第九話:森霊鹿<シルヴァンハート>

風翼鳥ウィンドレイヴンを倒してから五日が経過していた。正嗣の身体には新たな力が宿っている。空間認識能力と短時間の飛行能力。それは戦闘スタイルを根本から変えるものだった。

森の奥深くを進む正嗣の足取りは、もはや人間のそれではなかった。重力操作で体重を調整し、空間認識で最適なルートを選び、時には短時間の飛行で障害を回避する。効率的で無駄がない。

「八体目の守護者です」

リュティアの声が響く。相変わらず平坦で、事務的だった。

「どんな相手だ」

「森霊鹿シルヴァンハート。森そのものと一体化した守護者です。この森で最も古い存在の一つとされています」

正嗣は歩みを止めなかった。これまでの経験から、相手の詳細は戦ってみなければ分からない。リュティアの説明は基本的な情報に過ぎない。

森の様相が変わり始めた。木々がより高く、より太く、より古くなっている。苔が幹を覆い、蔓が複雑に絡み合っている。空気も違った。湿度が高く、生命力に満ちている。木々の間を縫って進むにつれ、正嗣の感知能力が異変を察知した。

そして、正嗣は気づいた。自分が監視されていることに。

感知能力が反応している。しかし生命反応がどこにあるのか特定できない。まるで森全体が生きているかのような感覚だった。樹木の一本一本、地面に生える草の一本一本、空気中を漂う花粉の一粒一粒まで、すべてが意識を持っているような錯覚に陥る。

「この森自体が守護者なのか」

正嗣がそう呟いた瞬間、足元の地面が盛り上がった。咄嗟に跳躍して回避すると、そこから巨大な根が突き出してくる。太さは人間の胴体ほどもあり、先端が槍のように鋭く尖っていた。

疾風兎の俊敏性で着地点を変えながら、正嗣は空間把握で周囲の状況を確認した。地中に無数の根が張り巡らされている。それらすべてが蠢き、正嗣を狙って動いている。

森が蠢いていた。

木々の幹が軋み、枝が正嗣に向かって鞭のように伸びてくる。正嗣は重力操作で身体を軽くし、短時間飛行で枝を回避した。しかし次の瞬間、上空の枝葉が一斉に降り注いでくる。一枚一枚が刃物のように鋭く研ぎ澄まされていた。

空間認識が危険を察知し、正嗣は空間を歪めて葉の軌道を逸らした。螺旋蛇から得た空間把握能力の応用だった。しかし森の攻撃は止まない。逸らした葉が地面に刺さると、そこから新しい芽が生え、瞬く間に成長して正嗣の足元を狙ってくる。

正嗣はナイフを構えた。突破力を込めて迫る蔓を切断する。刃が蔓を両断すると、緑色の樹液が飛び散った。しかし切られた蔓の断面から新しい芽が生え、瞬く間に再生していく。再生した蔓は以前より太く、より硬く、より攻撃的になっていた。

「再生能力か」

正嗣自身も鉄鱗熊から再生能力を得ているが、この森の再生速度は異常だった。切断した端から即座に新しい枝が生え、以前より太く、より強固になっている。まるで攻撃を受けることで学習し、進化しているようだった。

森全体が正嗣を包囲しようとしていた。根は地中から、枝は上方から、蔓は四方八方から迫ってくる。正嗣は霧虎の隠密能力を使って姿を消そうとしたが、森は迷うことなく攻撃を仕掛けてきた。

「植物に隠密は通用しないか」

植物は視覚に頼らない。根から伝わる振動、空気の流れの変化、生命体の発する微細な信号、さらには呼吸による二酸化炭素の放出まで感じ取っている。正嗣の存在は隠しようがなかった。

地中から太い根が突き上がり、正嗣の足を狙った。正嗣は重力操作でその根に強烈な重力を加える。根が地面に押し付けられ、動きが止まった。しかし他の根が動きを止めた根の隙間を縫って迫ってくる。正嗣は俊敏性で回避しながら、突破力を込めたナイフで根を切断した。

だが、切断された根の断面から新しい芽が生まれる。それは瞬く間に成長し、正嗣の倍の太さになった。新しく成長した根の表面には棘が生え、触れただけで傷を負うような危険な外観を呈している。

