第17話

2010年1月


季節は寒さを深め、新しい年が明けた。


秋から進められていた、洋裁店からブックカフェへの改装工事は、ほぼ完成に近づいていた。1月下旬のオープンを目指して、翔子さんは毎日のように走り回っていて、私も本の買い付けや棚の配置を手伝う日々が続いている。


年明けからは、東京の青木さんも大竹に滞在して、準備にも加わってくれていた。オープン後もしばらくは、お店が軌道に乗るまで一緒にいてくれるらしい。


店名は、一周回ってとてもシンプルなものになった。

「BOOKCAFE KIRISAWA」。


外観は、和竹商店街の中でもダントツで目を引くほどハイカラだ。

まるで、以前翔子さんが居た神保町のブックカフェみたいで、パリにあっても違和感がないくらい洗練されている。


看板代わりに店の上部には深い赤色のテントがついていて、ひらひらした縁に英語のシックなフォントで店名が入っている。そのテントのおかげでテラス席も作れて、ガラス張りの店内は外からでもよく見えて、入りやすさもばっちり。


ドアは温もりのある木造りで、ドアに付いている四角形の鏡仕立ての表札には、手書き風の店名が記されている。

店に入る前に、自分の姿を自然にチェックできるし、それでいてインテリアとしてもすごく映える。翔子さんのセンス、ほんとにすごい。


私がいちばん気に入っているのは、店のドアの斜め前に設置された街灯。

『千と千尋の神隠し』に出てくる千尋を銭婆の屋敷まで案内してくれるランプにそっくりなデザインで、アンティーク調の灯りが、夕暮れ時の商店街にふわっと浮かび上がる。


そのランプの下には、まるで海外の駅の標識のように、小さな四角い看板が飛び出す形でついている。

商店街を歩いている人が、遠くからでもその“飛び出し看板”を見れば、「あ、あそこがKIRISAWAなんだ」とすぐに気づけるようになっている。しかも夜になると暖かなオレンジ色に光る使用になっていて、そこもとにかくテンションの上がるおしゃれさ!

ただその看板、スペースが四角形で限られているので「BOOKCAFE KIRISAWA」とは入れられず、略して「Bk」の文字だけ。これがまた、なんとも言えず可愛い。


それを見たはっしが、

「ばり!感動!ブックカフェ!BKBヒィイイヤ!」

と最近ハマってるピン芸人の真似をしてて、私は不覚にも笑いが止まらなくなってしまった。

隼は「そんな芸人知っとるのお前くらいや」と突っ込んでたけど、知る人ぞ知るまだ活躍していない面白い芸人さんを見つけ出せるのがはっしの才能のひとつである。

それ以来、みんなで「BKB!」って言うのが私たちの流行語になっていた。


店内も大きく生まれ変わった。かつて昭和の面影が残るノスタルジックな空間だった場所は、今ではまるで海外ドラマのワンシーンのようだ。


店内に入ると正面にはカウンターが5席あり、カウンターの壁一面は本棚になっている。翔子さんと私の手持ちの本を全て並べても、スペースはかなり余るので、新しく仕入れた、ファッショナブルな洋書を何冊か飾って、カフェの雰囲気を出している。

テーブル席も5席。そして横長の寛ぎやすいソファ席も1つ用意した。

店内にもお客様が気軽に手に取れるように、何箇所か本棚を設置していて、新しく本を仕入れる予定の空いている本棚がワクワクを大きくさせる。小さな図書館が住まいのすぐ下にある。私にとってこれほどの楽園はない。


店の奥で長年使われていた、足踏み式の古いミシンも店頭にディスプレイとして飾られることになった。おばあちゃんが使っていた頃はそれがお洒落だなんて感じた事はなかったのに、この店内に置かれると、今はそのアンティークな佇まいが、店全体の雰囲気を引き締めてくれている。



寺山くんの騒動で落ち込んでたちーちゃんは、あれから少しずつ、自分を取り戻していった。

美人で、気が強くて、根は真面目。昔からモテるタイプだった彼女は、最近になって「男を忘れるには男」って思ったのか、ちょこちょこ男の子と遊ぶようになってて。


相手は、学校の男子だけじゃなくて、mixiで知り合った広島市内の大学生と宮島デート……なんて話もちらほら。ちょっとデンジャラスじゃない?って心配になるけど、まあ彼女はしっかりしてるし、小さい頃から空手もやってたし、いざって時の護身術も心得てる。

