33 ダーク・シー第6巻‐2‐11・1 ノラという少女



中央の地ミッドモンドの西側にあるルーチェデルソレ市の商業地区に軽食屋台を営む夫婦が居ました。その屋台では細長く焼いたブリオッシュの上面に入れた切れ目に、塩で煮たレンズ豆とトマトで煮込んだドードー鳥の挽き肉をたっぷりと入れた物を注文ごとに作って提供しています。夫ベレロと妻マエラは若い夫婦ですがこの商売は軌道に乗り、生活は安定していました。

やがて夫婦の間に一人の娘が生まれ、その子はノラと名付けられます。ノラは幼い頃から学校に通うかたわら両親の店をよく手伝い、店は繁盛しノラが10歳になる頃には両親はそれまでの屋台から小さな店舗を構えるまでになっていました。


中央の地ミッドモンドの多くの国の学校では12歳から魔術学習を選択できます。ノラも大抵の子供と同じ様に12の年に魔術適性の試験を受ける事にしました。ノラはずっと幼い頃から魔法使いへの憧れがありましたし、この国では魔法使いは比較的裕福な暮らしができたからです。もちろん、ノラは両親の仕事もお店も大好きでしたが年中働き詰めの両親を少しでも楽させてあげたいと何時いつも思っていたのです。

試験では各学校に在籍する魔術指導者の監督の元、基礎魔術を発動できるかで適性を見ます。試験は魔術指導者の個室職員室で行われ、希望者は各々が好きなタイミングでその部屋を訪れて試験を受ける事が出来ました。


「さあ、始めるよ」試験官をつとめる初老の魔女アストリッドが優しい声で美しいチェーンの付いたダイヤモンド型のガラスの小瓶をノラの首に掛けます。瓶の中は透明の液体で満たされていました。


この小瓶は魔法の小瓶マギアボトル、自然界に存在する魔法の力を集約して貯める事のできる特別な品です。魔法の力を貯める、と云う発明がされてからこの世界では魔法使いと云うものが生まれました。魔法の力は人間にはありません。自然から集めたこの魔法力を利用する事で魔法が使えるのです。

ノラの首に掛けられた小瓶が少女の肌に触れると瓶の中の液体はゆっくりと鮮やかなブルーへと変色しました。

「へぇ、いいね。この時点でとても適正があるよ」

「ほんとう?」ノラは嬉しそうに魔女を見上げます。魔女の首から下がる三角の小瓶は赤色の液体で満たされていました。アストリッドはその瓶をつまんで見せて

「ご覧、私と色は違うが同じ様に鮮やかな色がついただろう、この色の濃さは魔術適性を示しているのさ」

「魔術てきせい」幼いノラには言葉の意味がピンとは来ません。

正位魔女ヂュスタウィチモでは終わらないかもねぇ…」アストリッドは嬉しそうにノラの小瓶を見ています。


さてここで少し魔術と魔法についてお話をしましょう。自然界に存在する魔法の力に人間が気付き、それを集めて貯めて置く技術が発明された頃、その力は『魔法』と呼ばれていました。

やがて魔法は研究され体系化され分類される様になりました。そして分類された魔法は魔術、と云う大きな括りで分けられるようになりました。つまり『水魔術』の中の『水球アクボ』魔法、と云った具合です。


「さあ、いよいよ本番だ。小瓶に込められた魔法力を使って実際に水魔術を使ってみるんだよ、いいかい」

「いいよ」

「瓶の中の力を感じるんだ、それを全身に、そして手のひらに巡らせるイメージをするんだよ」アストリッドはノラの両手を取り小さな手のひらを上に向けさせました。

「うん、わかった」ノラはそれを素直に聞いています。

「さあ、全身を巡った力が手のひらに集まったと思ったら詠唱するんだ、呪文はさっき教えた通りさ」

ノラは目を瞑り、しばらくのち《すぅ》と息を吸って

湧水フォンタクボ」と詠唱しました。

するとその途端、《コポコポコポ…》と音を立てて手のひらから清水が溢れ出し、床に大きな水溜りを作って、すぐにアストリッドの靴もノラの靴もびしょ濡れになってしまいました。

