第八話:風翼鳥<ウィンドレイヴン>

正嗣が森の深奥部で八つ目の守護者と遭遇したのは、アイアンクロウとの戦闘から5日目の霧深い早朝のことだった。

前日の夜から降り続いた雨が上がり、湿った大気が森全体を包んでいる。正嗣は慎重に歩を進めながら、感知能力を最大限に展開させていた。これまでの七体の守護者との戦闘で得た経験が、彼の警戒心を高めている。

森の奥深く、開けた空間に足を踏み入れた時、正嗣は立ち止まった。周囲を高い木々に囲まれた完全な円形の空間——直径にして五十メートルはあろうかという広さだった。地面は平坦で、まるで人工的に整地されたかのように均されている。見上げると、木々の梢が天蓋のように空を覆い、その隙間から差し込む陽光が地面に複雑な影の模様を作り出している。

「自然の闘技場」

正嗣は小さく呟いた。この場所が戦いのために用意された空間であることは疑いようがなかった。空間把握能力で周囲を詳細に探ると、円形の空間を囲む木々は全て樹齢数百年を超える巨木で、びくともしない強固な壁を形成している。逃げ場はない。

感知能力を研ぎ澄ませても、地上には何の気配も感じられない。静寂が支配する空間で、正嗣の足音だけが木霊している。しかし、微かに空気の流れが変わっているのを感じ取った。上空で、何かが動いている。

数秒後、その予感は現実となった。

突然、上空から鋭い風切り音が響いた。音速に近い何かが空気を裂いて降下してくる音だった。正嗣は咄嗟に俊敏性を発動させて横に跳んだ。次の瞬間、彼がいた場所に透明な刃のような何かが大地を深く抉った。

土と石が舞い上がり、直径一メートルほどの鋭い溝が地面に刻まれている。その溝の深さは優に三メートルを超えていた。もし回避が一瞬でも遅れていれば、正嗣の身体は真っ二つに切断されていただろう。

「風の刃」

正嗣は即座に状況を理解した。空中からの攻撃、しかも物理的な武器ではなく、風そのものを刃として使った攻撃だった。これまでの守護者にはなかった、遠距離攻撃能力を持つ相手だ。

空間把握能力を上方に向けて展開させた。三次元的な認識が頭上の空間を捉えようとするが、何かが信じられない速度で移動している。大型の鳥のような影が梢の間を縫って飛び回っているのが見えたが、その速度は目で追えるものではなかった。

正嗣は冷静に戦況を分析していた。相手は完全に空中戦を仕掛けている。高度差を利用した一方的な攻撃——これまでの地上戦とは全く異なる状況だった。

再び風切り音。今度は左斜め上から。正嗣は俊敏性で回避したが、風の刃が頬を掠めて一筋の血を流した。耐久力が即座に傷を癒すが、正嗣の表情には僅かな緊張が浮かんだ。

「地上からでは手も足も出ない」

呟きながら、正嗣は重力操作を試みた。上空に向けて引力を発生させる。しかし、まだ重力操作の技術は未熟で、せいぜい小石を持ち上げる程度の力しか出せない。相手の速度があまりにも速く、微弱な重力では影響を与えられなかった。むしろ、重力操作に意識を向けた隙に、再び風の攻撃が襲いかかった。

正嗣は急いで重力操作を中断し、俊敏性で回避する。だが、集中が分散したため回避が不完全になり、風の刃が左腕を浅く切った。また血が流れる。

「重力操作は使えない。別の手を考えなければ」

正嗣は戦術を切り替えた。隠密能力を発動させ、気配を完全に消去する。大きな樹の陰に身を潜め、じっと息を殺した。完璧な隠密状態を作り出す。

しかし、数秒後には彼の隠れ場所めがけて風の刃が飛来した。樹の幹が深く抉られ、木屑が舞い散る。正嗣は慌てて別の木陰に移動したが、またしても正確に狙い撃ちされた。

上空からでは、どれほど完璧に隠密しても意味がないのだ。真上から見下ろされれば、木陰に隠れているのは丸見えだった。

「隠密も通用しない」

正嗣は冷静に状況を整理していた。重力操作は未熟すぎて使えない。隠密は上空からでは意味がない。感知能力で相手の位置は大まかに把握できるが、速度が速すぎて正確な攻撃は困難。このままでは一方的に攻撃されるだけだ。

