第19話

 ここはどこか、あまりわからない。

とにかくあてもなく歩き続けて、もうすっかり夜になっていた。

こんな時には海が見たくて、海の方向へ歩き続けた。海沿いの道にきて、そこをずーっと歩いていた。

 辛い時は海を見に来る習性がある私だけど、今日はいつもの海辺じゃなくて、もっともっと、どこか分からないところにたどり着きたい気がした。

この海沿いはどこに続いてるのか分からない。歩いたことのないところまで来てしまった。

 海はずっと続いている。

 携帯は忘れた。翔子さん、心配してるかな、と思ったけど、もう帰り道さえ分からない気がした。母から取り返した1000円だけ握りしめて私はひたすら海沿いを歩き続けた。


足が疲れてきて、堤防に腰掛けることにした。潮は満ちていて、暗く深い海が足元には広がっている。

 このまま飛び込めば、楽になれるのだろうか。深く深く沈んでいけば、おばあちゃんのいる場所に行けるのだろうか。

 それでも私は死ぬ勇気なんて持ち合わせてない。だからって生きる気力も今の私にはない気がする。

 ゆらゆらと足をぶらつかせると、左脚のローファーが落ちた。

 海に浮かんで、波に流されていく。

 あーあ。もう私は帰れない。

 そう思いながら、遠くに行くローファーをずっと見つめていた。羨ましい。ついさっきまで私と一緒に歩いていたくせに。私が母親にぶたれた時も一緒にいたくせに。今はもう私には届かない場所にいる。


 私は右のローファーも手に取って脱いだ。靴下だけになった足元を冷たい海風が刺した。

 手に持ったもう片方のローファーを海に思いっきり投げつけた。

 

 何してんだろう……

 笑ってしまう。

 

 海風はひどく寒い。

 このまま凍死すれば、楽かもしれない。

 あんな母親も私が死ねば少しは反省するのだろうか。そんな事を考えながら、情けなくてただ涙が溢れる。勝手に出てくる。

 

 

 その時だった。


「杏……!」


 後ろから声が聞こえた。

 振り返ると、白い吐息を弾ませながら、肩で呼吸している隼が私を見ていた。


 こんな遠くまで来たはずなのに、何でこの人はこんな時でも私を見つけてくれるんだろう。


「どうしたの?」

 私の声はどう考えてもこの場面にそぐわないほどあっけらかんとした口調で聞いていた。


「どんだけ心配したと思ってんねん!」

 隼の声は大きく、怒っているみたいだった。

 そしてポケットから携帯を取り出しどこかに電話を始めた。「杏、おった。翔子さんにも言っといて。俺が連れて帰る。」多分、ちーちゃんに連絡したのだろう。みんな私を探していたのだろうか。

 情けない。みんなに心配かけて。なんで私はこんなに弱いんだろう。


「ごめんね……」私は呟いた


 隼はそばまで近づいてきて、自分のコートを私にかけて、堤防から落ちないようにと肩を支えてきた。

「無事でよかった……」そう隼は呟いた。


 私は涙が止まらなくて、ずっと海の方を見ていた。

「いつもの海辺やったら、もっと早く見つけられたのに、なんでこんな遠くまで来てんねん」少し笑いながら隼は言った。


「分かんない。」

「そっか……」


 しばらく2人で海を見つめた。隼も何も言わなかった。肩を支えてくれる彼の手の温かさが私を落ち着かせた。


 しばらく二人で海を眺め続けていた。


 不意に隼が口を開いた。

「靴、どしたん?」

 靴下だけの私の足をみて、彼が言う。

「海に落ちた。片方は投げてみた。」

「はあ、、、なにしてんねん」

 呆れたように笑うその声は私を落ち着かせる。


「乗れ。」

 そう言って、背中を向けてしゃがむ隼がいる。

「はあ?嫌だよ。重いし。てか、歩くし」

「危ないやろ。夜やから何が落ちてるかも見えんし。国道まで出たら、翔子さんに車で迎えにきてもらうから、そこまでや。もう遅いし、はよ帰るぞ!」

 隼の大きな背中が私を待っている。観念して隼の背中にお世話になることにした。

 

 隼はゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。

 温かい背中。彼のシャツから香る柔軟剤のような匂いが私を落ち着かせる。彼の襟足が私の頬を撫でた。

 

「重い?」

 私は恥ずかしくて、つい聞いた。

「もっと重くなれば?」

 隼は答える。

なんだその返しは。「惚れてまうやろー!」と叫びそうになるのを堪える。私は自分がドキドキしていることを悟られたくなくて必死だった。

「筋トレでもしたいの?」

「うるさいわ」

 そんな軽口のあとで、私は謝った。

「ごめんね。心配かけて。いつも」

「大丈夫やで。」

引きずり込まれるような安心感のある隼の声。いつもこの声に救われた。

彼は弱ってる私にただ優しくしてくれてるだけなのに、こんなの私じゃなくても好きになってしまうだろう。

「杏……」

「なに?」

「お誕生日おめでとう」

「え……?」

「日付け変わってるから、誕生日やろ?」

「あっ……そっか。今何時?携帯忘れたからわからんくて」

「あー。多分1時くらい?携帯、多分翔子さんから鬼のように着信来とるで。」隼が笑う。

「まじか……心配かけたよね…みんな……」

「ちーちゃんと俺と翔子さんだけや。はっしと神には言ってないし、特にはっしが知ったら大騒ぎやからな。」

 隼がそう言って、私は小さく笑った。

「なあ……」隼の声が真剣になる

「お母さんとなんかあったんやろ……?」

「うん……またお金取られちゃった。」

私がそう言うと、隼が私をおぶる手の圧が少しだけ強くなった。

「別に大丈夫なんよ。生活はしていける。翔子さんが毎日ご飯を作ってくれるし、お父さんも心配して毎月仕送りしてくれてるし、カフェのテナント料もあるし。だから大丈夫なんだけど、、おばあちゃんの遺してくれたお金じゃったけえさ、、」私はまた涙が溢れる。隼の服の肩が濡れてしまった。

