第18話

 BOOK CAFE KIRISAWA のオープン日は、想像を超えるほどの大盛況だった。

翔子さんと私が夜な夜な練り上げた営業戦略が、しっかりと実を結んだのだ。


コーヒーは5枚綴りのチケット制にして、期限は半年間。

チケットを買ってくれた人には、私たちが選び抜いた文庫本を一冊おまけで差し上げる。


文庫本は一律ではなく、きちんと接客した上で、その人に合いそうな本を選んで渡すようにしている。


リピート率も上がり、特別感が出るこの方法は大好評だった。

オープン前に私が必死に作ったチラシを、パートのお姉さん方や親友たちが近所に配りまくってくれたのも、大きな勝因のひとつだった。


何より嬉しかったのは、商店街の皆さんがオープン記念に差し入れやお花を持って来店してくれたことだ。


「洋裁店が、こんなにおしゃれなカフェになって、しかも杏ちゃんが働いとるなんて、幸江さん、天国で喜んどるじゃろうねぇ!」


そんな言葉をかけてもらい、みんながおばあちゃんの面影をこのお店に感じてくれていることが、とても嬉しかった。


そして驚くことに、私の大好きな作家・玉木青さんをはじめとした名だたる作家の方々から、開店祝いのお花が届いていた。

青木さんの顔の広さには、本当に驚かされた。



初日は午前11時から午後9時までの営業。

昼間はパートのお姉さま方も含め、私たち高校生は土曜日で学校も休みだったこともあり、通しで働いた。


ちーちゃんはいつものようにテキパキとバイトリーダーのようにみんなを仕切り、

神は得意の甘い笑顔でコーヒーを配り、すでに女性ファンを獲得。

隼は翔子さんに教わりながら丁寧に珈琲を淹れ、はっしは元気いっぱいに店頭で呼び込みや並んでいるお客様の整理を担当していた。


私は選書担当として、お客様一人一人と順に話をしながら本を選んでいった。心から楽しかった。


青木さんは主にお会計やチケットの整理をしており、

翔子さんはカウンターで全体を見守りつつ、料理を作っていた。


忙しかったけれど、それ以上に充実した一日だった。



 そんな風にBOOK CAFE KIRISAWA は和竹商店街の新たな名所として、地域の人が気軽に訪れることが出来る憩いの場として、はじまった。

 おばあちゃんが望んでいた地域の人がゆっくりと出来る温かい場所。私はとても幸せだった。


 ――


 2010年2月


オープンからもうすぐ一か月。

みんな仕事の要領を覚えて、営業もすっかり板についてきた。

 私は我が家=お店ということもあって、ほとんど毎日働いているか、たまのシフトが休みの日はカフェから本を持っては2階で読みまくる最高の暮らしだった。家がブックカフェなんて幸せすぎるのだ!