「この戦い方では埒が明かない」

正嗣は戦術を変えようとしたが、森は彼に考える時間を与えなかった。頭上から太い枝が振り下ろされ、正嗣の頭蓋を砕こうとする。咄嗣に短時間飛行で回避するが、着地と同時に地面から棘だらけの蔓が突き出してくる。

正嗣の足首を蔓が掠める。棘が肉を裂き、血が流れた。鉄鱗熊の再生能力で傷は塞がっていくが、血の匂いが森全体を刺激したのか、攻撃がさらに激しくなった。

森全体が敵なら、森の中心を探す必要がある。正嗣は空間認識能力を最大まで展開し、周囲の生命反応を詳細に分析した。しかし森のどこを探しても、際立って強い生命反応は見つからない。まるで森全体が均等に生命力を分散させているようだった。

正嗣は短時間飛行で上空に舞い上がった。木々の枝が彼を掴もうと伸びてくるが、重力操作で枝に重力を加えて動きを封じる。しかし枝は重力に抗うように成長し、より太く、より長くなって正嗣に迫ってくる。

空中から森全体を見渡した正嗣は、ついにそれを見つけた。

森の中央部に、一際大きな古木がある。その根元に、白い影がいた。四本足で立つ優雅な生き物。頭には枝のような角を持ち、全身が薄い光に包まれている。森霊鹿シルヴァンハート。森の守護者の本体だった。

しかし、それを見つけた瞬間、森の攻撃が一段と激しくなった。まるで本体の位置を特定されたことに危機感を覚えたかのように、無数の枝と蔓と根が一斉に正嗣に襲いかかる。

正嗣は急降下でシルヴァンハートに向かおうとしたが、空中で巨大な蔓に捕らえられた。太さは正嗣の胴体ほどもある蔓が、彼の腰に巻きついて動きを封じる。

「くそ」

正嗣は突破力を込めたナイフで蔓を切断しようとした。しかし蔓の表面が異常に硬い。ナイフが半分ほどしか食い込まない。その間に他の蔓が正嗣の腕と足に絡みつき、完全に身動きを封じた。

蔓が正嗣を締め上げる。肋骨に圧力が加わり、呼吸が困難になった。鉄鱗熊の耐久力がなければ、既に骨が折れていただろう。正嗣は重力操作で自分の体重を極限まで軽くし、蔓の締め付けから逃れようとした。

しかし蔓は正嗣の重力操作に対応するように、さらに強く締め上げてくる。そして蔓の表面から細い棘が生え、正嗣の皮膚を刺した。棘の先端から何らかの毒が注入される。正嗣の視界が霞み、意識が朦朧としてきた。

「毒か」

正嗣は鉄鱗熊の再生能力で毒を中和しようとしたが、再生が追いつかない。毒の回りが早すぎる。このままでは意識を失い、森の養分になってしまうだろう。

正嗣は最後の手段に出た。空間把握で自分の周囲の空間を歪め、蔓との接触面を強制的に離した。空間の歪みが蔓を引き剥がし、正嗣は自由を取り戻す。

しかし空中に放り出された正嗣を、今度は無数の枝が待ち受けていた。槍のように尖った枝が正嗣の身体を貫こうとする。正嗣は短時間飛行で枝の間を縫って移動しようとしたが、毒の影響で動きが鈍い。

一本の枝が正嗣の左肩を貫いた。激痛が走り、血が噴き出す。続いて別の枝が右脇腹を掠め、深い裂傷を作った。正嗣の身体が血で染まっていく。

それでも正嗣は諦めなかった。痛みを無視して地面に着地し、シルヴァンハートに向かって走る。しかし地面からも攻撃が来る。棘だらけの根が正嗣の足を狙い、蔓が彼の進路を塞ぐ。

正嗣は疾風兎の俊敏性で障害を避けながら前進した。しかし毒の影響で反応速度が落ちている。根が正嗣の右足首を捉え、棘が深く食い込んだ。正嗣は突破力で根を切断したが、その間に蔓が左腕に絡みつく。

