第31話

2013年8月。


 3年生の夏休みに入り、そろそろ就活を意識する時期になった。

 企業説明会に行ったり、図書館で企業研究をしたり。そして夕方からはKIRISAWAに立つ。そんな毎日。


 青さんとは相変わらず穏やかな交際が続いていた。

 彼は新刊の執筆に入り、会う頻度は前より減ったけれど、私は不思議と寂しさを感じなかった。


 むしろ――これが理想だと思った。

 お互いに依存しない。会えば楽しい。喧嘩もない。感情に振り回されず、冷静でいられる関係。


 ……もし今、青さんに「別れよう」と言われても、私は泣きもせず、ただ受け入れるだろう。

 すがることも、傷つくこともない。

 痛みから無縁の、理性的な恋だ。


 その日も、私は九時過ぎに目を覚ました。夏休みはついつい気が抜けて遅起きだ。

 キッチンに行くと、いつものように翔子さんが作ってくれていた味噌汁が鍋に残っている。温め直して、簡単に朝ごはんを済ませる。


 ちーちゃんが抜けてから午後のバイトはなかなか見つからず、翔子さんは毎日忙しそうだった。最近はゆっくり話す暇もない。

 私のこの「冷めた恋愛観」を翔子さんに話したら、なんて言うんだろう――そんなことを考えながら、食器を片付け、下の店へ降りた。


「翔子さーん、おはよー!」

 声をかけても返事がない。店の中を見回すが、姿が見えない。

 嫌な予感がして、厨房へ入り、奥の暖簾をめくった。

 

 「……翔子さん!」


 そこに、翔子さんが倒れていた。

 全身から血の気が引いて、慌てて駆け寄る。肩を揺すっても、目を開けない。


「翔子さん!!」

 声が裏返る。震える指でスマホを取り出し、救急車を呼んだ。


 通報を終えた途端、涙が溢れ出す。

 おばあちゃんを失った時の光景がフラッシュバックして、息が苦しい。私はまた大切な人を亡くしてしまうのだろうか。

 気付けば、私は震える手で、隼の番号を押していた。何も冷静に考えられず、ただ隼の声が聞きたかった。


「もしもし……杏?」

 耳に届いたのは、よく知っている優しい声。

「翔子さんが……倒れて……」

 言葉にならない泣き声に、隼の声が一瞬で真剣になる。

「今どこや?」

「KIRISAWA……救急車は呼んでる……」

「わかった。すぐ行く」


 電話はそこで切れた。


 数分も経たないうちに、息を切らした隼が店に飛び込んできた。

「杏!」

 駆け寄り、翔子さんの状態を素早く確かめる。

「大丈夫、息しとる。もうすぐ救急車も来るからな。」

 そう言って、私の震える手をぎゅっと握った。

 心が少し楽になる。


 遠くからサイレンの音が近づいてきた。

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