第13話


 朝の山里は、蝉の声と川のせせらぎが混じり合い、清涼な空気に満ちていた。

 沙耶は麦わら帽子をかぶり、父と一緒に桃園へ。

 今日はバルも連れてきて、収穫の手伝いだ。


「おぉ……これが桃か」

 

 枝にたわわに実った桃を見上げ、バルは感心したように低く呟いた。

 陽に透ける薄桃色の果実は、甘い香りを放っている。


(やっぱり桃園は私の原点だな……。この実をもっと多くの人に知ってほしい。それが夢なんだって、何度も思い返してきたっけ)


 夢を胸に微笑んだそのとき、足元に、不自然な掘り返し跡を見つけた。

 土が乱れ、果実の枝も折れている。


「……っ! イノシシね!」


 思わず声を荒げる。

 怒りで顔が熱くなり、手にした収穫かごを握りしめた。

 

(せっかく大事に育てたのに……っ。信じられない、ほんと腹立つ!)


 父は困ったように首をかき、「困ったもんだなぁ」と苦笑い。

 けれど沙耶の苛立ちは収まらなかった。


「もう! なんで毎年毎年……。ほんと許せない!」


 隣で黙って様子を見ていたバルの黒い瞳が、きらりと光る。

 

「ふむ……敵か。ならば我が成敗してやろう」


(ちょ、ちょっと待って。いまの言い方……完全に戦闘モード入ってる!? いや、動物相手に“成敗”って……!)


 胸の鼓動が嫌な予感で速まる中、桃園の奥でガサガサと音がした。


 茂みの奥から、低い唸り声とともに何かが飛び出した。

 巨大な影——全身を毛で覆われたイノシシだ。

 普通のものよりひと回りもふた回りも大きく、牙をむき出しにして地面を蹴りつける。


「ひっ……!」

 

 思わず沙耶は後ずさった。

 

(で、でかい! あれ絶対普通じゃない! 桃園がめちゃくちゃにされる!)


 イノシシは鼻息を荒げ、畑の方へ突進しかける。

「また出たか!」と叫ぶ沙耶の声が震えた瞬間、バルが一歩前に進み出た。


 その姿は妙に落ち着いていて、口元がわずかに笑っている。

 

「よかろう。畜生よ我が成敗してくれる!」


(うわ、やっぱりやる気満々だ! ちょっと待って、相手イノシシだからね!? 人間の生活圏で“バトル展開”とか本気でやめて!!)


 イノシシの蹄が土を蹴り、地面が震える。

 鼻息混じりの突進に、沙耶の心臓が跳ね上がる。

「危ない!」と叫んでしまったのは反射だった。


 だけど、隣に立つバルは微動だにせず、むしろ嬉しそうに低く唸った。

 

「ふむ……悪くない。これくらいの方が手応えがある」


(なにそれ!? 完全に獲物を見つけた肉食獣のテンションじゃない! この人、危機感って言葉知らないの!?)


 汗ばむ掌を握りしめながら、沙耶は必死に考えていた。

 

(お願いだから誰も怪我しませんように……! ただでさえ常識外れなのに、これ以上騒ぎを広げたら……!)


 その間にも、イノシシは一直線にバルへ突進してきていた。

 イノシシが地響きを立てて突っ込んでくる。土煙が舞い上がり、畑の木々がざわめく。


「バル、危ないってば!」


 思わず叫んだが、当の本人は微動だにせず、その場に仁王立ちしていた。

 次の瞬間——ドガァッ!!

 ものすごい衝撃音が響き、イノシシの巨体がバルにぶつかった。


 ……けれど、吹き飛ばされたのはイノシシの方だった。

 バルは片腕で真正面から受け止め、そのまま軽々とひっくり返してしまったのだ。


(な、なにこれ……。映画のワンシーン!? 普通の人間なら即死レベルの衝突よ!?)