蔓を振りほどこうとした瞬間、頭上から太い枝が振り下ろされた。正嗣は咄嗟に頭を下げて回避したが、枝が背中を打った。衝撃で正嗣が前につんのめり、地面に倒れる。

すかさず地中から根が突き出し、正嗣の胸を狙った。正嗣は転がって回避したが、根の先端が胸を掠めて浅い傷を作る。傷口から血がにじんだ。

「このままでは」

正嗣は立ち上がろうとしたが、毒の影響で足元がふらつく。その隙に森の攻撃が集中した。無数の枝と蔓と根が正嗣に襲いかかる。

正嗣は重力操作で周囲の植物に強烈な重力を加えた。枝と蔓が地面に押し付けられ、動きが止まる。しかし根は地中にあるため重力の影響を受けにくい。地面の下から正嗣を狙って突き上がってくる。

正嗣は空間把握で根の軌道を予測し、最小限の動きで回避した。しかし毒で動きが鈍っているため、完全には避けきれない。根の先端が正嗣の太ももを掠め、新たな傷を作る。

傷口からさらに毒が侵入した。正嗣の意識がさらに朦朧としてくる。視界がぼやけ、手足に力が入らない。

そこに、シルヴァンハートが現れた。

白い森霊鹿が、正嗣の前に静かに立っている。美しく、神秘的で、同時に恐ろしく威厳に満ちた存在だった。角から淡い光が放たれ、その光に照らされた正嗣の傷がより深く痛んだ。

シルヴァンハートが一歩前に出ると、森全体の攻撃が一瞬止まった。まるで最後の審判を下すために、静寂が必要だったかのように。

正嗣はナイフを構えた。しかし手が震えている。毒と出血と疲労が彼の身体を蝕んでいた。

シルヴァンハートが頭を振ると、角から光の粒子が放たれた。それは美しい光景だったが、正嗣の空間認識が危険を察知する。光の粒子が地面に触れた瞬間、そこから巨大な茨が成長した。

太さは正嗣の腕ほどもあり、表面に鋭い棘が無数についている。茨は正嗣を中心として放射状に成長し、彼の逃げ場を塞いでいく。茨の成長速度は異常で、あっという間に正嗣の周囲を完全に包囲した。

正嗣は重力操作で自分の体重を極限まで軽くし、茨の隙間を縫って移動しようとした。しかし茨の成長速度が速く、隙間がどんどん狭くなっていく。正嗣の身体が茨に押し潰されそうになる。

棘が正嗣の身体の各所を刺した。腕、足、胴体、至る所に細かい傷ができる。それぞれの傷は浅いが、数が多すぎる。正嗣の身体が血で真っ赤に染まった。

「この茨を何とかしなければ」

正嗣は突破力を最大まで高めたナイフで茨を切断しようとした。しかし茨は予想以上に硬い。ナイフが半分ほどしか食い込まない。そして切断された茨の断面から、新しい棘が生えてきた。今度は以前より長く、より鋭い棘だった。

新しい棘が正嗣の頬を掠める。血が流れ、傷口が焼けるように痛んだ。棘にも毒が仕込まれているようだった。

正嗣は戦術を変えた。茨を切断するのではなく、重力操作で押し潰す。強烈な重力を茨に加えると、茨が地面に押し付けられて動きを止めた。しかしシルヴァンハートが再び角を振ると、新しい光の粒子が放たれる。今度は正嗣の足元に直接降り注いだ。

地面から無数の根が突き出してくる。正嗣は短時間飛行で回避しようとしたが、毒と疲労で飛行能力も低下していた。飛行高度が上がらず、根の成長速度に追いつかれる。

一本の根が正嗣の足首を掴んだ。その瞬間、他の根も一斉に正嗣に絡みつこうとする。正嗣は咄嗟に空間を歪めて根の軌道を逸らし、突破力で足首を掴んでいる根を切断した。

しかし切断した根の断面から新しい芽が生え、瞬く間に正嗣を包囲する。新しく生えた根は以前より太く、より攻撃的で、表面に毒を含んだ棘が密生していた。

正嗣は包囲された状態で、シルヴァンハートと対峙していた。身体は傷だらけで、毒が回って意識も朦朧としている。しかし正嗣の目に、まだ諦めの色はなかった。

「まだ、終わらない」

正嗣は気づいた。この戦いでは、守備的な戦術は通用しない。森の再生能力と成長速度に対抗するには、一気に決着をつける必要がある。そして、これまでの戦いを通じて、シルヴァンハートの能力にも限界があることが分かった。