しっかし神が翔子さんに一途になって、あの神が“まとも”になったって思ったら、今度はちーちゃんがチャラくなるっていう謎の循環。


でも、ちーちゃんの話は聞いてて面白いし、ちゃんとあの失恋を乗り越えようとしてるのがわかるから、それでいいのかなって思う。



KIRISAWAのバイトは、求人を正式に出したわけじゃなかったけど、

「洋裁店がカフェになるらしいよ」という噂が商店街に広がったことで、多くの問い合わせがあった。


結果、昼間はママさんや主婦の方を5人雇うことになり、夕方から夜にかけては──

私たち親友5人組が、交代でお店に立つことになった。


親友たちと一緒に、放課後に同じ場所で働けるなんて、絶対的に楽しいし、ワクワクしかないではないか!

おばあちゃんを失った時、こんな気持ちには二度となれないと思っていたけど

人は必ず笑顔を取り戻せるのだ。

しかもおばあちゃんが最期に遺してくれたご縁によって。



その日は放課後、みんなでオープン間近のKIRISAWAに集まった。

翔子さんと青木さん、そして何気に料理の才能を持つはっしが、カウンター越しの厨房でカフェメニューの試作をしている。

神と隼は、電気まわりや床、あちこちを丁寧に磨いていて、

私とちーちゃんは、本棚のディスプレイをどうするか考えながら、あれこれ本を並び替えていた。


「フレンチトーストとガレットできたよー!」

翔子さんの声に、みんながカウンター席に集まる。


「お客様に出すやつだからね、正直な感想よろしく!」

そう言って、翔子さんが料理を一皿ずつカウンターに並べてくれる。


「うわ、おしゃれじゃん!見た目はもう合格でしょ!」とちーちゃん。


フレンチトーストは、卵液がしみしみのパンにバニラアイスとハーブが添えられていて、つい写真を撮りたくなるかわいさ。

ガレットは、こんがり焼けたクレープ生地に、ベーコンと目玉焼き。見ただけでお腹が鳴る。


まずは、ガレットから。


「……美味しすぎる!!」

私は思わず叫んでしまった。もうこれは反射でしかない。

翔子さんのごはんって、なんでこんなに全部大当たりなんだろう。


「杏ちゃん、何でも美味しいって言うから、アテにならないのよね〜」

翔子さんが笑いながら言う。


「いやでも、これマジでうまいっす」と神が口いっぱいにしながら言った。


「んー、僕的にはまだ改良の余地はあると思うな」と青木さん。

するとはっしが、


「鰹節と焼きそばとおたふくソースも足してさ、お好み焼き風にしてみるとか?広島っぽいし〜?」

とボケ半分で提案すると、


「それ、面白いかも!」と青木さんがまさかの賛成。


続いてフレンチトースト。


「うんまっっっ!!!」

またも私、叫ぶ。だって本当に美味しいんだもの。毎日食べたいくらい。


「だから杏ちゃんは信用ならんて!」

翔子さんがツッコミ、青木さんが笑って、はっしが「杏たんかわいいな〜!」と茶化す。


「トースト、しみしみで美味しい〜!アイスもいい感じ!」とちーちゃん。


「隼たんはどう?」と、はっしが聞くと──


「アイスやなくてバターにしてもええかもな。溶ける心配せんでええし。本読みながら食べる人多そうやろ?ゆっくり食べれるし」


「なるほどー!さすがだね、隼くん!」

翔子さんが感心すると、神が明らかにムッとしてて。

私とちーちゃんは顔を見合わせて、つい笑ってしまった。


「選べるようにしたらええんじゃない?人間には気分があるじゃん。寒いとか暑いとかでも、アイスがいいかバターがいいか変わるし」

と、神が急に饒舌に。


明らかに、翔子さんに褒められたくて発言しているその様子がバレバレで、

翔子さんがにこっと笑うと、神は満足そうにふふんと笑ってて──


それがまた、ちょっと面白かった。


試作品を味わい終えた私たちは、翔子さんが淹れてくれた紅茶を手に、カフェのカウンターに並んでゆっくりと談笑していた。

少しずつ夜の気配が近づいてきて、厨房の明かりが店内をやわらかく照らす。

そんな中、青木さんがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば明日、土曜日だったよね。僕、本の買い付けに行こうと思ってて、広島市内まで出る予定なんだ。もしみんなも来るなら、ワゴン車借りていこうかと思ってるんだけど」