 土に転がったイノシシはまだもがいていたが、バルは迷わず拳を振り上げた。

 

「成敗してくれる!」


「ちょ、ちょっと待って!? やめ——」


 沙耶の声とほぼ同時に、父の正一が慌てて割り込んだ。

 

「待った! 殺したら法律で大変なことになる! 追い払うだけでいい!」


 父の声はいつになく真剣で、息も切れていた。

 拳を止められたバルは、不満げに眉をひそめる。

 

「ぬ……? 仕留めぬのか? これほどの獣、討たねば再び荒らすぞ」


「いいから! 日本には法律ってものがあるの!」


 沙耶は声を張り上げながら必死に手を伸ばした。

 

(お願いだからここで“竜の流儀”を持ち出さないで……! うちの桃園、悪いニュースで全国デビューなんて絶対嫌!)


 拳を下ろしたバルの背を見つめてながら冷たい汗が流れていく。

 バルは拳を振り上げたまま、イノシシをじっと見下ろした。

 黒い瞳がぎらりと光り、空気がひやりと震える。


「……ならば、我が力を示すのみだ」


 低い声と同時に、空気の圧が変わった。

 風が一瞬止まり、蝉の声もぴたりと消える。

 畑の空気が重くなり、喉が詰まるような感覚に沙耶は息を呑んだ。


(……なに、これ。空気が押しつぶされるみたい……。まさか、これが“竜”の……)

 

「グラァァァ!!」

 

 強く空気が震えるほどの咆哮がこだまする。

 目の前のイノシシは、その威圧に晒され、ブルブルと震え出した。牙を鳴らし、しっぽを丸め、やがて悲鳴のような声を上げて山の奥へと逃げていく。


 沈黙を破ったのは父の笑い声だった。

 

「ははは、これだけ脅せばもう来ないだろう」


 安堵混じりの笑いに、沙耶もようやく肩の力を抜いた。

 

(……よかった。怪我もなく、桃も守れた。……でも、あんなの、どう見ても人間の力じゃなかった)


 バルは大きく息を吐き、こちらを振り返る。

 その表情は妙に満足げで、まるで狩りを終えた獣のようだ。


「どうだ沙耶。我は役に立っただろう?」


 心臓が一瞬跳ねる。

 

(ちょっと待って……そんな顔でドヤらないで! 確かに役立ったけど、命縮まる思いしたのこっちなんだから!)


 視線を逸らしながら、沙耶は冷たく言い放った。

 

「……調子に乗らないでよ」


 だけど、耳の奥にはまだあの“空気が震える感覚”が残っていた。


 逃げ去るイノシシの影が見えなくなっても、沙耶の心臓はまだ早鐘を打っていた。

 

 (あっ、そういえば)

 

 気づけば足が勝手に動いていて、バルの腕をつかんでいた。


「ちょっと……すごい勢いでぶつかられたでしょ? 怪我してないの?」


 泥がついた逞しい腕を両手で確かめる。

 力強い筋肉の下で脈打つ鼓動が指先に伝わり、余計に胸がざわめいた。


(なにこれ……。ただ確認しただけなのに、やたら熱い。……ちょっとドキドキしてる? いやいや、落ち着け私!)


 バルは目を瞬かせ、それから嬉しそうに破顔した。

 

「うむ問題ない。オトウサンよ沙耶が気遣ってくれるぞ!」


「ち、違う! あんたが無茶するから確認しただけ!」


 慌てて手を離すが、正一はにやりと笑って覗き込む。

 

「おや?……沙耶、照れているのかい?」


 そう言って茶化す正一に思わず大きな声が出てしまう。


「うるさいっ!」


 顔が熱いのをごまかすように怒鳴り、沙耶は背を向けた。

 

 その後ろで、父の「あぁ、こわい。こわい」とのんきな声と、バルの「ふむ、照れているのか……」という声が重なり、ますます耳が熱くなる。


(ほんと……とんでもない奴だわ。でも……桃園は守られた。だから、今日は負けを認めるしかないか)


 夕暮れに染まる畑の匂いが、少しだけ優しく感じられた。

 

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