今日はシフトが休みだ。

学校が終わったら、今日も二階の家で読書に明け暮れようと思っていた。


今日のバイトは隼とちーちゃん。

だから二人と一緒にそのまま店へ帰ってきた。


店に入ると、カウンターの奥から翔子さんが「おかえりー!」と明るく声をかけてくれる。

客席には三組ほどお客様がいて、昼のシフトのパートのお姉さん方が接客をしていた。


隼とちーちゃんは、小さなバックヤードでエプロンを身につけ、私はいつものように店の奥の階段へと足を向けた。

二階へ上がろうとしたそのとき、翔子さんに呼び止められた。


「杏ちゃん、お母さんが尋ねてきてね、今、上で待ってもらってるの! 綺麗な人だね、杏ちゃんに似てる!」


「……え?」


母が来るなんて、何年ぶりだろう。

胸の奥に、ひやりと冷たいものが落ちた。


良い予感はしなかった。

あの人は、いつだって私や父を顧みず、自分の都合だけで生きてきた。

何をしに来たというのだろう。


翔子さんには、母と私の確執や、あの人の過去を話したことは一度もなかった。


私は、重たくなる足を無理やり動かし、階段を上がった。


二階に上がった瞬間、懐かしい匂いが鼻をかすめる。

デパート一階の化粧品売り場を思わせる、強く甘い香り。

相変わらずだ。母はおばあちゃんの仏壇の前に立ち、じっと部屋の隅々を物色するように見ていた。


「……久しぶり」

私の気配に気付いたた母が静かにそう言う。


相変わらず長い髪をゆるく巻き、きっちりと化粧をしている。

冷たい目元も、変わらない。

不思議なほど、歳を取ったように見えなかった。


子どもの頃、私は母が大好きだった。

友達から「杏ちゃんのママ、綺麗!」と言われるたび、誇らしい気持ちになった。

生まれ変わってもまたこの人の子どもになりたい――本気でそんなことを思って、別のところに生まれたらどうしようって泣いた夜もあった。


三人で暮らしていた狭いアパートは、物が多くて、いつも散らかっていた。

父と母は、しょっちゅう喧嘩をしていた。


いつからか、母は私を連れてパチンコ店に通うようになった。

私にとっては、耳をつんざくうるさいゲームセンターのような場所で、嫌いだった。

そしていつしか私を家に置いて、一人で出かけることも増えた。


父が出張の夜は見知らぬ男が家に上がり込むようになった。

ある晩、夜中にトイレへ行こうとして、母が裸の男と抱き合っているのを見てしまった。

あの光景は、今でも私の中で生々しく残っている。


それでも、当時の私は自分を不幸だと思っていなかった。

それが私の“普通”であり、何より母を愛していたからだ。


けれど成長するにつれ、私は気づいてしまった。

うちの家族は、他の家族とは違う――と。


ちーちゃんの家に遊びに行ったとき、

ちーちゃんの両親が、ただ夕食を囲みながら、穏やかに笑い合っているのを見て驚いた。

世の中には、こんなふうに会話のある家族が存在するのかと。


「洋裁店、無くなっててびっくりしたわ」

母がぽつりと言った。


「何しに来たん?」私の声は冷たかった。


「相変わらずじゃね。娘に会いに来たらいけんの?」

「別に。ただ、おばあちゃんのお葬式にも来んかったくせに、今さら何なんかなって」

「……今さら顔なんて出せるわけないじゃろ。パパもおるし。パパは?元気?」

「東京。新しい家族がおる」

母はわずかに目を見開いた。

「パパ、あんたを置いてったの?」

「違う。私がここを選んだだけ。一階で会ったでしょ、翔子さん。あの人と暮らしてる」

「あんたは相変わらず変わってるね。田舎暮らしを選んで、他人と一緒に生活なんて……。パパの新しい奥さんは?」

「いい人だよ」

「ふーん」


短い沈黙のあと、母が切り出した。

「あのさ、杏。……お金、貸してくれない?」


やっぱりだ。

この人が私に会いに来る理由は、いつだってこうなのだ。


「またパチンコ?」私が冷たく尋ねると、母は鋭く私を睨んだ。

「……あんたって、本当に私を軽蔑してるよね」

「軽蔑されるようなことしかしてこなかったじゃん」

「それでも私はあんたの母親よ!たった一人の!なんでそんな冷たい言い方しかできないの!」

母はいつもこう。少しでも本音をぶつければ、鬼のような顔で言い返してくる。

気性が荒い。

こんなに話し合えない人だったのか。

小さい頃には見えなかったことが、今ははっきり見える。悲しいほどに。


「どうせおばあちゃんの遺産、たくさんもらってるんでしょ」

「ありえん。おばあちゃんの遺産をあんたに渡すわけないじゃろ!」

「親に向かって何よ、その言い方!あんたは何も分かってない。私が死んだら――あの時どうしてあんな言い方をしたんだろって、きっと後悔するよ」

「それ、いつもお金取るときの決まり文句だよね」

母の眉が吊り上がった。

「お金はね、使わないと意味ないの!あんたやおばあちゃんみたいに貯めこんで質素に暮らして、何が楽しいん?必ず返すから!借用書だって書く!」

「返してくれたこと、今まで一度もないじゃん」

