第30話
2013年4月。
青さんとの交際は、とても穏やかで優しい時間だった。
学校が終わるといつも迎えに来てくれて、バイトがある日はKIRISAWAまで送ってくれる。バイトがない日にはどこかにご飯を食べに連れて行ってくれて、ご馳走してくれて、そして必ず家まで送ってくれる。
土日は、美術館や少し遠出した本屋さんに一緒へ行った。
趣味が合うし、その趣味に関する知識が私よりもずっと深いから、彼と話しているといつも勉強になる。青さんとのデートは「楽しむ」というより、「知性や教養を磨ける」ような感じで、とても有意義だった。
隼とは、あれから何度かバイトのシフトで顔を合わせた。
お互いにそれとなく謝って、普通におしゃべりできるようにはなったけれど、以前のように心を許し合える距離感ではなくなっていた。LINEもほとんどしなくなったし、みんなを通して話すことはあっても、二人きりで話すことはほとんどなく、距離は確実に遠くなった。
私に彼氏ができたことで、隼はただ遠慮して関わらないようにしているのだと思うと、いかにも彼らしいと思った。
はっしは相変わらずだ。私と青さんが付き合い始めたことを報告したときには、奇声を上げて商店街を走り回り、通報されていた。そして今でも、顔を合わせるたびに「キスした? 捧げてへんよな?」と、いちいち確認してくる。
ちーちゃんは専門学校を卒業して、大手のアパレル会社に就職し、絶好調だった。本通り商店街の店舗でカリスマ店員として頑張っている。就職したのでKIRISAWAで一緒にバイトすることもなくなり、私も青さんと付き合い始めてから会う機会が減ってしまったのは、少し寂しい。
翔子さんと神は、相変わらずつかず離れず。神は変わらず翔子さんに尽くしているけれど、翔子さんは追いかけさせるばかりだ。神がある日、ぽつりと「俺、昔はあんなモテてたのに、今や杏を追いかけてるはっしみたいなポジで翔子さんを追いかけてるわ……」と呟いていた。
そんなふうに、変わらない日々と、変わっていく誰かを交互に感じながら、私は充実した日々を送っていた。
今日もいつものように学校帰り、正門を少し過ぎたあたりに停まっていた青さんの車を見つけた。
私が助手席に乗り込み、爽ちゃんが後部座席に乗る。
「青さーん! 私バイトだからお願いしまーす! いつもありがとうー!」
爽ちゃんがそう言う。
爽ちゃんがバイトの日は、流川まで青さんが送ってあげるのが通例になっていた。
「はいはい。了解。」
青さんは優しく答える。
流川まで爽ちゃんを送ったあと、私たちは青さんおすすめの紙屋町西にあるフレンチレストランへ行った。なんと三つ星を獲得した店らしい。初めて訪れる格式高い雰囲気に、私は緊張しながらソワソワして、店内をきょろきょろと見回していた。
そんな私を見て、青さんは笑った。
「そんなに緊張しなくていいよ。少しマナーが違ったくらいで、誰も怒らないから。」
前菜から食べ慣れない創作料理がいくつも出てきて、戸惑いながらも口に運ぶと、体験したことのない美味しさに頭がクラクラした。
メインディッシュも終わり、お腹も満足した頃。
店員さんが「おめでとうございます」と言ってデザートを運んできた。
交際2ヶ月のお祝いに、チョコでお皿に「これからもよろしく」と綺麗に書かれたデザートが、私の目の前に置かれた。
「わああ。可愛い! ありがとうございます!」
「うん」青さんは静かに笑った。
私は幸せだ。こんなにもったいないくらい素敵な人が、こんなに大事にしてくれる。
――それなのに、気を抜けば頭に浮かぶのは、いつも隼だった。
隼ともし付き合っていたら、こんなふうにお祝いしてくれただろうか。
もう、あの笑顔を私に向けてはくれないのかな。
「大丈夫?」青さんが尋ねる。
「あ、はい! ありがとうございます!」
私が答えると、青さんは優しく笑った。
――――――――
その日も車で家の前まで送ってもらった。
車を停めると、青さんの手が助手席の私の手に重なった。
「杏……」
そう言って、青さんの顔が近づいてきて、優しく唇が重なった。
思いのほか、私は冷静だった。
これがキスか――。
ちーちゃんや翔子さんの話では、ミルクの味とか、すごく柔らかいとか、いろいろ前情報をもらっていたけど……。
実際の印象は「無」だった。特に香りもない。ただ、たしかに柔らかいけれど、まあ唇だからこんなものだろう。
「ごめん。嫌だった?」
唇を離した青さんがそう言った。
「あ、いえ! 全然!」
それを聞いて、青さんは少し微笑み、私の頭を撫でた。
――こんな時でさえ、頭に浮かぶのは隼のこと。
隼はどんなキスをするのだろう。誰とキスをするのだろう。はっしとならいいのに。他の女の子だと、少し寂しい。そんなことを思う資格は、私には毛頭ないのに。
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