第8話
夕食も終わり、片づけが一段落したころ。母・美智子がタオルを手に居間へ戻ってきた。
「バルくん、汚れてるからお風呂入りなさい」
その一言に、沙耶は思わず顔を上げた。
(……あ、この人に“風呂”という概念が通じるのかしら)
バルは怪訝そうに首を傾げる。
「風呂?なんだそれは?」
「体をキレイにすることよ」
「水浴びなら得意だ!」
自信満々に言い切るその表情に、沙耶はため息をついた。
(……絶対嫌な予感しかしない。水浴びとお風呂は全然違うんだけど)
母はにこやかに続ける。
「ほら、川で水浴びするのとは違うの。お湯に浸かって体をきれいにするのよ」
「お湯……熱い水、か?」
バルは目を輝かせた。
「面白い。人間はそんなことをしているのか!」
(……あぁ、これは確実に荒れる。絶対に荒れる)
何となくこのバルという男の雰囲気を察し始めた沙耶はすでに頭を抱えていた。
扇風機の音がやけに大きく響き、これから起こるであろう惨事を予告しているように思える。
案の定、バルは立ち上がると堂々と宣言した。
「よし、我はすぐにでも試してやろう!」
そして——その場で服を脱ぎはじめた。
「ちょっ……!? ここ食卓! リビング!! バカ、やめろーー!!」
沙耶の悲鳴が、夜の藤森家に響いた。
バルはためらいなく上着を脱ぎ捨て、腰に巻かれていた布まで解こうとした。
「ちょ、ちょっと待って!? ここ食卓! 家族みんなの前だから!!」
沙耶が慌てて立ち上がり、両手で必死に制止する。しかし時すでに遅く、杏奈の悲鳴が居間に響き渡った。
「きゃーーー! ちょ、全裸はまだ早いーー!!」
父は「おお……」と妙に感心し、母は口元を押さえて「あらまあ」と目を逸らす。
(いや! “あらまあ”で済ませないで! ここ、完全にカオスだから!!)
沙耶は咄嗟にタオルを掴んでバルの体に押し付け、そのまま強引に背中を押して風呂場へ誘導した。
「いい!? 脱ぐなら脱衣所で!! 常識って言葉知らないの!?」
バルは不思議そうに首をかしげながらも従い、やがて湯気のこもる浴室に足を踏み入れる。
——次の瞬間。
ドボンッ!!
派手な水音が響いた。
バルが湯船に全力で飛び込んだのだ。
熱湯を大きく波立たせて、風呂場は即座に大洪水。
「熱い! これは罠か!!」
バルの怒号が浴室に轟く。
床を叩き、壁に手をつき、まるで戦場のように暴れる。
洗面器がガラガラ転がり、シャンプーボトルが床を跳ねた。
(罠じゃない! ただのお風呂! なのに浴室から水が溢れてきてるんだけど!?)
沙耶は慌ててドアを開け、びしょ濡れになりながら叫んだ。
「暴れないで! 落ち着いて浸かるものなの!」
「熱すぎる! やはり人間界は油断ならん!」
(いや、人間界じゃなくてうちの浴室!! 完全に風呂を敵認定しないで!!)
足元を温かいお湯が流れていく。
浴室の騒動に、沙耶は半ば泣きそうになりながら叫んでいた。
暴れるバルをどうにか浴槽の中で座らせ、沙耶は息を切らしていた。
「はぁ、はぁ……いい? お風呂はね、“戦い”じゃなくて“休む場所”なの!」
バルは肩までお湯に浸かりながら、不満げに眉を寄せる。
「なぜわざわざ熱い水に身を沈める? これは苦行だ」
「苦行じゃない! 清潔と癒しのため!」
(あぁ……入浴文化のない人に日本の入浴文化を説明する日が来るなんて……誰が予想したのよ)
ようやく落ち着いてきたので、沙耶は椅子に腰を下ろし、洗面器にお湯を張った。
「はい、体はこうやって洗うの。タオルを使って、石けんで泡立てて……」
バルは興味深そうに手元をのぞき込み、豪快にタオルをこすり始めた。
「ほう、これは美味そうだ」
「食べちゃダメ!汚れを落とすの!」
それでも言われたとおり体を洗い終えると、次は頭だ。
沙耶はシャンプーボトルを取り、手のひらに泡を立てて彼の黒髪にのせた。
(……近い。顔、近すぎ。髪、さらさら……って、いやいや、何見てるの私!?)
指先を通る感触に一瞬どぎまぎしながらも、必死で冷静を装う。
「こうやって頭皮をマッサージするの。気持ちいいでしょ?」
バルは目を閉じ、ふむと頷いた——次の瞬間。
「ぐわっ! 目に入った! 痛い!毒か!」
勢いよく立ち上がり、大声で叫んだ。
お湯がざばーっと溢れ、また床がびしょ濡れになる。
「毒じゃない! ただのシャンプー! 落ち着いて流せばいいの!」
沙耶はシャワーを握りしめ、慌てて彼の顔にお湯をかける。
水滴が飛び散り、自分の頬や首もびしょびしょだ。
(もう……疲れる……ほんとに子どもと一緒じゃない……)
シャワーを受けてバルはようやく目を開き、眉間のしわを緩めた。
「……ふむ。これも人間の修行か」
「修行じゃないってば!!」
どうにか頭も体も洗い終え、浴槽に静かに浸からせることに成功した。
バルは腕を組み、顎を少し上げ、堂々と宣言する。
「……ちゃんと風呂に入れたぞ!」
「“ちゃんと”の基準が分からないけどね!」
沙耶はタオルで自分の髪を拭きながら、盛大にツッコミを入れる。
床は相変わらず水浸しだし、バスチェアは倒れっぱなし。
ちゃんと……? いや、どこが?
(まあ……とりあえず無事に終わったから、いいか……。ほんと“無事”って言葉が奇跡的に似合う人だわ)
風呂上がり。
居間に戻ったバルは、腰にタオルを巻いただけの姿で縁側に腰を下ろした。
濡れた黒髪が首筋を伝い、しずくが肩を滑って胸に落ちる。
「ふむ……悪くない」
麦茶を一気に飲み干し、満足そうに息をつく。
「……悪くない」
隣で見ていた母が同じ言葉をつぶやき、頬を少し赤らめた。
(ちょっ……お母さん!? 何しれっと共鳴してるのよ! ていうか……確かに今の姿は……ちょっと反則級に……いやいや! 落ち着け私!!)
胸の奥が熱くなるのを慌てて振り払い、沙耶は扇風機のスイッチを強に回した。風が髪を乱す。
「はぁ……とんでもない奴だわ」
小さく漏れた独り言が、夜の藤森家にしみこんでいった。
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