメージは確実に蓄積していく。
「こいつ……思った以上に厄介だ」
正嗣は立ち上がりながらグリソムを観察した。柔軟な身体は物理攻撃を受け流してしまう可能性が高い。ならば、これまでとは違うアプローチが必要だった。
植物操作を発動し、周囲の蔦を操って足場を安定させる。同時に霧を発生させ、視界を遮った。しかし、グリソムは視覚以外の感覚に頼っているのか、霧の中でも正確に正嗣の位置を捉えてくる。
粘液の弾幕が霧を突き抜けて飛んでくる。正嗣は空間を捻じ曲げて回避しようとしたが、粘液の量が多すぎた。右腕に直撃を受け、その粘着力で動きが制限される。
そこへグリソムが突進してきた。巨大な身体が正嗣を押し潰そうとする。正嗣は重力操作でグリソムの動きを鈍らせようとしたが——
その瞬間、グリソムの身体が急激に変化した。
半透明だった表面が瞬時に鋼鉄色に変わり、金属光沢を帯びる。硬化能力の発動だった。重力操作は硬化により重量が増したグリソムにはほとんど効果がない。
硬化したグリソムの身体が正嗣を押し潰す。肋骨に激痛が走り、呼吸が困難になった。必死にもがくが、鋼鉄と化した巨体の重圧から逃れることができない。
「がっ——」
血が口から溢れる。このままでは圧死してしまう。正嗣は残された力を振り絞り、突破力を全身に込めた。硬化したグリソムの身体に向けて拳を打ち込む。
しかし、突破力も完全に硬化した相手には効果が薄い。拳は金属音を立てて弾かれ、逆に正嗣の手に激痛が走った。
その時、グリソムが再び軟化を始めた。硬化から軟化への切り替えの一瞬——正嗣はその隙を見逃さなかった。
俊敏性を発動し、グリソムの身体の下から滑り出る。同時に植物操作で蔦を伸ばし、グリソムの身体に巻きつけた。
「今度はこっちの番だ」
正嗣は空間把握能力でグリソムの内部構造を探った。柔軟な身体の中にも、核となる器官があるはずだった。そして、それは身体の中央部、やや前寄りの位置にあることが分かった。
しかし、グリソムも黙ってはいなかった。身体を激しく振り回し、蔦を引きちぎろうとする。同時に大量の粘液を分泌し、周囲一帯を滑りやすくした。
正嗣の足元がぐらつく。バランスを崩しそうになったところで、グリソムの頭部が鞭のように振り回された。回避が間に合わず、正嗣の脇腹に直撃する。
「ぐああっ!」
十メートル近く吹き飛ばされ、正嗣は湿地帯の木に背中から激突した。肋骨が何本か折れたようで、激痛が身体を貫く。耐久力による再生が働いているが、回復が追いつかない。
グリソムが再び接近してくる。今度は身体の前半部を硬化させ、まるで巨大な槌のような攻撃を仕掛けてきた。
正嗣は飛行能力を使って空中に退避しようとしたが、粘液で翼の動きが制限されている。思うように飛べず、不安定な滑空しかできない。
グリソムの硬化した頭部が正嗣の左足を捉えた。骨が砕ける音と共に激痛が走る。正嗣は墜落し、再び泥の中に叩きつけられた。
「くそ……このままじゃ……」
正嗣の意識が朦朧としてくる。出血も激しく、左足はほとんど動かない。しかし、不思議なことに恐怖や焦燥感はあまり感じなかった。代わりに、どうすれば効率的にグリソムを倒せるかということだけを考えている自分がいた。
それが何を意味するのかは分からないが、今はそれでよかった。感情は戦闘の邪魔になる。
正嗣は冷静に状況を分析した。グリソムの硬化能力には一定のパターンがある。全身を硬化させることは稀で、主に攻撃する部位を局所的に硬化させている。そして、硬化と軟化の切り替えには僅かな時間差が存在する。
その隙を突くには、グリソムに硬化を強制させる必要があった。
正嗣は立ち上がり、再び霧を発生させた。今度は霧の中に植物操作で操った蔦を隠し、グリソムの動きを制限する罠を張り巡らせる。
グリソムが霧の中に突進してくる。蔦が絡みつくと、グリソムは身体を硬化させてそれを引きちぎろうとした。その瞬間を狙い、正嗣は空間を捻じ曲げて背後に回り込む。
ナイフに突破力を込め、軟化している部位——腹部の核の位置目がけて刺突した。