「ねえ、お願い……杏……。もうママ、生活が苦しいんよ……」


声が震え、今度は泣き落としに変わる。

「今貸してくれたら、もう二度とあんたを頼らないから……ごめんね……」

「やめてよ。」

すすり泣く母の姿は、激しい感情の波に呑まれ、どこか恐ろしくもあった。


私は心の中で問いかけていた――本当に、私はこの人の娘なのだろうか。似ているのだろうか。


泣き崩れる母をただ見つめていると、胸の奥が締めつけられるような痛みに襲われる。

たとえそれが、お金を得るための演技にすぎないとしても。

それでも、こんなにも弱く、哀れな姿をさらす母を前に、やり場のない哀しみが私の心に広がった。


私もいつか、こんな風に壊れてしまうのだろうか。

絶対に、こんな姿にはなりたくない。

でも、この血が私の中を流れている。

この人こそが、私を産んだ母親なのだ。


その思いに押しつぶされそうになりながら、私は無意識のうちに食器棚の上にあったもち吉の缶を手に取ろうと、椅子に登った。

そして、祖母から遺された通帳と印鑑を掴み取り、冷たく母に差し出した。


「これで、もう二度と私の前に現れないでください。」


言い放ち、私は目をそらした。


母はしばらく無言だったが、やがて通帳を受け取ると、かすかに震える声で言った。

「ありがとう……」


そして、去り際に付け加えた。

「同居人にいじめられたら、うちに来なさい。電話番号は変わってないから。」


まるで用が済めばすぐにでも逃げるかのようなその後ろ姿。その背中は、子どもの頃、何度も 悲しい気持ちで見送ったときのままだ。


 母が下へ降りて、翔子さんに挨拶して店を出た音が聞こえた後も、私はしばらくずっとその場から動けなかった。


 ああ、おばあちゃんが一生懸命働いて残してくれたお金を失ってしまった。あのお金は、母のパチンコに消えるのか。それとも男のケツを追いかけるための美容費に変わるのだろうか。

 

 何度も何度も裏切られた。ずっと小さな時からお年玉を貯めてた貯金箱が、ある日突然空っぽになった時も。母の日にお小遣いでキットカットを買って、渡したら「こんなものいらんよ」と突き返された時も。悲しくて寂しくてたくさん泣いた時も。でもいつかどこかで和解して、普通の親子のように、一緒に買い物したり、恋の話をしたり、そんな風になれる日が来ると思ってたのに。


 お仏壇を見上げる。おばあちゃんの遺影は優しく微笑んでいる。あんな義理の娘を見て、こんなに泣いてる孫を見て、おばあちゃんは何を思うんだろう。

 引き出しが、わずかに開いていた。嫌な予感が走る。

そこには、おばあちゃんが最後にくれた「ティッシュに包まれた三千円」をしまっていたはずだった。

それはお金ではなく、私にとっておばあちゃんの形見だった。


ティッシュだけが残され、中身は消えていた。


――あの母の仕業だ。

お金に困れば、何だって厭わない人だ。

けれど、あの三千円は違う。

それは紙幣ではなく、おばあちゃんの愛そのものだった。

 

 気がつくと、私は階段を駆け降りていた。

カフェのドアが「チリン」と大きく鳴り、私が飛び出す音に翔子さんと隼、ちーちゃんが目を見張る。

その視線を振り切り、私は母を追った。

 

 商店街を駆け抜け、母の姿を探す。

「杏ちゃん、どうしたん?」

知り合いのおばちゃんの声も耳に入らない。ただ必死だった。


駅に向かって走ると、タクシーに乗り込もうとする母を見つけた。

「お母さん!」


その声に母が振り返り、目を丸くしてタクシーから降りる。

私は息を切らしながら駆け寄った。


「お仏壇の引き出しの三千円、返して!」

「は?」

「あれはおばあちゃんの形見なの! 最期にくれたお小遣いなんよ! 私にとってはお金じゃないんよ!」

声がほとんど叫びになっていた。


母は呆れたように笑った。

「あんたって、本当変わってる……。ねえ、なんで私が盗んだって思うん? 同居人のあの人は疑わんのに、血の繋がった親を真っ先に疑うん?」

「そんなことするの、あんたしかおらん!」

「……あんたとは、もう分かり合えんね」

 ため息混じりに母は財布から千円札を一枚だけ取り出し、私のお腹に押しつけた。

「もう銀行やっとらんじゃろ? 今、手持ちがないんよ。タクシー代がいるけぇ、二千円はもらうね。あのね杏、お金は使わんと意味ないんよ。おばあちゃんだって、使ってほしくてくれたんじゃろ?」

「あんたはどんだけクズなん? タクシーなんてやめて、電車で帰ればええじゃろ!」

その瞬間、母の手が私の頬を打った。

 

衝撃と共に、幼いころの記憶が一気に蘇る。

機嫌が悪いと、決まって私を叩いたあの手の感触。

十六歳の私の頬にも、変わらない痛みを残していく。


今日は、ずっと忘れていたはずの嫌な記憶が次々と湧き上がってくる。


母はそのままタクシーに乗り込み、去っていった。

残されたのは、手の中の千円札だけ。


私は、ただ立ち尽くしていた。

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