シルヴァンハートが光を使うとき、森の成長速度が若干落ちる。エネルギーを分散させているのだ。そして大規模な攻撃を仕掛けた後は、わずかだが隙が生まれる。

正嗣は全ての能力を同時に使うことを決めた。最後の賭けだった。

まず、重力操作で自分の体重を極限まで軽くする。毒で動きが鈍っている分、物理的な負荷を軽減するのだ。次に、空間認識能力を最大まで展開し、シルヴァンハートの正確な位置と動きを把握する。そして疾風兎の俊敏性で可能な限りの速度を出し、短時間飛行で直線的に突進する。

シルヴァンハートが正嗣の動きに反応して逃げようとした瞬間、正嗣は空間把握で相手の移動先を予測し、そこに重力場を作り出した。重力場がシルヴァンハートの動きを妨害し、一瞬だが足を止めさせる。

その隙を逃さず、正嗣は突破力を最大まで込めたナイフを振るった。しかし、ナイフがシルヴァンハートに届く直前で止まった。シルヴァンハートの角から放たれた光が、ナイフの軌道上に壁を作り出していた。それは光でありながら物理的な強度を持つ不思議な障壁だった。

正嗣のナイフが光の壁に阻まれている間に、シルヴァンハートが距離を取る。そして森全体が再び蠢き始めた。今度は茨だけでなく、毒を含んだ花粉も空中に舞い始める。

「光の壁か」

正嗣は新たな障害に直面していた。しかも花粉による毒で、さらに状況が悪化している。呼吸するたびに毒が肺に入り、正嗣の体力を削っていく。

森の攻撃が再開された。今度は根、枝、蔓、茨が同時に正嗣を狙ってくる。しかもそれぞれが光に包まれ、物理的強度が増している。さらに花粉の毒で正嗣の反応速度が極限まで落ちていた。

一本の枝が正嗣の右肩を打った。衝撃で正嗣がよろめく。続いて蔓が左足に絡みつき、棘が肉に食い込む。根が地面から突き出し、正嗣の背中を突いた。

正嗣は霧虎の隠密能力で姿を消し、森の攻撃をかわしながら移動しようとした。植物相手に隠密は無意味だが、攻撃の精度を下げる効果はある。しかし毒の影響で隠密の精度も落ちており、森は容易に正嗣の位置を特定した。

シルヴァンハートの位置を空間認識で把握し、回り込むように移動する。しかしシルヴァンハートも正嗣の動きを読んでいた。正嗣が隠密状態で移動するたびに、その先回りをするように位置を変える。

「こいつ、俺の動きを予測している」

正嗣は戦術を変えた。予測されるなら、予測不可能な動きをする。正嗣は意図的に茨の中に飛び込んだ。棘が身体を傷つけるが、鉄鱗熊の耐久力と再生能力で持ちこたえる。しかし再生が毒の侵入に追いつかず、正嗣の体力は確実に削られていた。

茨の中から突然現れた正嗣に、シルヴァンハートが一瞬反応を遅らせた。その隙に、正嗣は重力操作でシルヴァンハートの身体に強烈な重力を加えた。シルヴァンハートが地面に押し付けられる。

正嗣は疾風兎の俊敏性で一気に距離を詰めようとした。しかし毒で足に力が入らず、思うように速度が出ない。それでも必死にシルヴァンハートに向かって走る。

突破力を込めたナイフを振り下ろした。しかし、またもやナイフが止まった。今度は地面から生えた巨大な樹木がナイフを受け止めていた。樹木の表面が光に包まれ、ナイフの突破力を完全に無効化している。

シルヴァンハートが重力から逃れて立ち上がる。その瞬間、正嗣の周囲に新しい茨が成長した。今度は光を纏った茨で、棘の一本一本が刀のような鋭さを持っている。

正嗣は再び包囲されていた。しかも今度の茨は前回より大きく、より密度が高い。正嗣の身体に無数の棘が刺さり、血が止まらない状態になった。

「このままでは」

正嗣は冷静に状況を分析しようとしたが、毒と出血で思考がまとまらない。意識が途切れそうになる。しかし正嗣は歯を食いしばって意識を保った。

シルヴァンハートの能力は森の操作と光の物質化。森の再生能力により、防御的な戦闘は無意味。光の壁により、直接攻撃も阻まれる。しかし正嗣は気づいていた。シルヴァンハートが大技を使った後、わずかに隙があることを。

