32 富田邸にて
『
慌てた様子が
「良かったね、無事みたいだ」
ノルの言葉に富田は埃を指で拭いながら
「ああ」とだけ震える声で答えた。
富田の自宅のある長野県岡谷市神明町は山の近いのどかな田舎だった。ファミリーマートとガストが近くにあったがどちらも荒らされた様子は無く、ただ街全体に人の気配が無かった。富田の家も他と同様に家族の気配が無く、用心の為にノルが先行して屋内を探索した結果、その書き置きを見つけたのだった。
富田の家は2階建ての一軒家で2台分の駐車場と高麗芝の敷かれた広い庭があり、何処も綺麗な状態で掃除の行き届いて整理整頓がされた家だとノルは感心した。何故この薄汚い富田がこんな家に住んでいるのか不思議だった。一通り家の中を確認し、異常が無い事が分かった富田が
「しかし、避難キャンプってのは何処かなぁ」と呟く。
《パチン》ノルが何気無く壁のスイッチを押すとキッチンが明るく照らされた。
「え、電気使えるじゃん」
《シャァアア》シンクで蛇口を捻ると水が勢い良く流れ出た。
「水も出るよ」ノルがはしゃいだ声を出す。
「ほんとだねぇ」富田は驚いていた。
「ガスは?」とノルが言うと
「うちはオール電化だよ」と富田が言った。
「富田」
「なんだい?」
「私、お風呂に入る!」ノルの声は喜びで今にも爆発しそうだった。
「あ、ああ、タオルも好きに使ってよ」
「ありがとう!覗くなよ」
バルログの頭部がどうなったか脳裏にこびり付いている富田は
「覗くわけないでしょうが…」と情けない声を出した。
数分後、富田は闇の中に居た。居間の音楽プレーヤーから流れる富田のお気に入りのthe corrsが奏でる『summer sunshine』の軽快なメロディが部屋中を満たしているが、その音楽プレイヤーの液晶の光すら見えない。長い旅路の果て、やっとの思いで辿り着いた安心出来る筈の我が家のリビングだが、視力を失ったかと思う程の闇のせいで富田はソファから全く動く事が出来なかった。
「じゃあ、お風呂と部屋着借りるねぇ、
そう言ったノルの言葉に返事をしようと振り向いた瞬間、リビングが完全なる暗闇に閉ざされたのだ。きっとノルがやったんだと云う事は富田にも何となく分かっていた。
久しぶりのシャワーは格別だった。富田の家は浴室も広く、浴槽も充分に足を伸ばせる大型の物だった。
「あいつ、いい家に住んでるにぇい」温かいお湯の中で背中と両腕をぐいっと伸ばしながらノルは呟いた。シャワーも手持ちのシャワーヘッドだけでなく、天井付けの大型オーバーヘッドシャワーが付いていてノルはそれをたっぷり楽しんで身体を洗う。富田家は女性優位らしくシャンプー、トリートメント、コンディショナー、ヘアオイルと充実したラインナップが数種類ずつ揃っていた。
天井から滴ったしずくが浴槽に身を沈めたノルの鼻先に跳ねる。
「ふぅ~っ」
思えば普段は浴槽に浸かる事すらない気がする。自宅ではシャワーを浴びるだけの毎日だった。この世界になってからのほとんどは水か湯で体を拭く程度しか出来て居なかった。それを思うと、今は正に天国にいる様な気持ちだった。
「お湯に浸かる時って髪はどうしてたんだっけ…」
湯船に髪を漂わせながらノルはぼんやり考えていた。そんな事を考える内にやがて彼女は意識がゆっくりと薄れて行くのを感じていた。
《カラカラカラ》引き戸が開く音がした。
「うわ、暗っ、
「いいお湯でした、ありがとね」
悪びれずにそう言うノルの明るい声に一瞬言葉が詰まるが富田は勇気を振り絞った。
「ノルちゃん、何で真っ暗にするんだよ、あと長風呂過ぎるでしょ!」
そう言われたノルは壁の時計を見て少し考える仕草をする。
「ふむ、寝ちゃったからな、二時間くらい入ってたみたい」
全く反省する素振りが無い。
そのままノルは冷蔵庫を《ガチャリ》と開け
「お、開いてないコカ・コーラゼロあるよぉ、見た?」と言った。
「真っ暗にされて、見れないよ!」富田が怒気を含んだ声で唸ったが
「早くお風呂入りなよ、富田匂うよ」とノルは少し蔑んだ目をした。
うぐぐぐっ、と悔しさを噛み締めながら富田は
「入るよっ!」と吐き捨てた。
風呂から出た富田は変な気分だった。脱衣所と浴室内に漂う、妻とは違う女性の匂いに頭がクラクラとした。脱衣所に一歩入った瞬間怒りが霧散するのを感じ、浴室に入った時にはノルの残り香で多幸感すら感じていた。そんな自分の気持ちの変化に納得出来ずモヤモヤしたままリビングに戻るとノルが食事の準備をしていた。
「結構冷凍庫に食べる物残ってたよ、富田の為に残してくれたのかもね」
テーブルの上にはブロッコリーと人参などの根菜にオリーブオイルと塩コショウした温野菜サラダ、それに冷凍食品のラザニア、グラスには氷とコーラが入っている。ノルに貸した娘の服はジェラートピケのルームウェアでモコモコの素材の上下揃い、白地に水色のボーダー柄で下はショートパンツになっていて、そこから伸びるノルの褐色の生足が富田には性的な物よりも何か芸術作品の様に見えていた。
「明日から避難キャンプとやらを探そう」
向かい合って座ったキッチンのテーブルで、温かいラザニアを頬張りながらノルが富田に言い、富田はそれに力強く頷いた。
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