第16話

 11月に入り、空気がぐっと冷え込んできた。

もうすぐ文化祭ということもあり、学校全体がどこか浮き足立っている。

今日はバイトがお休みだったので、放課後はクラスの文化祭準備に参加した。

私たちのクラスはお化け屋敷をやる予定で、私はその看板の絵を担当することになっていた。


絵を描くのは昔から得意だった。

だからこそ「得意」かつ「好き」なことを突き詰めていった先に、本の装丁という夢が見えてきた。

美大か専門学校でデザインを学び、いずれは大好きな作家さんの本の装丁を担当して、自分の描いた表紙がきっかけでたくさんの人にその本を手に取ってもらえるような──そんな、魅力のある装丁を作れる人になりたい。


今日はちょうど、数学で赤点を取った人たちの補習があったせいか、放課後に残っている生徒は少なかった。教室には私を含めて、2〜3人だけ。

静かで集中しやすく、絵を描くにはもってこいの環境だった。


机と椅子を教室の後ろに寄せ、大きなスペースを確保して、そのまま床に座り込む。

白い画用紙を貼りつけた段ボールを広げ、鉛筆で下書きを始めた。

他のクラスメイトたちは、教室の隅でお化け屋敷用の藁人形をせっせと作っていた。


うちのクラスには、はっしとちーちゃんもいる。けれど今日は、珍しく二人とも姿がなかった。

はっしは多分補修。ちーちゃんはどこに行ったんだろう。まあ、そのうち戻ってくるはず。


私は画用紙を前に、いかにホラーっぽい雰囲気を出すかを考えながら、鉛筆を走らせる。

構図が決まり、イメージが頭に降りてきたタイミングで、教室のドアが開いた。


ふいに現れたのは、隣のクラスの隼だった。

どうやら各クラスの進捗チェックで、こっちに顔を出したらしい。


「……ほぉ〜、よう描けとんな」


そう言いながら、私のすぐそばに来て、じっと絵を覗き込む。

「ありがとう」と言いながらも私は降りてきたイメージに従って黙々と鉛筆を走らせていた。集中し始めると止まらない癖が私にはある。ゾーンに入ると呼ぶべきか。


不意に隼は「すき家に行きたい」と言いだした。

いきなりの“牛丼宣言”に、一瞬きょとんとして、見上げた。

隼のクラスは文化祭で唐揚げを出す予定で最近ずっと鶏肉ばっか考えてるから、逆に牛が食べたくなったのだろうか。


それにしても隼が自分から「行きたい」なんて言い出すのは珍しい事だ。

相当行きたかったのだろう。なんだか可愛い。

考えてみると私も牛丼の気分になってきたので

はっしやちーちゃんも戻ってきたらみんなで行こうという話になった。




結局ちーちゃんは教室に戻ってこなかった。

メールをすると、「みんなで行ってて!」と返ってきたので、ちーちゃん以外のいつものメンバー──隼、神、はっし、私の4人で、和竹商店街の近くにある「すき家」へ行くことになった。


「すき家久しぶりやな!!!杏たん、好きやで!!!!すき家よりすきやで!!!」

はっしがいつもの調子で、薄寒いギャグを叫ぶ。


「おまえな……」

隼がその横で、まるで魂が抜けたような顔で頭を抱えている。

嫉妬してて可愛い。この人は本当に、はっしのことが大好きだなと思う。


……いい加減、隼の気持ちを知っている私が

それとなく二人をいい感じにアシストすべきかもしれない。

さもなければ、はっしはこの先もずっと、私に向かって奇天烈なアピールを続けて

隼はそれを横で見ながら、嫉妬で死にそうになるんだろう。

いつか本当に隼が爆発して、この親友構造が壊れてしまうリスクだってある。


そんなことをぼんやり考えているうちに、牛丼が運ばれてきた。


わーい、久しぶりの牛丼。がっつりいこう。


みんなでもぐもぐ食べ始めた。やっぱり美味しい。間違いない。すき家最高!なんて思ってた時、ポケットの中で携帯が震えた。ちーちゃんからだった。



『ごめん。杏の家行っていい?』


短い文面だった。

いつもなら、元気な絵文字がどこかしらについてるはずなのに、今日は何もない。

──なんだか、元気がなさそう。


「そういえばさ」

神が牛丼に七味をかけながら言った。

「ちーの元カレの寺山、1年生の女子と一緒におるとこ見たで。仲良さそうにしてた。ちーとはどうなったんかな」


「それか……」


思わず、口に出ていた。

なんだか、居ても立ってもいられなくなってしまった。


私は、半分以上残っていた牛丼を男子たちの方へ差し出した。


「ごめん、誰かこれ食べて。私、行くね」

 そう言ってカバンを持って、店を出入り口に向かった。


「ん? どしたん?」

隼が少し驚いた顔で言う。


「え!? 杏たん! 間接キスってことええの〜!? 俺食べるで!!」

はっしがちゃっかり丼を引き寄せるのが見えたけれど、私は返事もせずに、すき家を飛び出した。


秋の冷たい夕方の風が、頬にふれた。

いつも強いちーちゃんが、泣いてるのかもしれない。

私は、急いで帰路を走り出した。


家に着くと、洋裁店のシャッターの前にちーちゃんが立っていた。

赤い目をして、うつむいている。


私は思わず、その肩を抱きしめた。


ちーちゃんは背が高くてスタイルもいい。

私が抱きしめたところで、包容力なんて何もないかもしれないけど──

ちーちゃんは、私の肩に顔をうずめた。


家の中に入ると、翔子さんがダイニングテーブルで書類を書いていた。

私たちの様子を見るなり、何かを察したようで、手を止めて立ち上がった。


「おかえり。……ちょっと待っとってね」

翔子さんは、静かにお湯を沸かし、ルイボスティーをいれてくれた。


私たちは、ダイニングの椅子に並んで座った。

ちーちゃんは、カップを前にしたまま、ずっと下を向いていた。


「ちーちゃん、私、席外そうか?」

翔子さんが声をかける。


「……いや、翔子さんにも聞いてほしいです」

 ちーちゃんはいつもの覇気がなかった。


「……わかった。ありがとう」

 優しく翔子さんは言って、

一度立ちかけた椅子にもう一度腰を下ろした。


ちーちゃんは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「……寺山に彼女できたって。うちさ、もう寺山のこと好きじゃないって思い込もうとしとったんよ。