その言葉に、ちーちゃんが即座に反応した。

「えー!行きたいっ!」

声が弾んでて、聞いている私までうれしくなった。


すると、神がニヤニヤしながら茶々を入れる。


「おいおい、mixiの男とは明日デートじゃないんか?」


「せんし!友達優先!男は裏切るけど、友情は裏切らん!」


ちーちゃんが胸を張ってそう言い放ったとき、私は思わず「なるほど……」と声が出た。


「ちょ、ちーちゃん!杏たんに変な思想布教すんなよ!?杏たんが俺を信じてくれんくなったらどーすんねん!」

はっしが肩をすくめてふざけると──


「お前、相手にされてへんくせによう言うわ」

と隼が即座にツッコミを入れる。

みんなが普通に笑っていたけれど、その口調にはほんの少しだけ棘があるようにも聞こえた。

隼にとって、はっしへの想いはたぶん、笑いにできるような軽いものじゃないのかもしれない。


神が、ふと思い出したように言った。


「今の時期なら、平和大通りのイルミネーション、まだやっとるじゃろ?去年、彼女と行ったな〜」


「“彼女の一人”とやろ」

隼がすかさず突っ込む。


「ははっ、たしかに!神ってあの頃三股野郎だったし!」

ちーちゃんも笑いながら乗っかった。


「お前ら、翔子さんの前でそういうの暴露すんな!」

神が慌てて声を上げるけれど──


翔子さんはくすっと笑って、「もう知ってたよ」とひとこと。


「……うわぁ……」

神が頭を抱えて、みんなが笑いに包まれた。


そんな和やかな空気の中、翔子さんがカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。


「広島市内に行くなら、原爆ドームも近いよね。せっかくだし、行ってみたいな。やっぱり広島に来たんだし」


「いいっすね!近いし、みんなで行きましょう!」

と神がすぐに乗ってきた。


「8月15日だっけ?原爆が落ちたのって」

翔子さんが言ったその瞬間、私はぎょっとして声を上げてしまった。


「それは終戦の日!広島に原爆が落ちたのは8月6日。長崎は9日!」


「あぁ、ごめんごめん」

翔子さんが素直に謝り、神が「そんな怒らんでええじゃん」と宥めてくる。


「ははは……広島育ちだと、平和学習はちゃんとしてるからね。日付も自然と染みついてるけど、他の地域だと“歴史の一部”みたいな感じだから、けっこう曖昧な人も多いんだよ」

と青木さんが笑いながら言った。


「僕も、広島には1年しか住んでなかったけど、それでも原爆ドームには社会見学で行ったし、千羽鶴も折ったし、いろいろ学んだよ。あれだけでもずいぶん心に残ってる。東京で出会う人たちは、ほんと知らない人多くてびっくりした。こっちじゃ常識レベルなのにね。せっかくだし、資料館も行こうか。ここでも戦争関連の書籍は揃えておきたいと思ってたし、翔子さんにもいい学びになると思うよ」


青木さんがそう提案すると、はっしが少しだけ眉をしかめた。


「……俺、あそこちょっと苦手やねん。あの空気、めっちゃ暗なるやん」


私は、その気持ちがすごくよく分かった。

私は戦争ものがとにかく苦手だ。火垂るの墓も金曜ロードショーでやってても絶対に見ないし、原爆資料館にも何度も足を運んだことはあるけど、そのたびに胸が苦しくなって、何日も引きずる。資料館にある被爆再現人形は、特に恐ろしくて苦手だ。


