第20話

2010年5月


 高校3年生になり、私たちは本格的に進路を考え、行動を始める時期を迎えていた。

大学受験組の隼と神は、受験勉強に専念するため、KIRISAWAのバイトを一旦離れることになった。

そのためか、青木さんは東京のマンションを引き払い、大竹に移住して店の管理やお手伝いに専念することになった。私たちにとって、とても心強い存在だ。

もちろん、東京にも店舗は残しており、月に何度かは東京に行くが、彼の本拠地は大竹になった。


隼は、あの夜の私の戯言を真に受けてか、本気で心理カウンセラーを目指し始めた。心理学科のある大学を目指している。彼ならきっと、多くの人を救えると私は心から信じている。

神はそれまでの適当なキャラが嘘のようにガリ勉になり、真剣に大学受験に取り組み始めた。翔子さんがふとした時に言った「頑張ってる人ってかっこいいよね」と言っていたのを聞いてからのことらしいが、動機はどうあれ、真摯な姿勢は素敵だ。


ちーちゃんは変わらず服飾の専門学校に進学予定で、専門的な勉強を頑張っている。

はっしはまだモラトリアムの真っ最中だが、KIRISAWAの料理と接客が楽しすぎるらしく、週6でシフトに入り、翔子さんは大助かりだった。


私はというと、おばあちゃんの遺してくれたお金は無くなってしまったので、進学は諦めざるを得なかった。

今は広島市内の大きな書店の求人に応募するか、このまま翔子さんと一緒にKIRISAWAで働くか、迷っている。

どちらにしても、途方に暮れることはないはず。大丈夫。私は大丈夫。そう自分に言い聞かせていた。


 この日は翔子さんがオフで、店に立つのは青木さんと、学校帰りの私とはっしの3人。はっしは既にメニューの料理を一通りマスターしており、翔子さんも安心して休みを取れるようになっていた。平日にもかかわらず、店内はほどよく賑わい、心地よい忙しさが続いた。


 21時前には客足が途絶え、少し早めに店を閉めた。

 閉店後のカフェ。カウンター席の椅子は全てテーブルに上げて、ソファ席で私たちは青木さんが腕によりをかけて作ってくれたまかないの香ばしい桜エビのペペロンチーノを食べる。

 私とはっしは声を揃えて「いただきます!」と元気よく言い、夢中でフォークを回した。


「美味しすぎるー!」

「ほんまや! 青木さん、まじさすがっす!!」


 青木さんは笑いながら、「君たちは、本当になんでも美味しく食べてくれるから嬉しいよ」と言った。

 そしてふと、私たちに視線を向ける。


「ところで、2人は進路どうするの?」


 おそらく、他の3人はそれぞれの目標に向かって走り出しているのに対し、私たち2人はまだフラフラしているように見えているのだろう。


「俺は杏たん次第っす! 杏たんが美術の学校行くなら、俺も同じとこ目指したいけど……俺、絵心ないからむずい! でもKIRISAWAにおったら、どっちにせよ杏たんのそばにおれるし! 杏たんが大竹以外に住むなら、俺もそっちでなんか探すわ!」


 はっしはニコニコしながら言う。まさか、本気なのだろうか。


「ははは。はっしは、本当に杏ちゃんが好きだなあ。で、杏ちゃんは?」


「私は……広島市内の書店か、このままKIRISAWAで働こうかなって。なんなら掛け持ちもいいかなって思ってます」


「ん? 杏たん、美大か専門学校行きたいんちゃうん? 玉木青の装丁したいから、デザインの勉強したいって言ってたやん」


「うーん。このまま社会に出るのも勉強になるしいいかなって。本に関わる仕事しながら、絵とかデザインは趣味でやれば、私的には満足だし」


「でも、本当は学びたいんじゃないの?」


 青木さんの声は、柔らかいのに、鋭く胸の奥を突いた。

 脳裏に浮かぶのは、二年のときに取り寄せた美大のパンフレット。ページをめくるたび、胸が弾んだ。心が熱くなった。

 1人で電車とバスに乗って、オープンキャンパスにも行った。高校とはまるで違う、広々とした敷地。陽射しに照らされた芝生。そこかしこに広げられたキャンバス。キラキラした笑顔の大学生のひとたちの事を見て、未来の自分を投影させて、ワクワクした。

