第10話 俺は旅行サークルに入って全国を旅したい(後編)
玄関のドアを開けた瞬間、ふわっとスパイシーな香りが漂ってきた。
鼻の奥をくすぐる刺激と、食欲をそそる香り。まるで異国のレストランに迷い込んだみたいだ。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
キッチンから顔を出したあかりは、エプロン姿で元気よく笑った。
髪はゆるく結ばれていて、部屋着は涼しげなノースリーブのトップスにショートパンツ。動くたびに白い腕や太ももがちらりと覗き、思わず視線が引き寄せられる。
「……なんだ、この匂い。カレー?」
「ふふん、今日はね、スープカレー! 最近スパイスの勉強もしてて、試してみたの」
ダイニングテーブルに並んだのは、大きな器にたっぷり盛られたスープカレー。
鮮やかなオレンジ色のスープに、骨付きチキンがごろっと沈み、上には彩り豊かな野菜。ナス、ピーマン、かぼちゃ、ゆで卵。どれもツヤツヤしていて、食欲を掻き立てる。
「すげぇ……本格的すぎるだろ、これ」
「えへへ。佃煮屋の娘だから、出汁とか調味料にはうるさいの。最近はスパイスにもハマってて」
そう言って小さく笑うあかり。
実家が山谷屋佃煮店だから、素材や味付けへの探究心は昔からだった。けど、スパイスまで研究してるとは。
俺が感心して見ていると、あかりは得意げに胸を張った。
胸元の布地がふわりと持ち上がり、柔らかなラインを描いた。
「ほら、早く食べよ。冷めちゃうよ」
◇
「うまっ……!」
一口食べた瞬間、思わず声が漏れた。
ピリッとした辛さの奥に、深い旨味が広がる。スープはさらっとしているのに、チキンのコクと野菜の甘みがしっかり染み込んでいる。
「本当にうまいな。店出せるレベルだろ、これ」
「やだなぁ……そんな大げさな。でも嬉しい」
頬を赤くしながら照れるあかりの姿に、こっちの胸まで温かくなる。
「そうだ、これお土産でもらったんだ」
食後、鞄から取り出したのは、旅行サークルの説明会で先輩にもらった北海道の菓子。
「わ、これ有名なやつじゃん! 嬉しいなぁ」
あかりは子どもみたいに目を輝かせて、嬉しそうに受け取った。
◇
「旅行サークル、どうだった?」
「うん、すごかったよ。北海道とか九州とか、みんなで旅してる写真や動画を見せてもらってさ。めっちゃ楽しそうだった」
そう言うと、あかりはぱちぱちと瞬きをして、ゆっくりと笑った。
「お兄ちゃん、全国を見てみたいって言ってたもんね。……きっと合ってるよ」
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
彼女は俺の夢を誰よりも理解してくれている。
「でね、旅行の話してたら、行きたい場所とかいっぱい浮かんできて」
「ふふっ、どこ?」
俺たちはしばらく、国内旅行の行きたい場所を言い合った。
広島のお好み焼き。名古屋の味噌カツ。秋田のきりたんぽ鍋。
食いしん坊みたいなやりとりだったけど、話しているだけで楽しい。
「私はね、北海道かな」
「お、やっぱ王道だな」
「だって、今年の夏、昆布だしとか佃煮の勉強で北海道に行こうと思ってるんだもん」
その言葉に思わず目を見開いた。
「え、マジで? 一人で?」
「そう。一人旅だと道に迷いそうだし、ちょっと不安なんだよね。できれば一緒に行ってくれる人がいたら安心なんだけど……」
あかりは俺の目を見つめながら、少し恥ずかしそうに言った。
「もちろん旅費は全部こっちで出すから。お兄ちゃん、一緒に行かない?」
「……っ」
心臓が跳ねた。
旅行サークルの動画で見た楽しげな風景。
そして今、目の前のあかりが差し出す言葉。
「ちょ、ちょっと考えさせてくれ」
「うん、もちろん」
あかりはにこっと笑って、食器を片づけに立った。
◇
その夜、ベッドに横になっても、頭の中は落ち着かなかった。
旅行サークルで見た仲間たちの笑顔。
北海道の澄んだ空。九州の青い海。
そして、あかりが「一緒に行こう」と言ったときの真剣な瞳。
心はぐるぐると回り続けた。
俺は東京で出会いを求めているはずなのに。
でも——あかりの存在が、俺をどんどん揺さぶっている。
天井を見上げながら、結局その夜はなかなか眠れなかった。
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