「……うん、私も……。あの、蝋人形のゾーンが怖いんよね……」


ちーちゃんが、すかさずツッコミを入れてくる。

「はいはい。でも、平和の大切さを学ぶためには、何回でも行っていい場所よ?むしろ、大人になってからの方が、感じるもの多いし」


その真剣な表情に、私たちはふと黙ってしまった。

たしかに、子どもの頃は“怖かった”という印象だけで終わってしまっていたけれど──


「……うん。ちーちゃんの言う通りかもしれん」

私はそう言って、手の中の紅茶をひとくちすする。


みんなで行けば、あの場所の見え方も、少し変わるかもしれない。

そして、また一歩、大人になるのかもしれない。

 ――

 土曜日の午前10時。青木さんがKIRISAWAの前に、大きなワゴン車を横付けした。

七人乗りのレンタカーに、店先に集まっていた皆が次々と乗り込む。

助手席は翔子さん、二列目に男子三人、いちばん後ろには私とちーちゃん。


わいわい騒ぎながら乗り込む感じは、なんだか修学旅行みたいで楽しい。


大竹から広島市内までは、山陽自動車道でおよそ30〜40分。

「しりとりしよ! ただし“動きながら”しりとりな!」

──意味不明なルールを叫ぶはっしが、いつものノリでゲームを仕掛ける。


マジカルバナナ、謎のBKB大喜利。

大人の翔子さんも青木さんも一緒に笑って、車内はずっと笑い声が絶えなかった。

はっしってそこに居るだけで場の空気を明るくして、本当にすごい。隼が惹かれるのもわかる。


市内に着くと、TOKYUHANDSの駐車場に車を停めて、街のジュンク堂と丸善をはしごして、本屋さんツアーがスタートした。

「好きな本、いくらでも持ってきていいよ」

そう言った青木さんは、まるで本のサンタクロースだった。


私は迷わず、小説コーナーへ。

よしもとばなな、西加奈子、瀬尾まいこ、玉木青──

大好きな作家たちの作品を、既読も未読も関係なく、とにかく手に取っていった。


ちーちゃんはというと、まずファッション誌の棚の前でたくさんの雑誌を手に取っていたけど、

「いや、うちは美容室じゃないから」

と青木さんにやんわりと止められて、不満げに唇をとがらせていた。


代わりに選んだのは、ダイエット本と、

『辛い時に読む本』──

あまりに直球なタイトルに、私は胸がギュッとする。

ちーちゃんはまだ、寺山くんのことを思い出す夜があるのかもしれない。


神は、『人間失格』とかのひねくれ者が主人公の青春小説に、恋愛のハウツー本に、『年上女性を落とす方法』。

……いや、狙いすぎてて若干引く。


はっしは、ピースの又吉のエッセイ、松本人志の『遺書』、話し方の本など、芸人寄りのセレクト。

と思いきや、なぜか細木数子の『2010年版 六星占術 木星人+編』まで手にしていた。

「お前、信じてんのか?」と隼が聞くと

「数子ねえさんから人生のヒントをいただくねん!」と真顔で言ってて、私は可笑しくてたまらなかった。


隼は、綾辻行人や宮部みゆきなど、

ミステリーを中心に静かに選び続けていた。

加えてバスケ好きの隼はもちろんスラムダンクも全巻カゴに入れていた。彼らしい選書だと思った。




翔子さんは、江國香織や山田詠美などの大人女性的な小説に加え、カフェ経営に関するノウハウ本や、海外のライフスタイル本を数冊。

あと、カフェに置いてそうな洋書の写真集も抱えていた。


「おお……みんな本気のセレクトだな」

青木さんがちょっと苦笑いしながら、選ばれた大量の本をレジに持っていく。

そしてカードで全員分を一括払い。さすがはオーナー。かっこよすぎる。


重たい紙袋は男子たちが分担して持ってくれて、

私とちーちゃんと翔子さんはその後ろをゆっくり歩く。

まるで文化祭の準備みたいで、胸の奥がじんわりあたたかくなった。



次の目的地は、原爆ドームだった。

広島市の中心に、ぽっかりと時間が止まったまま残された場所。

何度も来たことのある平和記念公園。今は静かで、ランニングする人の足音や、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。広島の人々にとって、憩いの場でもある。