友達に戻ったふりして、これからも“程よく仲良し”でおれるかなって。

それで、いつかお互いに新しい恋人できたら、“よかったね”って言い合えたらなって……。

でも結局、あいつに彼女できたって聞いて、

“あ、うち、友達になんて戻れんわ”って、確信した」


ちーちゃんは、一度も涙を拭わなかった。

ただ涙が勝手に落ちるみたいに静かに泣いていた。


「……卒業したら遠距離になるけぇって、あいつと別れたのに。結局、その一年の子とは、遠距離でもやっていこうって思ったんだなあって。……可愛くて、清楚で、私とは真逆な子。結局ああいう子が好きだっただけなんね……」


長い付き合いの中で、こんなちーちゃんの顔を見るのは、初めてだった。ちーちゃんはモテる子だった。いつも主に追いかけられる側だ。だけど、こうやって失恋をする立場に初めてなって、本当に悲しそうだった。


私は、恋愛をしたことがない。

だから、気の利いた慰めも、上手なアドバイスも言えない。

それでもちーちゃんのどうしようもない哀しみを、ただ一緒に抱えてあげたい。それだけだった。私はちーちゃんの手を、そっと握った。


「カッコ悪い……あんな男のために、泣きたくもないのに」

そう言うちーちゃんの声は、震えていた。

きっと、自分の中の「強くてしっかりした自分像」と今の自分がかけ離れていて、それが何よりも悔しいんだと思った。


「ちーちゃん。……つらいね」

翔子さんが、静かに言った。

私も、ちーちゃんも、その声に自然と目を向けた。


「私もね、前の夫と離婚したときは……今のちーちゃん以上に、ボロボロだったよ」


言葉を選びながら、翔子さんは語り出す。


「思いっきり、不倫されてさ。

相手と一緒になりたいからって、離婚届を突きつけられて――ほんとはね、ずっと前から気づいてたの。不倫してるって。でも、どうしても認めたくなかった。違うって信じたかった。矛盾だらけの言い訳とか、全部本気で信じた」


私とちーちゃんは何も言えず、黙って聞いていた。


「でも結局、捨てられて……それでも忘れられなくて。

“楽な死に方”って、検索したこともある。

“復縁の神様”がいるっていう神社にも行ったよ。

バカみたいでしょ」


苦笑しながら、翔子さんは続けた。


「それでも、何とか日々をやりすごして。

何人か彼氏もできたし、もう大丈夫って思ったタイミングで、また元夫から連絡が来て……今度は、私が“愛人”になった」

翔子さんは静かに天井を仰ぎながら言った。


ちーちゃんの涙が、静かにまたひと粒、頬を伝った。


「それはもう、彼を愛してたからじゃない。

ただ、その相手の女に負けたまま終わりたくなかっただけ。復讐だったの。……みじめで、バカみたいだよね」


翔子さんの目が、まっすぐちーちゃんに向けられる。


「ほんと、何にも得られなかった。

でも、そんなときにね。青木さんから、広島に来ないかって声をかけてもらって、環境が変わって、杏ちゃんとか、みんなと出会って。

守りたいって思える人ができて……

やっと、私も解放されたの。過去から」


翔子さんが、小さく笑った。


「だから、ちーちゃんも今はすごくつらいけど、

絶対に、また笑える日がくる。これは断言できるよ」


「それまでは、杏ちゃんと、私と……あと、あの親友くんたちも、そばにおるじゃろ?」


ちーちゃんは、唇をかみしめてうなずく。

 

「ちーちゃん。今はさ、これ以上の恋なんて出来ないとか思うかもしれないけどけ、必ずそんなのを平気で忘れられるような想定外の素敵な出来事が待ってるから。

今はきっと、何を言われても響かんかもしれんけど……

それでも、なんとかやっていこう。大丈夫よ」


翔子さんがちーちゃんの手に、そっと手を添えた。

その手のひらのぬくもりが、ちーちゃんの凍った心を、少しずつ、静かにとかしていくようだった。


 自分がボロボロになるような恋愛を経験しているふたりの姿が、とても美しく見えた。

私はきっと、臆病すぎるのだと思う。

2人がが踏み込んだような深い領域には、とてもじゃないけど、たどり着けそうにない。


私が隼に抱いているこの淡くて、ちくりとした痛みなど、2人の抱える傷に比べたら、ないも同然だ。


片想いよりもきっと、一度でも深く愛し合ったという経験。

“この人しかいない”と錯覚するほどの幸福。

その記憶こそが、人をこんなにも脆くさせるのかもしれない。

だって、一度手にした幸せを手放すことほど、苦しいことはないから。


……だとしたら、私は。

何も手に入れたくない、と思った。


今のままで、充分だ。

日々、生きるだけで精一杯の私には――

あんなふうに誰かを深く愛して、そして失うほど、強くなんてなれない。

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