「おやおやおや、こいつは大変だ」

アストリッドにとってもこれ程の水量を一度に出す生徒は年に数える程です。

「思った通り、充分な才能だ。魔術学習科を選んで問題ないね」

「やった!」手を叩いて喜ぶノラを見てアストリッドはギョッとします。

「ちょっとそれをお見せ」そう言って彼女はノラの魔法の小瓶マギアボトルを手に取りました。

「なんて事…」

「どうしたの?」ノラは不安気にアストリッドを見上げます。

「ノラ、魔法を使った後に体調は変わらないかい?」

ノラにはアストリッドの言葉の意味が分かりませんでした。

〈大抵の子供は初めて魔法を使うと小瓶の中の魔法力を使い切って具合が悪くなったりするもんだ、ところがあれだけの水を出しておいてこの子の瓶の中はちっとも減ってやしない〉魔女は何か考え込んでいる様子です。

「ノラ、今度は両親を連れておいで」


数日後、アストリッドに呼び出されたノラとその両親は緊張の面持ちで学校の門をくぐります。両親と連れ立って歩くノラの足取りは重く、気持ちは沈んでいます。

〈何か失敗したのだろう、親を呼び出すなんて叱られるに違いない〉そう思うと魔法学習科の試験なんて受けなければ良かった、まったく気が重い、とノラは考えていました。


「お入り」魔女の声で3人が部屋に入ると、ノラは前回と部屋の様子が違う事に気が付きました。床は綺麗に掃除され、大きなスペースが空いています。机の上には橅の木の皮の巻物ビーチバークロールが置いてあり、その横には先端に淡い青色のクリスタルの嵌められた杖が立て掛けられていました。そしてアストリッド自身も髪を上げて綺麗にまとめ、普段着とは違う真っ黒いワンピースを着てかしこまった様子でいます。

「こんにちはアストリッド先生」父親のベレロが言いました。

「よく来たね、ベレロさん、マエラさん」

アストリッドは椅子から立ち上がって二人と握手をします。そして自分が座っていた椅子を前に引き出し

「ノラはここにお座り」と少女を座らせました。

「それで、ウチの子が何か…」マエラは不安げです。

「そうだね、とても大事な話だ。あなた達両親にとってはいい話か悪い話か…」

「まず、ノラにはとても魔術の才能があるよ。試験では上手に湧水魔法を使えた」

「おお」ベレロが嬉しそうにノラを見ます。

「まあ、初めてで上手に魔法を使える子は他にも幾らでも居るのさ、年に6、7人くらいはね。ノラより上手な子も居るよ」

それを聞いてノラはガッカリして俯きました。

「ただね、この子は魔法力の使い方が抜群に上手いよ。ほんの僅かな魔法力で大きな効果を出す事に長けてる、つまりね、人より沢山魔法を使えるのさ。それも今までに見たことのない圧倒的な上手さだ。これはね、沢山魔法が使えるってだけじゃないよ」アストリッドは話を続けます。

「普通の人では魔法力が足りなくて使えないような魔法を生み出す可能性があるのさ。それにこれはきっと…顕能ヴェルタさね」

「はあ」魔術に疎い二人には魔女の言う事がよく分かりません。

「私達魔術を使う者は皆、この魔法の小瓶マギアボトルに込められた魔法力を使って魔術を行う。そしてこの瓶は一人一つしか持てないし、使い切ってしまったらまた瓶に魔法力が回復するまで待たなくてはいけない、まあ一晩はかかるね」