けれど、その真ん中に建つ建物だけが、異質だった。


崩れた外壁。むき出しの鉄骨。今にも崩れそうな状態でそのまま残されている。

空のグラデーションが、骨組みの隙間から透けて見える。


戦争の記憶を背負ったその姿は、ひっそりと、でも確かに、圧倒的な存在感を放っていた。


七人で並んで、黙って見つめる。


「すごいね……こんなに、そのまま残されてるんだ……」


初めて訪れた翔子さんが、ぽつりとつぶやいた。


1945年8月6日、午前8時15分。

あの日の時計が止まったままの場所。


何度来ても、何度見ても、胸が締め付けられる。


「信じられんよね。この場所が、全部焼け野原だったの」

思わず口にした言葉に、みんながゆっくりと頷く。


「75年間は草木も生えないって言われてたんだって。それくらい絶望的な被害。でも……今は綺麗だね」

青木さんが、周囲の木々を見渡しながら言った。


「平和がいっちゃん大事や!!!」

はっしが、ぽんと手を打ちながら叫んだ。


「ね!資料館いこ!」

翔子さんの明るい声で、私たちは原爆資料館へと足を運んだ。



子どもの頃に見た記憶より、ずっと重たかった。


展示を追うごとに、全身に冷たいものがしみ込んでいくようだった。

爆撃直後の遺品。焼けただれた衣服。悲惨な記録写真。

ひとつひとつに、目を覆いたくなる。


その時、その場所にいたという、それだけの理由で命を奪われた人たち。

大切な人を失い、日常を壊された人たち。

私がいかに、ぬるま湯のような平和の中で生きているかを痛感する。


当たり前なんて、本当はどこにもないのに。

人はすぐに忘れてしまう。感謝よりも、もっともっとと求めてしまう。

そんな傲慢さが、胸に刺さる。


「これ……ほんまに、つらいね……」

右隣で、ちーちゃんがかすれた声で言った。


私はボロボロになった学生服の展示を見つめながら、涙がこぼれそうになる。


こんなふうに心が苦しくなるとき、ふと隼の顔が見たくなった。


左を向くと、隼も同じ展示を見つめていた。真剣な表情で。

私の視線に気づいて、そっと目を合わせる。


「ん? 大丈夫か?」

小さく言う、その声に救われる。


「うん。……隼、見たら安心する」


「は? 俺、ペットかなんかか」

笑うように言って、でもその声は優しかった。


涙がこぼれそうになった瞬間、間からハンカチが差し出された。


振り返ると、青木さんだった。


「あ、ありがとうございます」


「うん」

短く頷いた彼の笑顔は、いつも通り穏やかで紳士的だった。


はっしも、いつもの明るさは影を潜め、じっと展示を見つめながら目を赤くしていた。

翔子さんと神も、並んで「8時15分で止まった時計」を黙って見つめている。



次に進むと、最も記憶に残るゾーン──被爆再現人形の展示が現れた。

小学校の社会見学で見たときから、ずっとトラウマ級に怖かった。今でもその印象は変わらない。


「この蝋人形、近いうちに撤去されるかもしれないらしいよ」

青木さんが小さく呟いた。


「創作物だから、実物資料を中心に展示を見直そうって話と……やっぱり、怖いから。小さい子にはトラウマになることも多いらしくて」


「たしかに怖いけど……でも、悲惨さが一番伝わってくるのはこのゾーンな気がする。私は、なくなってほしくないな」

私は素直な気持ちをそのまま口にした。苦手な展示だけど、だからこそ強く記憶に残っている。


「そうだね……ちゃんと、目に焼き付けておこう」そう言って青木さんがそっと背中に手を当ててくれた。


何度来ても、やっぱり辛くなる。

でも、何度でも来るべき場所なのだ。

広島に生きる私たちにとって、この場所と向き合うことは、祈りであり、学びであり、責任なのだと思う。

そして、その責任は、過去を“忘れないこと”から始まるのだ。


資料館を出ると、空気が変わっていた。

日はすっかり暮れて、冷たい夜風が頬をなでていく。

目の前の平和大通りは、淡いイルミネーションの光に包まれていた。

おとぎ話みたいな光景だった。

思わず、小さく「きれい…」とつぶやく。


重たかった胸の奥が、少しずつほどけていく。

ふと隣を見ると、隼がポケットに手を突っ込んだまま、黙って光を見つめていた。

やわらかな光に照らされたその横顔を見ていると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


近くにいるのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。

叶うはずがない。叶う事を望んでいるかも分からない。



でももしも明日、この命が終わるとしたら。

私はきっと、この想いを隠さずに、彼に伝えるのに。


——当たり前なんて、どこにもない。

でも今はまだ、自分に「好きじゃない」と言い聞かせているだけ。


 

【注】被爆再現人形の展示は2013年に撤去されました。

現在は実物資料を中心とした展示に切り替えられています。

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