正嗣は新しい戦術を考えついた。相手に大技を使わせ、その隙を狙う。しかしそのためには、さらに危険な状況に身を置く必要があった。

まず、霧虎の隠密能力で姿を消す。そして空間把握で森全体の構造を把握し、最も危険な場所、つまりシルヴァンハートの真正面に移動する。相手を挑発し、全力の攻撃を誘う。

茨の隙間を縫って移動する正嗣を、シルヴァンハートが追跡しようとする。正嗣は意図的に動きを大きくし、自分の位置を相手に知らせた。シルヴァンハートが罠だと気づく前に、正嗣は茨の壁を突破してシルヴァンハートの前に現れた。

「来い」

正嗣はナイフを構えて挑発した。シルヴァンハートが応じるように、角から強烈な光を放った。今度は今までで最も強力な光の壁だった。厚みがあり、範囲も広い。

しかし正嗣は既に動いていた。光の壁が形成される前に、正嗣は突然方向を変えた。疾風兎の俊敏性を使った急角度のターンだった。毒で動きが鈍ってはいるが、それでもシルヴァンハートの予測を外すには十分だった。

シルヴァンハートの予測が外れる。そこに正嗣が現れ、今度は空間を歪めてシルヴァンハートの足元の地面を不安定にした。大技を使った直後のシルヴァンハートは一瞬無防備になり、足場を失ってバランスを崩した。

正嗣は最後の力を振り絞った。重力操作で体重を最大まで重くし、落下エネルギーを利用する。突破力を込めたナイフで一気に決着をつけようとする。

シルヴァンハートが光の壁を作ろうとしたが、正嗣は予想していた。空間把握で光の軌道を予測し、空間を歪めて光の進路を逸らす。

光の壁が正嗣の攻撃軌道から外れた。

正嗣のナイフがシルヴァンハートの首筋に迫る。しかし、最後の瞬間でシルヴァンハートが動いた。致命傷は避け、肩に深い傷を負うだけに留まる。

「まだ終わらない」

傷を負ったシルヴァンハートが咆哮した。それは声というより、森全体の悲鳴のようだった。森の木々が一斉に軋み、地面が震動する。そして正嗣は見た。森のあらゆる植物が光を帯び始めるのを。根も、幹も、枝も、葉も、すべてが発光している。森全体が一つの巨大な生命体として蠢いていた。

「最後の力か」

正嗣は覚悟を決めた。これまで継承してきた全ての能力を、完全に統合して使う。毒と出血で意識が朦朧としているが、それでも最後の一撃を放つ。

重力操作で自分の体重を調整し、空間認識で最適な攻撃軌道を計算する。疾風兎の俊敏性で可能な限りの速度を出し、鉄鱗熊の耐久力で森の攻撃に耐える。霧虎の感知能力でシルヴァンハートの正確な位置を把握し、螺旋蛇の空間把握で相手の回避行動を予測する。

そして最後に、重装猪の突破力を最大まで込めたナイフで、決定的な一撃を放つ。

正嗣が動いた瞬間、森全体が彼を阻止しようと攻撃を仕掛けた。光を纏った無数の植物が正嗣を包囲する。枝、根、蔓、茨、すべてが協調して動き、正嗣の進路を完全に塞ごうとした。

しかし正嗣は止まらない。重力操作で植物の攻撃軌道を逸らし、空間を歪めて隙間を作り出す。短時間飛行で障害を回避し、俊敏性で最短距離を突き進む。

一本の光る枝が正嗣の胸を狙った。正嗣は身体を捻って回避しようとしたが、毒の影響で反応が遅れる。枝が正嗣の左胸を深く貫いた。肺に穴が開き、血が口から溢れる。それでも正嗣は前進を止めなかった。

地面から光る根が突き上がり、正嗣の腹部を狙う。正嗣は空間を歪めて根の軌道を逸らそうとしたが、力が足りない。根が正嗣の脇腹を掠め、深い裂傷を作った。内臓が見えるほどの深い傷だった。