 


 だけど、その光はあっけなく暗くなった。

 学費に使おうとしていたおばあちゃんの遺産は母親に奪われた。

 お父さんに頼めば、無理してでも学費を援助してくれるかもしれない。でも──東京で新しい家族を養っていくだけでも精一杯だろうし、私のためにお金を使うくらいなら、まだ小さな妹のエマちゃんの将来のために残してほしい。

 奨学金も考えた。でも、そこまでして学ぶ意味があるのか、と自問したとき、答えは「たぶん、ない」だった。

 だったら、普通に就職して、自分で稼いでからでも遅くない。勉強したくなったら独学でやればいい──そう、自分に言い聞かせた。


「んー……でも大丈夫です。できれば行きたいなぁくらいの気持ちなんで。どうしてもやりたくなったら独学します。その方が気楽ですし」


 言葉は軽く笑って乗せたつもりだったのに、声の奥が少しだけ震えた気がした。

 青木さんはそんな私を、真っすぐに見つめていた。

 逃げ道を探す私を、見透かすような目で。

 

「杏ちゃん」

青木さんは静かに口を開いた。

「好きって、才能なんだよ」

「才能……?」

思わず問い返すと、彼は穏やかに続けた。

「じゃあ、日本人の何%くらいが絵を好きだと思う? 描ける描けない、上手い下手は置いといて、ただ“好き”っていう気持ちのほうね」

「うーん……70%くらい?」

「正解はその逆。30%」

「えっ、大体みんな好きかと思ってた!」

 横から、はっしが口を挟む。

「俺は絵とかあんまり興味ないから、その70%やな!」

「はっし、絵が好きじゃないのに美大を考えてたん……」

「そら! 俺は杏たんのそばにおることが一番好きやから!」

青木さんは私たちの会話にふっと笑ってから話を戻した。

「とにかく僕が言いたいのはね、“好き”ってだけでも立派な才能だってこと。10人に3人しかいない。それでも、その才能は必ずしも技術に結びつかない。絵を見るのは好きでも、描くのは難しいと敬遠する人もいるように、才能は種みたいなものなんだ。そこに水や太陽にあたる努力や環境がなければ、花は咲かない。だからこそ、杏ちゃんにはちゃんとした環境で学んでほしい」


彼はゆっくりと言葉を選びながら続ける。

「人間は環境の生き物だよ。僕らが日本語を話せるのも、日本語を使う環境があったから。だから同じ志を持つ仲間や、専門的に教えてくれる先生がいる場所は何より大事だ。社会に出れば、日々の忙しさに夢を忘れる人がほとんどだ。だから、少しでも“やりたい”気持ちがあるなら、僕は応援したい」


そして真っすぐに私を見つめ、言った。

「もし学費のことで躊躇しているなら、僕が出すから」


一瞬、息が止まる。

「え……そ、それは良くないです。支援を受けるわけには」慌てて首を振った。


「支援っていうんじゃない」青木さんは柔らかく笑う。

「君たち高校生組のことは、妹や弟みたいに大事に思ってるんだ。だから夢を応援したい。杏ちゃんだけ特別じゃない。はっしでも同じだよ。ただ、はっしの動機が“杏ちゃんのそばにいたい”だけならお金は出さないけど、本気でやりたいことを見つけて、資金が理由で諦めそうになったら、その時は助ける」


「仏や……」はっしが恍惚の表情でつぶやく。

 

