第32話

翔子さんは病院に運ばれて、点滴を受けた。過労が重なった結果だとのことだった。

 命に別状はなく、病気でもないと聞いて、私は心底安心した。

 眠っている翔子さんの横に座りながら、私は自分を恥じた。私は甘えてばかりだった。赤の他人の私を、妹のように大切にして支えてくれていたのに。

 毎朝、朝ごはんもお弁当も作ってくれて、私のこともKIRISAWAのことも、ずっと守ってくれていた。

 慣れない土地で大変なことも多かったはずなのに。


 翔子さんのことを聞いた神も駆けつけてきた。

「はあ……翔子さん、無理しすぎやって俺も散々言ってたんじゃけどな……無理言ってでも休ませときゃ良かった。」神はそう呟いた。

「私が一緒に暮らしてたのに、気付いてあげれんかったんがいけんかったんよ。」

 神が来たからもう大丈夫だろう。


 ここはおばあちゃんが亡くなった病院だった。もうおばあちゃんのことを思い出して泣いたりはしなくなったけど、この場所にはあの時の記憶が刻まれている。

 

 私は屋上へ行くことにした。


 屋上は真夏の日差しに照らされて、白く眩しかった。おばあちゃんが死んだのも、こんな夏の日だった。空を見上げると、綺麗な入道雲が浮かんでいる。

 あの雲に乗って会いに行けたらいいのに。おばあちゃんは、こんな弱い私を叱るだろうか。

 胸が詰まり、涙が今にも伝いそうになる。


 後ろから「杏……」と声がした。隼だった。

「隼……ごめんね。今日は急に電話して」

「全然。嬉しかったよ」

「嬉しかった?」

「うん。ずっとお前とちゃんと話せてへんかったから、もう俺のことなんて忘れたんかと思ってたし」

「忘れないよ」私は笑った。そして続けた。

 「なんでかなあ。すごく取り乱して不安な時は、隼を頼ってしまう。なんでだろうね。私ももう隼に嫌われてるんだろうなって、ずっと思ってたのに」

「ごめんな、杏……。俺さ、お前の誕生日ん時、ひどいこと言って」

「もういいよ。謝ってくれたじゃん」

「いや、あれからずっと俺ら、距離が出来てたやん」


 隼も気にしてくれていたのだと知って、心が少し温かくなる。

「ちゃんと話したかった。俺はただ、怖かっただけやねん。お前が届かん人になることが。どんどん夢を叶えて、俺とは住む世界が違う人になっていくんやろなって。」


 胸が締めつけられた。隼も同じように寂しく思ってくれていた。それだけで、こんなに安心してしまうなんて。


 屋上のドアが開いた。

 青さんが顔を出した。

「杏、ここにいたんだね」いつもの穏やかで優しい顔だった。

「青さん……」

「翔子さんのこと聞いて、急いで来たんだ。杏もびっくりしたでしょ」青さんは自然と私の隣に立った。


 隼は軽く会釈をして、病室へ戻っていった。


 その瞬間、私は青さんの存在を、今まで完全に忘れていたことに気づいた。

 どんな時も見ている景色に、その人を重ねてしまう――それを「恋」と呼ぶのだとするなら、私が恋をしているのは隼だ。


 胸がざわざわする。この想いを抱えたまま青さんと一緒にいるなんて、私は最低だ。


「杏、翔子さん目が覚めたよ。しばらく営業は俺も出ようと思う。翔子さんに無理させてしまって、オーナー失格だよね」

「そんなことないです。私が翔子さんに甘えてたんです。」

「ふふっ。こんな時はみんな自分に責任があると感じるよね。ちーちゃんはちーちゃんで、自分が就職してKIRISAWAを辞めたからだって責めるだろうし、はっしははっしで、一緒に働いてたのに気付かなかったって。みんなそれぞれに責任を感じるんだ」


 たしかにそうかもしれない。青さんの言葉はいつも深い。そして全てを達観しているように思える。見透かしているようにも思える。――きっと、私の気持ちさえも。


 今日は男子メンがKIRISAWAに立ってくれたので、私は翔子さんに付き添った。

 幸いすぐに退院できて、家へ戻ることになった。


 翔子さんをベッドに寝かせて、その間におかゆをつくった。翔子さんと暮らし始めて、もうすぐ四年。思えば、翔子さんが体調を崩すのは初めてだった。

 私が風邪をひくたびに作ってもらったおかゆを、今度は私が差し出す番だ。


「杏からおかゆ作ってもらえるなんて、生きててよかったー」

 さっきまで倒れていたとは思えない調子で、翔子さんは茶目っ気たっぷりに笑う。私は呆れつつも、胸の奥がじんわり温かくなる。


「ほんまに焦ったんじゃけ!ごめんね。これからは私もシフトにもっと入るし、朝ごはんも私が作るけん」

「いいよ、杏のより私の方が上手だから。」

 わざとらしく肩をすくめて、またイタズラっぽく笑う。


「でもね、杏と最近あんまり顔合わせてなかったから……ちょっと心配してた。隼くんとも、まだ少しぎこちなさそうだし」

「今日はちゃんと話せたよ。……すぐ青さんが来たけど。」

「ふふっ、青さんとは順調?」

「うん。極めて順調」

「へぇ。このまま結婚しちゃうのかな」

「わかんないけど……喧嘩もないし、お金もあるし、理想の人だよ」

「でも――本当に“好き”?」

 その問いに、私は言葉を飲み込む。翔子さんの目は、全部見抜いているみたいに優しくて鋭かった。


「……違うって、気づいてはいる」


「私ね、神と付き合うことにしたの」

「えっ?ほんとに?」

「うん。目が覚めたら、神くんが手を握ってくれててね……ああ、幸せだなって思っちゃった。歳の差とか、元遊び人とか、色々考えて迷ってたけど、もういいやって」

 翔子さんは頬をほんのり赤らめて、照れたように笑った。その顔を見て、私まで胸がぽかぽかする。


「よかった……ほんとによかった」


「杏のほんとに好きなのは、隼くんでしょ?」

「えっ?……いや、いやいや」

「分かるって! 私が倒れた時、真っ先に呼んだのは隼くんでしょ?」

「……いや、ただ分かんないけど、呼んでた。」


「杏。恋人の選び方は人それぞれだよ。杏みたいに理性的に考えて、現実的に幸せになれそうな人を選ぶのも正解。だけどね……心の奥にずっといる人を無視してまで続ける恋は、相手にも自分にも優しくない」

 翔子さんはゆっくりと息をついて、柔らかく微笑む。


「そりゃ、DVとかそんな男の子を好きで仕方ないとかなら良くないけどさ、隼くんなんて小さい頃からずっと杏を支えてきたんでしょ? そんな子を好きになるのに、抑える理由なんてないじゃん」

「でも隼はゲイだし。幼馴染だし。恋愛なんて絡めたくない。」

「それでも隼くんが好きなら青さんに失礼よ。相手の時間まで奪ってることに気付きなさい。」

「…………うん」

 たしかにそうだ。私が青さんに抱く気持ちは恋ではないことは確かだった。青さんとの筋書きは完璧な運命的なものだったのに。


 恋も愛も尊敬も好意もごちゃ混ぜで誤魔化してただけだ。

 

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