正嗣の身体が血まみれになる。歩くたびに血の跡を残し、呼吸するたびに血を吐く。それでもシルヴァンハートに向かって歩き続けた。

光る蔓が正嗣の首に巻きつこうとした。正嗣は咄嗟に頭を下げて回避したが、蔓が首筋を掠めて皮膚を裂いた。首の血管が切れ、大量の血が噴き出す。正嗣の視界が真っ赤に染まった。

「まだだ」

正嗣は歯を食いしばって前進した。鉄鱗熊の再生能力が傷を癒そうとしているが、ダメージが再生速度を上回っている。正嗣の生命力が急速に失われていく。

シルヴァンハートが最後の光の壁を作り出そうとした瞬間、正嗣は空間把握でその動きを読み、先回りして空間を歪めていた。光が予定された場所に到達する前に、軌道が捻じ曲げられる。

光の壁が形成されない。

正嗣のナイフが、ついにシルヴァンハートの首に到達した。突破力を込められた刃が、森霊鹿の首を貫く。重力操作による加速も加わり、一撃で致命傷を与えていた。

シルヴァンハートが倒れる。その瞬間、森全体の光が消えた。植物たちが元の姿に戻り、静寂が森を包む。

正嗣も同時に倒れた。全身の傷から血が止まらず、意識が遠のいていく。このまま死ぬかもしれない。しかし正嗣の身体に、新たな力が宿り始めていた。

森霊鹿から継承された力が、正嗣の傷を癒していく。森との調和能力、そして植物操作能力。周囲の木々や草花から生命力が流れ込み、正嗣の身体を修復していく。

傷が塞がり、失った血液が補充され、毒が中和されていく。正嗣は息を吹き返した。立ち上がると、周囲の植物たちが彼に向かって枝を伸ばし、まるで祝福を送っているようだった。

「八体目を倒しました」

リュティアの声が響く。平坦で、感情のない声だった。

「ああ」

正嗣は短く答えた。以前なら、戦いの感想や次への意気込みを口にしていただろう。死の間際まで追い詰められたことに恐怖を感じたり、勝利に安堵したりしていたはずだ。しかし今の正嗣は、事実の確認以外に語る言葉を持たなかった。

恐怖も、安堵も、喜びも、何も感じない。ただ次の目標に向かうべきだという認識があるだけだった。

森を出る正嗣の足取りは、確実に変わっていた。植物が自然に道を開け、根が平らになって歩きやすくなる。森そのものが正嗣に協力しているようだった。花が咲き、実がなり、正嗣の空腹を満たすために枝を差し出してくる。

しかし正嗣は、そのことに特別な感情を抱かなかった。便利だと思うだけで、感謝や畏敬といった感情は湧いてこない。植物たちの善意を、単なる機能として認識していた。

「何かが変わったような気もしていた」

正嗣は独り言のようにそう呟く。それが何なのかは分からない。ただ、以前とは違う自分になりつつあることだけは理解していた。

死の恐怖を感じなくなっていた。あれほど深い傷を負い、意識を失いかけても、恐怖よりも次の戦いへの関心の方が強かった。痛みに対する感覚も変化している。傷の痛みを痛みとして認識はするが、それに苦痛を感じなくなっていた。

森の奥へと続く道を見つめながら、正嗣は歩き続けた。次の守護者を求めて。感情の起伏はほとんどなく、ただ目的に向かって進む機械のような正確さで。

足音が規則正しく響く。一歩一歩が同じ間隔、同じ強さで地面を踏んでいる。無駄な動きが一切ない、効率的な歩行だった。

リュティアは観測者として、契約者の変化を記録している。感情を介入させることなく、淡々とデータを蓄積する存在。正嗣の人間性の変化も、彼女にとっては単なる観測対象の一つでしかなかった。

森が正嗣を見送る中、新たな力を得た彼は、さらに深い闇へと歩を進めていく。人間性という何かを少しずつ失いながら、確実に強くなっていく存在として。

植物たちが作り出す道は、まっすぐで平坦だった。まるで正嗣の心境を表しているかのように、迷いがなく、起伏がない。ただ一直線に、最終目標へと続いている。

正嗣の背中が森の奥に消えていく。その姿には、もはや人間らしい温かみは感じられなかった。冷徹で、効率的で、目的のためなら手段を選ばない。そんな存在へと変貌しつつある正嗣の姿が、静かな森に溶け込んでいった。

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