「辛かったな……」

 隼のその声を聞いてるだけで、もう大丈夫な気がするほどに、彼の声は温かくて包んでくれるようだった。

「無理して笑えとか、強くなれとか言わへんけどさ、黙って急に消えたらこっちの寿命が縮むわ。」軽い調子で隼は言った。

「ごめんね」

「ええけど。1人で抱えるより頼れ。頼るもの強さやで?」

隼の言葉は心がこもってる。上部だけじゃなくて心の底から言ってくれてるのがわかる。

「ねえ隼……カウンセラーにでもなれば?」

 私は何故か冷静に、そんな事を言い出していた。

「は?」と彼は笑う。

「隼の才能だと思う。隼には何でも話せるし、隼がおったら安心する。隼の声を聞けば大丈夫って思える。私みたいに弱い人の力になれるよ隼。」

「お前は強いよ。」

「そういうとこじゃけ……」

「たしかに、ええかもな。そういう勉強したら、お前の理解不能な心理とかも少しは分かるかもやし」

「はあ?あたし理解不能か?だいぶ分かりやすいタイプだと自負しとるけど」

「ははは。それはお前が思っとるだけやで。だいぶ意味不明や」

 

そんな風にふざけ合いながら話しているうちに、あっという間に国道まで出た。

「もう国道じゃけ降ろして」

 私がそう言うと、

「別にまだ余裕やし。」と言ってずっとおぶり続けてくれてる。

 隼が片手で胸ポケットの携帯を取り出し、翔子さんを呼んだ。

 翔子さんを待つまでの数分間もずっと私は隼の背中に乗ったままだった。

 国道はもう車も少なく、人通りもほとんどない。

 出来ればずっと隼の温もりを感じていたいと願ってしまう。

「明日も学校やで。お前、起きれるん?」

「隼は?」

「俺はショートスリーパーやから。お前はいつも授業中に寝とるやん。明日もどうせ無理やろ」

と隼が笑った。

「うーん……休もっかなー」

「誕生日やからはっしとかプレゼント用意してんちゃうの?ガッカリするで」

「あーそっか。せっかくならいただこう。」

「ははは。17歳の抱負は?」

「うーん……とりあえず……生きる」

「よし!1番大事やな!」

「ねえ隼……」私は隼の背中の上でゴソゴソと、スカートのポケットにある1000円札を出した。

「これ、隼が持っててよ。」私は1000円を後ろから隼の前に出す。

「おばあちゃんから最期にもらった1000円。母親から取られかけて奪い返したんじゃけど、これを見ると……」私はそこで、涙が出てしまった。

「これを見るとね、おばあちゃんより母親の事を思い出して、…………死にたくなる。」

そう私が言うと、隼は黙っていた。

「こんなもの預かるの嫌だと思うけど、隼が持っててくれてるって思い出せば、なんか大丈夫な気がするけぇさ……」

「こんな大事なもの、預かってええの?」

「うん。私がもう大丈夫そうって隼が思ったら返してくれたらいいよ。それか、隼が私と友達辞めたい時とか、結婚するときとか……」言ってて少し寂しくなった。

「ははは。喧嘩しても返さんし。俺が結婚してもお前がまだ大丈夫じゃなさそうなら返さんで。」

「……じゃあその時までは仲良くしてね」

 そう言って、後ろから1000円札を隼の胸ポケットに入れた。

「うん。俺にはなんでも言え。今日みたいに突然おらんくなったらみんな心配するから。」

「……ごめん」

「別にええよ。お前のことは俺が見つけられるし。」

 うわっ、かっこよすぎか……と私は思ってしまった。

 その時、軽いクラクションが押されて、白いワゴン車が目の前に止まった。翔子さんだ。私たちの前に停車して、出てきた翔子さんは、ほとんど泣きそうだった。どれだけ心配をかけたのだろう。

「杏ちゃん!どうしたの?怪我でもした??」

 隼におんぶされている私を見つめて、駆け寄ってきた。

「違うよ。ローファー、捨てちゃったから。……ごめんね翔子さん」私は心配をかけたことを泣きながら謝った。

「無事だったなら、それだけで良いよ。明日、というか今日はお誕生日会するからね!みんなも呼んでパーっいこ!私ケーキ焼くから!」

「ありがとう。」私は笑った。翔子さんも隼も笑った。

 

 母親が全てだった子供の頃とは違う。母がどんなに私を傷つけたとしても、17歳の私には、私を大切に思ってくれる人たちがいる。だからまた、前を向いていこう。そう思えた。

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