それでも、胸の奥には迷いが残っていた。

――赤の他人からお金を受け取るなんて、やっぱり気が引ける。


そんな私の心を見透かしたかのように、青木さんが続けた。

「僕はね、ここ以外にも都内でブックカフェを三店舗経営してる。君たちの学費くらい、全然平気なんだ」

いたずらっぽく、口元が弧を描く。


「杏たん! 青木財団の奨学金に甘えてもええやん! 金なら余るほどあるんやで、この人!」

横からはっしが茶化すと、青木さんは腹を抱えて笑った。


「あんたは何を言ってんの……」

呆れつつも、そのやり取りは少しだけ私の心をほぐす。

けれど――やっぱり「受け取っていい」という答えにはならなかった。


「杏ちゃん」

ふいに、青木さんの声色が低くなる。

 

「僕はね、幸江さんに救われたんだ」

 

 静かな空気が落ちる。

 

「十歳の頃、この町に転校してきた時のことだよ。東京育ちの僕は、こっちの暮らしになかなか馴染めなくてね。標準語は、広島の子からすればよそよそしく聞こえるでしょ? それが気持ち悪がられた。しかも僕は理屈っぽい性格だったから……まさに愚の骨頂。いじめられてた」


彼の視線は、少し遠くの記憶へと沈んでいく。

「ある日、ランドセルの蓋を、はさみで真っ二つに切られた。さすがに応えたよ。泣きながら、そのランドセルを抱えて桐澤洋裁店の前を歩いていたら、幸江さんが店から出てきて声をかけてくれた。ミシンで丁寧に縫い直してくれて、一度切られたなんて分からないくらいに糸を馴染ませてくれた。おかげで親にもバレず、心配をかけずに済んだ」


青木さんの口元に、懐かしむような笑みがにじむ。

「それから、僕はよく洋裁店に通うようになった。幸江さんは、僕にとって居場所になってくれたんだ。だから恩返しがしたい。幸江さんの大事な孫である杏ちゃんを助けられるなら、それは僕にとっても恩返しになる」


初めて聞く話だった。

亡くなってもなお、おばあちゃんの存在はこんなにも大きくて、あたたかい。

――まるで、天国から今も私を見守ってくれているみたいだ。


「杏ちゃん。遠慮しないでほしい。プレッシャーにも感じなくていい。ただ僕が応援したいだけだから。甘えてほしい」

その瞳は、真剣そのものだった。


「……ありがとうございます」

私は、青木さんの厚意に甘えることを決めた。


「おっしゃー!! で、美大ってどこの美大? 大竹から通う?」

はっしが勢いよく尋ねる。

「うん。広島市内じゃけ、少し遠いけど大竹から通うよ」

「おっけー! なら俺はこのまま大竹におるわ! 杏たんの家になるからな!!」

「はいはい、ありがとう」


私たちのやり取りを、青木さんは満足そうに、静かに微笑みながら聞いていた。


⭐︎


私は美大に行くと決意してから、美術の専科の西森先生の元に休み時間や放課後は通い詰め、教えを乞うた。

 私の志望する美大は、デッサンによる実技試験と小論文と面接で合否が判断される。

 美大出身の西森先生に全てのコツを聞き、毎日必死でノートにまとめた。夜は翔子さんに面接の練習を付き合ってもらった。目標に向けて頑張る日々は、やみくもに就職を考えて進んでいたあの頃より、はるかに大変だけど楽しくてワクワクしていた。

 親友たちもそれぞれの目標に向けて、毎日頑張っていた。はっしは私が受験勉強に専念するためKIRISAWAへのシフトが減った分をカバーするかのように、もはや正社員ばりに働いていた。はっしはどうやら卒業後もそのまま翔子さんとともにKIRISAWAを支えていくつもりらしい。「接客も料理も面白いし最高や!」言ってて微笑ましい限りだけど、「一応ブックカフェなんだから芸人や細木数子の本だけじゃなくて、ちゃんと色々読んでお客様に選書できるようになりなさい」と翔子さんにはちょこちょこ言われていた。

 そんな感じで私たちは着実に未来に向かって進んでいた。

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