刃がグリソムの柔らかい身体に沈んでいく。しかし、致命傷には至らない。ナイフでは威力が不足していた。
グリソムが激怒し、身体を激しく振り回す。正嗣は振り落とされまいと必死にナイフにしがみついたが、粘液で手が滑り、結局地面に叩きつけられた。
今度こそ致命的なダメージを受けたかと思われたが、耐久力による再生能力が限界を超えて働いているようだった。骨折した部位も徐々に回復し始めている。
「まだ……終わらない」
正嗣は血を吐きながら立ち上がった。グリソムは怒り狂ったように身体を振り回し、周囲に粘液をまき散らしている。その様子を見て、正嗣にある考えが浮かんだ。
重力操作を発動し、グリソム周辺の粘液を一箇所に集める。大量の粘液が球状に集約され、グリソムの身体を覆った。
「今だ——」
正嗣は集約した粘液目がけて突破力を全力で発動した。しかし、狙いはグリソムではない。粘液そのものだった。
突破力により粘液の結合が破壊され、液体が爆発的に飛び散る。その衝撃でグリソムの身体が激しく揺れ、バランスを崩した。
そこへ正嗣が飛び込む。俊敏性と空間認識を組み合わせ、グリソムが体勢を立て直す前に懐に潜り込んだ。
今度は素手で攻撃する。拳に突破力を込め、グリソムの核目がけて連続で打ち込んだ。一撃、二撃、三撃——
グリソムが硬化で防御しようとするが、連続攻撃により硬化のタイミングがずれる。軟化している瞬間を狙い撃ち、正嗣の拳はついにグリソムの核に到達した。
突破力により内部組織が破壊される。グリソムの身体が痙攣し、硬化と軟化を繰り返しながら崩れ落ちていく。
最後に、正嗣は重力操作でグリソムの身体全体に強烈な重圧をかけた。既に致命傷を負っているグリソムは、その圧力に耐えきれず完全に活動を停止した。
グリソムの巨体が完全に静止すると、いつものように光の粒子が正嗣の身体に向かって流れ込んできた。今度の力は『鋼化』——身体を金属並みの硬度に変化させる能力だった。
正嗣は自分の右手を見つめ、試しに鋼化を発動してみた。皮膚が瞬時に鋼鉄色に変わり、金属光沢を帯びる。硬化した手でナイフの刃を掴んでも、傷一つつかなかった。
「これで十の力を得た……」
正嗣は呟いた。戦闘中に受けた傷も、いつの間にかすっかり治癒している。耐久力による再生能力が、継承を重ねるごとに強化されているようだった。
しかし、同時に奇妙な感覚もあった。グリソムとの死闘で感じるべきだった恐怖や苦痛が、どこか遠いものに感じられた。まるで他人事のように、客観的に戦闘を分析している自分がいる。
それが良いことなのか悪いことなのか、正嗣には分からなかった。ただ、確実に言えることは、森に入る前の自分とは明らかに違う存在になりつつあるということだった。
湿地帯を後にしながら、正嗣は残りの守護者のことを考えた。まだ五体が残っている。その全てを倒した時、自分はどのような存在になっているのだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、正嗣は森の更なる奥へと向かっていった。リュティアは現れなかった。戦闘の結果は既に記録済みなのだろう。観測者として、彼女は淡々と事実を蓄積し続けているのだった。
その夜、正嗣は新たに見つけた洞窟で焚き火を起こした。グリソムとの戦闘を振り返りながら、継承した鋼化能力を試している。
右腕だけを硬化させ、岩を殴ってみる。硬化した拳は岩を易々と砕いたが、確かに動きは鈍くなった。攻撃時は局所的に、防御時は全身に——リュティアが言った通りの使い方が最も効率的らしい。
「十の力……」
正嗣は炎を見つめながら呟いた。継承を重ねるごとに、戦闘能力は飛躍的に向上している。しかし、同時に失っているものもあるような気がしていた。
それが何なのか、はっきりとは分からない。ただ、確実に変わりつつある自分がいることだけは理解していた。その変化が最終的にどこへ向かうのか——正嗣にはまだ見えていなかった。
炎が静かに燃える音だけが、洞窟内に響いていた。
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