突破力を込めた跳躍で大きく移動しながら、正嗣は新たな戦術を模索していた。相手は完全に空中戦を仕掛けている。地上にいる限り、一方的に攻撃されるだけだ。

「ならば、こちらから上に行く」

正嗣は周囲の巨木を見上げた。樹齢数百年の大木は、幹の直径だけでも三メートルを超える。表面は荒い樹皮に覆われ、所々に枝や出っ張りがある。登攀は可能だった。

俊敏性を最大限に活用し、正嗣は最も登りやすそうな木に取り付いた。指先と足先に突破力を集中させ、樹皮に食い込ませて体重を支える。耐久力で強化された筋力と関節が、垂直な壁面での移動を可能にしていた。

登攀中も風の攻撃は続いた。正嗣の動きを予測して、次々と風の刃が飛来する。しかし、木の幹という障害物があることで、攻撃の角度は限定される。正嗣は空間把握能力で最適な登攀ルートを計算し、常に幹の反対側に回り込むように移動した。

風の刃が幹に当たるたびに、大きな傷が刻まれる。木屑が雨のように降り注ぐが、正嗣は気にせずに登り続けた。感知能力で攻撃のタイミングを予測し、俊敏性で回避動作を取る。全ての能力を総動員した防御登攀だった。

高度十メートル、十五メートルと上昇していく。攻撃を受けながらの登攀だったが、耐久力で掠り傷を即座に治癒させながら登り続けた。やがて、太い枝が横に伸びている場所に到達した。

正嗣はその枝に飛び移り、ようやく相手の姿を明確に捉えることができた。

巨大な鳥だった。翼を広げれば優に三メートルは超える漆黒の翼を持ち、鋭い嘴と爪を備えている。全身を覆う羽毛は金属光沢を帯び、陽光を受けて青緑色に輝いている。風翼鳥ウィンドレイヴン——その名に相応しく、羽ばたきと共に風の刃を生み出し、周囲の大気を自在に操っているようだった。

ウィンドレイヴンの眼は正嗣を捉えていた。黄金色の瞳には知性と、そして明確な殺意が宿っている。これまでの守護者と同様、言葉を発することはない。ただ静かに、しかし確実に正嗣を殺そうとしていた。

「ようやく同じ高度に立てた」

ウィンドレイヴンは正嗣の接近に気づくと、甲高い鳴き声を上げて急降下してきた。その速度は凄まじく、空間把握能力でも正確な軌道を予測するのに苦労する。風を切って降下する姿は、まさに生きた矢のようだった。

正嗣は突破力を込めた拳を繰り出した。だが、ウィンドレイヴンは寸前で急上昇し、攻撃をかわした。そのまま上空で旋回し、今度は風の竜巻のような攻撃を仕掛けてくる。

小規模な竜巻が正嗣の足場を襲った。枝が激しく揺れ、正嗣は必死にバランスを保とうとする。しかし、竜巻の力は想像以上に強く、枝ごと吹き飛ばされそうになった。

「速すぎる。しかも攻撃パターンが読めない」

地上での戦闘とは全く異なる状況だった。相手は三次元的な自由度を持って移動し、あらゆる角度から攻撃を仕掛けてくる。正嗣の空間把握能力は地上での立体認識には優れているが、完全な空中戦には対応しきれていなかった。

ウィンドレイヴンが再び急降下してきた。今度は爪での直接攻撃だった。正嗣は俊敏性で身を捻って回避したが、鋭い爪が肩を裂いた。耐久力が傷を癒そうとするが、爪の傷は深く、出血が止まらない。

正嗣は隣の木に飛び移り、さらに高度を上げた。枝から枝へと移動し、木々の梢に近い高さまで登ると、ウィンドレイヴンとほぼ同じ高度になった。しかし、それでも圧倒的に不利な状況は変わらない。

相手は自由に飛び回れるが、正嗣は枝や幹に縛られている。機動力の差は歴然としていた。

空間把握能力を集中させ、ウィンドレイヴンの動きを予測しようとする。だが、三次元的な高速機動は地上での戦闘とは全く異なる。上下左右、さらに斜めの動きが複雑に組み合わされ、予測が困難だった。

感知能力で相手の気配を追うが、速度が速すぎて正確な位置把握も困難。隠密能力は高度差のある戦闘では意味がない。突破力も、相手に接触できなければ無意味。これまで蓄積してきた戦闘技術が、ほとんど通用しない状況だった。

