シルバーコレクター

真花

シルバーコレクター

 走るために生まれて来た。

 走るために生きて来た。


 42.195キロも終盤、俺は先頭集団から抜け出していた。追い付かれることはもうない。ラストに向けて長いスパートをかけて、流星のような景色、沿道の観客、微風と照りつける太陽。間違いなくこれまでで一番の走りが出来ている。体がいつもよりも軽い。

 なのにあいつが俺の前にいる。小さく背中が見えるのに届かない。まただ。何度やっても、何度走っても、あいつに追い付けない。これ以上スピードを上げることは出来ない。俺は全力で、間違いなく最高のコンディションで、なのにあいつはその先を行く。

 追い上げるどころかその差は広がって、あいつはそのままゴールした。俺はまだ走っているのに空を震わせるような歓声が上がって、その歓声が収まる頃にやっと俺はゴールする。あいつのときよりもずっと小さな歓声はまるで儀礼的で、俺は顔を観客に向けもしないで邪魔にならないところまで歩いて行って座り込む。

 また負けた。

 拳で地面を叩く。痛い。

 俺の何が足りないって言うんだ。練習は誰よりもしている。怪我だってない。環境も申し分ない。コーチだって最高だ。それなのに負ける。ずっと、ずっと二位のままだ。三位にはならない。二位だ。そしてあいつがいつも一位。何が違うって言うんだ。限界までした努力の向こう側でついに才能の差が顔を出しているとでも言うのか。俺だって才能はあるはずだ。だって二位、世界で二位なんだ。あいつ以外は誰も俺の前を走れないんだ。でも、あいつは俺の前を走っている。常に。初めて対戦したときからずっとだ。だからあいつは俺からすれば目標で、ライバルで。でもあいつから見たら俺は目標でもライバルでもない。自分の前に誰もいないと言うのはどんな感覚なのだろうか。何を頼りに走っているのだろうか。分からない。分からないままで終わりたくない。

 後続のランナーが次々にゴールしていく。出し切った顔、悔しい顔、限界の顔、それぞれの色を帯びている。歓声は少しずつしか上がらない。俺の呼吸は徐々に落ち着いて来ている。

 今日のタイムで三年前なら一番だった。でもそのときはこのタイムを出せていない。タイムは縮んでいる。同時にあいつのタイムも縮む。その差は多少の寡多はあっても常に存在していて、三年前のあいつに勝っても今日のあいつには勝てない。二位を積み重ねるのは敗北を積み上げるのと同じだ。

 時代が悪かった? あいつがいなければ俺はずっと一番だったんだ。そう、あいつさえいなければ。絶対王者の称号は俺のものだったんだ。いなければ。今からだってそうなれば俺の天下がやって来る。いつも実り切らない努力が結実する。初めて金のメダルを手に入れる。そうだよ。あいつさえいなければいいんだ。

 あいつが歩いている。報道の人が集まって来ている。勝者には人が群がる。ここで取り残されていることが二位が敗者の証明だ。あいつがキョロキョロと何かを探して、俺と目が合う。手招きをする。俺は自分の顔を指差して、俺? とサインを送る。あいつは頷いて、再び手招きをする。俺は立ち上がり、あいつの横に行く。

「何ですか?」

「インタビュー、かじ君も一緒に受けよう」

 嫌だ。どうして負けたことを語らなくてはならないのだ。でも、既に報道に囲まれていて、ここから去るのはもっとみっともなかった。

「分かりました」

「では、どうぞ」

 落ち着いた若い中年くらいの男性レポーターがマイクをあいつに向ける。

笠原かさはら選手、今の率直な気持ちを教えて下さい」

「レースに勝てて嬉しいです」

「今日の走りはどうでしたか?」

「今までで最高の走りが出来ました。タイムも新記録が出て、よかったです」

「絶対王者と言われていますけれども、その辺りはどうでしょう?」

「たまたま勝っているだけです。絶対なんてありません」

 それがたまたまではないことを俺が誰よりも知っている。こんな茶番に付き合わせるために俺を呼んだのだろうか。そもそも俺にマイクは来るのか? 

「今後の展望はありますか」

「それなんですけど、私、笠原はこのレース限りで引退します」

「ええっ!?」

 レポーターと俺の声が揃った。

「それはどう言う意味ですか?」

「言葉通り、フルマラソンから引退します」

 笠原が引退する。それはつまり俺の時代の到来を意味する。これからはずっと二位に甘んじる必要がなくなる。さっき空想していたことだ。俺の前を走る人間は誰もいなくなる。……いや。

「ちょっといいですか」

 俺はマイクを強引に引き寄せる。レポーターはされるに任せる。

「撤回して下さい」

 笠原が、「どうして?」と言う。

「あなたがいないレースで一位を獲っても意味がないからです」

 自分の語気が本気を伝えるのに十分に尖っている。

「あなたがいるから俺はここまで走ることが出来た。あなたは、俺の目標で、ライバルで」

 言いながら涙が溢れて来て、顔がぐしゅぐしゅになっていく。

「だから、まだ、走り続けて下さい。いつか本当に限界を迎えるまで。だって、今日みたいな走りで、完璧で、そんなの、嫌だ」

 報道はしんとして、俺は一人カメラとマイクの前で泣きじゃくって。

 笠原が俺の肩に手を置く。それを合図にマイクが笠原に向く。

「分かった」

 笠原も大粒の涙を流していた。二回頷いてからマイクに向かう。

「引退は撤回します。これからも梶君に銀メダルをプレゼントします」

 レポーターが口の端だけ笑う。俺はどろどろの顔を上げる。

「必ず追い抜いて見せます」

「やってみな」

「待ってろよ」

「待つもんか。走って逃げるよ」

 報道の人々が笑って、俺達は誰に促されるでもなく抱き合った。俺は笠原の耳元でマイクに届かない音量で言う。

「俺が勝って心置きなく引退させますから」

「負けねーよ」

 二人ともまだ涙声だった。


 レースの日、天気は晴れ。俺はスタートラインに沿って立っている。コンディションは最高。練習も十分にしている。非公式のタイムは縮んでいるし、気持ちも澄んでいる。向こうには笠原がいる。いつもと変わらない。

 号砲が鳴る。今日こそは。


(了)

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