第11話


 翌日の夕食。

 ちゃぶ台に並ぶのは焼きナス、冷やしトマト、そして父が採ってきたキュウリの漬物。

 夏らしい香りが部屋に満ち、窓から入り込む夜風が涼しい。


 バルは腕を組み、しばらく料理をじっと見ていたが、やがて沙耶の手元に視線を移した。

 

「オネイチャン。我もその棒で食べてみたいぞ」


 思わず箸を止め、沙耶は顔を上げる。

 

「……誰がオネイチャンよ! 私には名前があるの。沙耶!」


「ぬ……わかった。沙耶よ、その棒の使い方を教えよ」


 堂々と呼び捨てにされ、沙耶は眉をひそめる。

 

「……なんで呼び捨てなのよ。あと、棒じゃなくて箸!」


 心の中ではさらに混乱していた。

 

(ちょっと待って。いま普通に“沙耶”って呼ばれたよね? あの顔で真っ直ぐに……。くそ、なんか変に響きがよすぎて心臓に悪いんだけど)


 杏奈が横から身を乗り出して茶々を入れる。

 

「やだー、バル様が箸リベンジ!? 映えるー!」


「映えとかじゃないから! こっちは教える手間で胃に穴が開くのよ!」


 父は楽しそうに頷き、母も「いい機会だから教えてあげなさい」と穏やかに微笑む。

 

 気づけば家族全員の期待が沙耶ひとりに集まっていた。


(……結局、私がやるんだ。ああもう、どうしてこの家は“常識人=私担当”って役割分担になってるのよ……!)


 沙耶はため息をつき、箸を持ち直した。

 

「……いい? じゃあ、ちゃんと見るのよ」


 バルの黒い瞳が真剣に沙耶を射抜くように見つめた。

 思わず胸がざわめき、手元がわずかに震える。


(ちょ、近い! そんな真顔で見ないで! ただの箸講座なのに、なにこのドキドキは……!?)


 沙耶が手本を見せると、バルは真剣な顔で箸をつまんだ。だが力が入りすぎて、木箸が「ミシッ」と嫌な音を立てる。


「ちょ、折らないでよ!? 箸は武器じゃなくて繊細な道具なの!」


「む……弱い棒だな。戦場ではすぐ折れる」


「だから戦場じゃないってば!」


 案の定、最初の一口から大失敗だった。

 焼きナスを狙った箸先がすべり、ぽとりと畳に落ちる。

 慌てて取り直したと思えば、今度は力を入れすぎてトマトが弾丸のように飛んだ。


「きゃっ!」


 杏奈の頬をかすめて転がったトマトに、家族が爆笑する。

 父は「ははは、まるで射出機だな」と笑い、母は「食卓が戦場ね」と妙に楽しそう。


(笑いごとじゃない! 誰か止めて!!)


 沙耶は額に手を当て、必死に声を張り上げる。

 

「落ち着いて! 食べ物は飛ばすものじゃなくて、口に運ぶものだから!」


「わかっておる。まかせておけ」そう言って再度挑戦するバル。

 

 しかし、なんともうまくいかず苦戦する。

 バルは眉をひそめ、何度も挑戦を繰り返す。

 

 米粒を狙っては落とし、魚を狙っては箸先からすべり落とし、そのたびに「むぅ……!」と唸る。


(……この集中力、方向性さえ合えばすごいのに。なのに今は“箸バトル”状態よ。誰が想像した? 竜王候補(自称)がトマト一個に負けてるなんて)


 家族は拍手と笑い声で盛り上がり、バルは額に汗を浮かべながらも負けじと挑み続ける。

 

「我は……必ず……掴んでみせる!」


(いや、それ打ち切りの最後の一言みたいだから! ただの夕食だから!)


 畳の上に転がるトマトと、必死な横顔。

 沙耶はもう一度大きなため息をついた。


 何度挑んでも上手くいかないバルを見かねて、沙耶はぐっと身を乗り出した。

 

「もう……仕方ないわね。ちょっと手、貸して」


 バルの大きな手に、自分の指をそっと添える。

 骨ばった感触と、ほんのり温かい体温が伝わってきて、沙耶の心臓がドクンと跳ねた。


(ちょ、ちょっと待って……勢いで掴んだけど、近い。手、重ねてる。……これ完全に、指絡んでるじゃない。いやいやいや、これはあくまで“箸指導”だから!)


 顔を赤らめそうになるのを必死でこらえ、声だけは冷静を装う。

 

「いい? 親指と人差し指で上の箸を動かすの。下の箸は支えるだけ」


 バルは真剣にうなずき、低い声で復唱した。

 

「こうか?」


 ぎこちない動きだったが、先ほどよりも確かに安定している。


「そう、その調子!」


 沙耶の声が思わず弾んだ瞬間、隣から拍手が湧き起こる。

 

「おぉー!うまいじゃないか」と父、

 

「上出来じゃない!」と母、

 

「尊い! 尊すぎる!」と杏奈。


(ちょっと待って、なんで家族総出で“箸の持ち方”に拍手してるの!? これ、ただの生活スキルだから!)


 バルは家族の反応にますます胸を張り、誇らしげに箸を構え直す。

 

「ふむ……これが人の文化か。なかなか奥深い」


 その真剣さに、沙耶は思わず小さく笑ってしまった。

 

(……ほんと、子どもみたい。教えれば素直に学ぶんだな)


 バルは深呼吸をひとつして、箸を構え直した。

 ぎこちないながらも慎重に動かし、目の前の漬物を狙う。

 先端がぷるぷる震えて、見ているこっちの手まで汗をかきそうだ。


(がんばれ……って、私なんで応援してるのよ。別に試験でもないのに……)


 やがて箸先が漬物をとらえた。

 落としそうになりながらも、なんとか口元へ運び——ぱくり。


「……!」


 家族がどっと拍手をする中、バルは満面の笑みを浮かべた。

 

「沙耶! 見たか? 我は一人で食べられたぞ!」


 その嬉しそうな顔に、沙耶の胸がどきりと鳴った。

 

(うわ……素直に喜んでる。なんか、かわいい……。くそっ、認めたくないのに!)


 父は「おお、すごいすごい」と笑い、母は「上達早いわねぇ」と感心し、杏奈は「イケメンのドヤ顔、破壊力やばい!」と騒いでいる。

 が、沙耶はわざと冷めた声を出した。

 

「はいはい、一口くらいで大騒ぎしないの」


 けれど心の奥では、拍手したいくらい安堵している自分に気づいてしまう。


(……ほんと、調子狂う。竜王候補が箸ひとつで大喜びって。だけど……その笑顔、嫌いじゃない)


 扇風機がやわらかい風を送り、ちゃぶ台に小さな静けさが戻る。

 沙耶はそっと視線を逸らしながら、胸の奥のざわめきを誤魔化すように味噌汁をすすった。


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