ウィンドレイヴンは正嗣の苦戦を察知したのか、より激しい攻撃を仕掛けてきた。連続する風の刃が正嗣の足場を破壊し、竜巻が枝を折り、葉を吹き散らす。

正嗣は防御に徹しながら、冷静に状況を分析し続けていた。敗北は死を意味する。ならば、必ず活路を見出さなければならない。これまで七体の守護者を倒してきた経験が、正嗣に諦めることを許さなかった。

その時、木々の梢付近の高度で、正嗣は初めて上空の風の流れを肌で感じた。微細な風の変化、気圧の違い、空気の密度——それらが複雑に絡み合って、立体的な風の地図を形成している。

地上では感じることのできなかった感覚だった。風は一様に吹いているのではなく、上昇気流、下降気流、横風が複雑に絡み合って三次元的な流れを作っている。そして、ウィンドレイヴンはその風の流れに乗って移動していた。

「風を読む......」

正嗣の中で何かが変わった。これまで感じたことのない感覚が芽生えてくる。風の流れが見えるような錯覚を覚え、ウィンドレイヴンの動きも風に乗っているのだと理解した。

鳥は風と戦っているのではない。風を利用して飛んでいるのだ。ならば、風の流れを読めれば、相手の動きも予測できるのではないか。

ウィンドレイヴンが左旋回で接近してくる。風の流れを注意深く観察すると、鳥はある特定の気流に乗って移動している。その気流の先には上昇気流があり、恐らくそこで急上昇するパターンが読めた。

正嗣は俊敏性で枝から跳躍し、突破力を込めた拳を振るう。予測通り、ウィンドレイヴンは上昇気流で急上昇を図ったが、正嗣の攻撃はその軌道を予測していた。

今度は掠った。ウィンドレイヴンの翼の端に拳が触れ、数枚の羽根が舞い散る。鳥は甲高く鳴いて距離を取ったが、その鳴き声には驚きの色があった。

初めて攻撃を当てられたのだ。

正嗣の中で新たな感覚が育っていく。風の流れを読み、空中での立体的な動きを予測する能力。そして、自分自身も空中で機動できるような感覚が生まれていた。

まだ漠然としたものだったが、確実に変化していた。風を読むという感覚が、正嗣の戦闘能力に新たな次元を加えようとしていた。

枝から枝へと跳躍する時、正嗣は風の流れに身を委ねることを試みた。重力操作を併用し、落下する力を微調整する。すると、これまでとは全く違う軌道で移動することができた。

完全な飛行ではない。しかし、風の力を利用して、より長く空中に滞在し、より複雑な軌道を描くことが可能になった。空中での移動に新たな次元が加わった——空中機動の萌芽だった。

ウィンドレイヴンが再び攻撃してくる。風の刃を連続で放ってきたが、今度は正嗣にもその攻撃パターンが読めた。風の流れの変化から、刃がどの方向から来るのかが予測できる。

正嗣は木から木へと移動し、それらを足場として空中を移動した。ウィンドレイヴンの風の刃を空間把握と新たに芽生えた風読み能力で回避し、俊敏性で接近する。

鳥は混乱しているようだった。これまで一方的に優位に立っていた空中戦で、獲物が対応してきている。ウィンドレイヴンは鳴き声を上げ、より激しい攻撃を仕掛けてきた。

三つの竜巻が同時に発生し、正嗣の足場を襲った。木々の枝が次々と折られ、葉が嵐のように舞い上がる。しかし、正嗣はもはや固定された足場に依存していなかった。風読み能力で竜巻の中心を見極め、突破力を使って風の壁を貫いた。そのまま新たに身につけた空中機動で軌道を調整し、ウィンドレイヴンに肉薄する。

鳥は慌てて回避しようとしたが、正嗣の動きは既に三次元的な予測に基づいていた。風の流れを読み、相手の回避先の位置も計算済みだった。

正嗣は重力操作で自身の落下を加速させ、突破力を最大限に込めた拳を振り下ろした。拳がウィンドレイヴンの背中を捉え、巨大な鳥は失速した。しかし、まだ致命傷には至らない。

