第14話
夜。
藤森家の縁側には、月明かりと虫の声が満ちていた。
涼しい風が畳を抜け、どこか甘い草の匂いが漂ってくる。
沙耶は居間の片隅でノートパソコンを閉じ、少し疲れた目をこすった。
仕事の資料を見直していたつもりが、結局バルの突飛な言動ばかりが頭をよぎって集中できなかった。
(……ほんと、毎日ドタバタばかり。私、実家に静養しに来たはずなのに……休まってるんだか疲れてるんだか分かんなくなってきたわ)
縁側から聞こえてきた声に耳を向ける。
父とバルが、湯呑みを手に並んで腰かけていた。
月明かりに照らされる二人の背中は、妙に仲良さそうに見える。
「もう風呂も食事の仕方も慣れたかい?」
父が軽い調子で尋ねる。
バルは胸を張って答えた。
「我にかかれば余裕だ。人の習わしなど造作もない!」
……それを聞いて、沙耶は思わず額を押さえた。
(造作もない? この間、箸でトマトを射出してたの誰だっけ? お風呂でシャンプーの泡に泣いてたのも……)
父はそんなことおかまいなしに「ははは、さすが竜の王様だなぁ」と子どもを褒めるみたいに笑う。
バルはまんざらでもなさそうに口元をほころばせて、月を仰いだ。
「ふむ……当然だ。我は竜王候補だからな」
その得意げな横顔が、月明かりに照らされている。
(あぁもう……反則。真面目ぶった表情がカッコよく見えるの、やめてほしいんだけど……)
沙耶はちゃぶ台に突っ伏すようにして、こっそり視線を逸らした。
しばらく月を眺めていた父が、ふっと真剣な声を出した。
「でもな、バルくんが来てから沙耶が元気になってるんだよ。……ほんと嬉しいんだ」
縁側の隅で聞いていた沙耶は、思わず息を呑んだ。
(えっ……お父さん、なに急に……!)
バルは怪訝そうに眉をひそめる。
「……? 我が来る前は、元気ではなかったのか?」
「いや、元気は元気だった。でも、元気じゃなかったんだ」
「なにを言っている? 元気か、元気でないか、どちらかだろう」
真顔で混乱しているバルに、父は苦笑いを浮かべる。
沙耶は縁側の陰から身を乗り出しそうになった。
(やめてやめて! そんな哲学みたいな話、バルが理解できるわけない! 絶対ややこしいことになる!)
案の定、バルは腕を組んで頭を抱えた。
「むぅ……元気であり、元気でない…。人間の言葉は不可解だ!」
「ごめんごめん、説明が下手だったな」
父は笑いながら手を振った。
(ほんとお父さん、悪気はないのに余計にややこしくするんだから! 私の胃がキリキリするわ……)
けれど、その父の横顔が優しくて、沙耶は胸がじんと熱くなるのを感じていた。
父は困ったように笑って、ゆっくりと言葉を選んだ。
「つまりね、今の沙耶は“心から元気”ってことさ。前は笑ってはいたけど……どこか無理してた。今は違うんだ」
縁側の影でそれを聞いた沙耶の胸が、じわりと熱くなる。
(……お父さん……。そんなふうに思ってくれてたんだ……)
バルは黙って父の言葉を聞き、しばらく考え込んだ。
そして拳をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに言った。
「ならば我が守ってやろう。我はこの群れを守護すると誓ったのだ。任せておけ!」
声が夜空に響き、虫の音さえ一瞬止まった気がした。
(……群れって。言い方が原始的なんだけど……でも、真っ直ぐすぎるその言葉に、不覚にも安心しちゃった自分がいる)
父は嬉しそうに目を細めた。
「おお、本気で言ってたんだな。頼もしいよ」
バルはさらに頷き、ふっと視線を横に流す。
「それに沙耶は怒ると母上に似ている。一番守ってやらねばならぬ」
「えっ……私?」
縁側の陰で固まった沙耶は、心臓が変な跳ね方をした。
(な、なんで私限定!? しかも“守る”とか……心臓に悪すぎるんだけど!!)
父はしばし黙って月を見上げていたが、やがてバルに向き直り、ゆっくり頭を下げた。
「そうか……じゃあ……もうしばらく、沙耶のことを頼むよ」
その姿に、沙耶の胸がきゅっと締めつけられる。
(お父さん……そんな真剣に……。でも、私のことを人に頼むなんて……恥ずかしいってば……)
バルは堂々と胸を張り、力強く答えた。
「群れの長の願いなら聞き届けよう。任せておけ」
その言葉は虚勢ではなく、揺るぎない誓いのように響いた。
月明かりに照らされた横顔はどこまでも真っ直ぐで、思わず沙耶の胸がざわめく。
(……やば。いまの顔、完全に反則。心臓に悪すぎるって……!)
父は満足そうに笑い、再び夜空を仰ぐ。
「ありがとう……。今日は、いい月だなぁ」
バルも同じように空を見上げ、短く答えた。
「ああ……」
月光に照らされたふたりの背中は、不思議と頼もしく見えた。
(はぁ……なんで私の周りだけ、こんなに物騒で、なのにしっとりした空気になるのよ……。でも……ちょっと、安心したかも)
沙耶は胸に手を当て、小さく息を吐いた。
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『常識知らずの竜王候補さま、人間界で学習中。』 ひとりさんぽ @Bidonroku
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