「つまり同じ呪文をどれだけ少ない魔法力で使えるかが術師の才覚の物差しにもなるし、魔法力の使い方が下手なら大きな魔法力が必要な術はそもそも使えやしないのさ」

「つまりノラはとても良い魔法使いになると?」

「そうだね、その可能性があるよ」アストリッドはノラを見つめて、それから視線を両親に移します。

「そしてもっと決定的に優れた術師になる方法もある」

「何ですか?」ベレロが尋ねます。

《ふむぅ》と一つ息を吐き、アストリッドは言いました。

「命名魔法だ、私がこの子に新しい名前を付ける」

ノラは驚いてアストリッドを見上げた、自分にはノラと云う名前が既にあるというのにどう云う事だろう。

「はぁ?」ノラの両親もアストリッドが何を言っているのかさっぱり分からないと云った顔をしています。

「私が契約によってこの子に新しい名前を付ける、そうすると私の魔法力特性が影響してこの子の魔法力が複雑な物に変化するのさ。ノラと私のボトルの色が違うのが分かるかい?赤と青、どちらも基本色だ。これは魔法力が単純で純粋な力である事を現してる。もし二人の魔法力が同じ色だったら命名の術に効果は無いけどね、色が違えば混ざった色になる。複雑な魔法力は複雑な魔法の源になる。他の術師とは違う、オリジナルの術師になれるのさね」

「するとノラの名前は…?」マエラは不安げな表情を浮かべています。

「永遠に失われる、そう呼ぼうと思っても思い出せなくなる」

「いや、先生、それはちょっと…」ベレロはこの申し出を拒否しようとしました。

「まあお聞き、命名の契約術はね、一生に一度しかできない。私もやった事がないんだ。ただね、この子には私の人生で一度切りの名付けをするに相応しい才覚があるよ」

「いや、かと言って名前を変えると云うのは…」マエラも顔を曇らせます。

「よおく考えるんだ、この子が偉大な魔術師になれる可能性を」

しばらくの沈黙の後、ベレロが口を開きました。

「ノラ、お前はどうだい?立派な魔法使いになりたいかい?」

そう尋ねられたノラはベレロとマエラの顔を交互に見て、それからしばらく俯いた後

「私、ノラって名前大好きだよ」と小さな声で言いました。

それを聞いたベレロはマエラの方を向き、互いに目を合わせるとやがて首を縦に振り、優しくノラの頭に手を置いて言います。

「でも、魔法使いになりたいんだね」

ノラは小さく頷きました。


アストリッドが机の上の橅の木の皮の巻物ビーチバークロールを手に取り床に勢いよく広げると、その中心には円の組み合わせで出来た魔法陣があり、魔法陣の周囲の余白はスピログラフを用いた様な幾何学模様でびっしりと埋め尽くされていました。床に広げた巻物の四方に重しの小石を置きながら

「こいつもいい値段がするんだよ、でも一生に一度の事だ。お代はサービスさ」そう言ってアストリッドはウィンクします。それに対してベレロは苦笑いを返すのがやっとでした。


「へんてこな名前にしない?」ノラが心配そうに尋ねます。

少女の手を引いて床の魔法陣の中心に立たせながらアストリッドは

「私の生まれ故郷で数字のゼロを意味する言葉だ、無から新しい魔法を生み出す可能性を秘めたアンタにふさわしいだろう」と答えました。


「さあ、始めるよ!」アストリッドは杖を手に取り魔法陣の中心に立つノラの頭上に翳します。その途端に木の皮の四方から少しずつ白煙が上がりゆっくりと燃え始めました。アストリッドの胸元の魔法の小瓶マギアボトルが脈を打つように光を放ち、彼女の持つ杖の先のクリスタルも呼応して輝きます。炎は幾何学模様を焼き尽くしノラの立つ中心部の円形魔法陣にどんどん近付いて来ました。

「ノラ!」マエラが思わず声を上げますが、アストリッドはそれを無視して


「契約により名を授ける、汝この時よりnollノルと呼ばれる」と詠唱します。

その言葉の瞬間に魔法陣は燃え上り灰と煙が少女の体を包み込みました。


「そうら、どうなった!?」アストリッドが煙をかき分けて少女に駆け寄り、彼女の胸の小瓶をつまみ上げます。

『ノル』と名を変えた少女の胸元に光るガラス瓶の中では、彼女の魔法力が美しいゼニスブルーへとその色を変え、小さく波打ち揺蕩たゆたっていました。

「上手くいった、上手くいった」魔女は手を叩いて喜び、ノルの両親も娘の様子に変わったところが無い事に安堵します。そしてその場の皆がこの魔法の力によって、少女がほんのわずか前までノラと呼ばれていた事をすっかり忘れてしまったのです。


こうしてノルと云う少女は魔女への道を歩み始めたのでした。

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