ウィンドレイヴンは翼を広げて体勢を立て直し、怒りに満ちた眼光で正嗣を見据えた。鳥の全身から風の力が溢れ出し、周囲の空気が激しく渦巻き始める。最後の攻撃とばかりに、これまでとは比較にならないほど強力な風の攻撃を準備していた。

全身から数十もの風の刃が放出される。それぞれが地上の岩を切断するほどの威力を持ち、全方位から正嗣に向かった。加えて、大型の竜巻が二つ、正嗣の退路を断つように配置される。

回避は不可能に見えた——だが、正嗣は冷静だった。

風読み能力が最大限に覚醒していた。数十の風の刃、二つの竜巻、それら全ての軌道と威力を瞬時に分析する。空間把握能力で全体の立体配置を把握し、俊敏性で最適な回避ルートを計算する。

そして、新たに獲得した空中機動能力で、わずかな隙間を縫って刃の雨をかいくぐった。

正嗣の身体が風の刃の間を舞うように移動する。時には重力操作で落下を加速し、時には風の流れに乗って滑空する。完璧な三次元機動だった。ウィンドレイヴンの全力攻撃を、一撃も受けることなく回避し切ったのだ。

ウィンドレイヴンが全力攻撃の反動で一瞬動きを止めた瞬間、正嗣は行動を起こした。最も高い木の梢から跳躍し、全ての能力を結集した最終攻撃を放つ。

俊敏性で最大加速、突破力で攻撃力を最大化、重力操作で落下を加速、そして新たに獲得した空中機動で最適な軌道を描く——全てを統合した完璧な攻撃だった。

正嗣の拳がウィンドレイヴンの胸部を貫いた。巨大な鳥は断末魔の鳴き声を上げることなく、静かに地面へと落下していく。

正嗣も同時に落下したが、新たに身につけた空中機動で安全に着地することができた。風の流れを読み、空中での体勢制御を行う——それは既に彼の一部となっていた。

地面に降り立った正嗣は、倒れたウィンドレイヴンの亡骸を見下ろした。巨大な鳥は静寂の中で息を引き取り、もはや風の力を操ることはない。

正嗣の動きは、どこか機械的だった。感情の起伏が見えず、ただ効率的に行動している。戦闘の興奮も、勝利の喜びも、そこにはなかった。あるのは、目的を達成したという事実の確認だけだった。

鳥の亡骸に手を触れると、これまでと同様に力が流れ込んできた。しかし今回の継承は、これまでとは明らかに異なっていた。空中機動と風読み——空を制する能力が正嗣の中に定着していく過程で、彼の感覚そのものが変化していく。

風の流れを常に感じ取れるようになり、三次元的な空間認識能力が飛躍的に向上した。そして、重力に縛られない移動能力——完全な飛行ではないが、風を利用した立体機動が可能になった。

「八つ目」

呟く声は平坦で、以前とは何かが決定的に違っていた。正嗣自身も、それが何なのかを明確に理解してはいなかった。ただ、何かが変わったような気もしていた。しかし、その変化が良いことなのか悪いことなのか、もはや判断する気力も薄れていた。

重要なのは、次の守護者を倒すことだけだった。それ以外のことは、どうでも良くなりつつあった。


翌朝、彼は何の感慨もなく森の奥へと歩き始めた。空中機動能力により、必要に応じて高い位置からの偵察も可能になっている。風読み能力で周囲の気配をより広範囲に察知することもできた。

戦闘能力は確実に向上している。だが、それと引き換えに何かを失いつつある——そんな認識が正嗣の意識の片隅に微かに残っていた。

それが何なのか。なぜそれが重要なのか。

正嗣にはもう、その答えを見つける意欲が薄れ始めていた。重要なのは、次の守護者を倒すことだけだった。それ以外のことは、どうでも良くなりつつあった。

森の奥へと向かう正嗣の背中は、どこか寂しげに見えた。だが、彼自身はそのことに気づいてはいなかった。新たに獲得した空中機動能力を試すように、時折木々の間を舞うように移動しながら、彼は森の深奥部へと進んでいく。

風が正嗣の髪を撫でていく。その風も、もはや彼にとっては戦術情報の一部でしかなかった。風の美しさや、森の静寂の心地よさといった感情的な反応は、既に彼の中から消えつつあった。

九番目の守護者が待つ場所へ向かいながら、正嗣は無表情のまま歩き続けた。森の生き物たちが彼の気配を感じ取って身を潜めるが、正嗣はそのことにも気づかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る