第15話
行き合いの空。
夏から秋へと季節が移ろうこの時期の空気は、どこか懐かしくて、胸の奥がふっと切なくなる。けれどその分、過ごしやすくて穏やかで、四季の中でもいちばん好きかもしれない。
10月に入り、翔子さんが正式に我が家で暮らすことになった。
そこから、新しい生活がゆるやかに始まった。
翔子さんは、一階の洋裁店を、ブックカフェとして再生させるべく動き始めていた。
業者との工事の打ち合わせに始まり、置く本のセレクトやメニューの考案、バイト募集の張り出し──日々、とても忙しそうだった。
私も、おばあちゃんが亡くなってからしばらくシフトを外れていた「英吉」でのバイトを、少し落ち着いたタイミングで再開した。
ブックカフェのオープンは年明けの予定なので、それまでは今まで通り「英吉」で働くつもりでいる。
朝は翔子さんが毎日お弁当と朝ごはんを用意してくれた。
バイトがある日はまかないが出るので、夕飯は必ずではなかったけれど、家に帰ると温かい香りが漂っている──そんな生活に、私は癒やされていた。
バイトがない夜には、二人でルイボスティーを飲みながら近況を話し合った。
こんなふうに、気負わず穏やかに過ごせる大人の女性と一緒に暮らすのは、人生で初めてだった。
母は、私が10歳の頃に家を出てから、ずっと別々に暮らしている。
一緒に住んでいた頃も、じっくり話を聞いてもらった記憶はあまりない。
おばあちゃんとはたくさん会話をしてきたし、色んなことを教えてもらった。
でも、「家族」だからこそ話せなかったこともあった。
一方、翔子さんには、なぜか自然と心が開けて
とにかくなんでも話せてしまう。
気づけば敬語も抜けて、本当の姉みたいな存在になっていた。
その夜も、私たちはテーブルに湯気の立つカップを置きながら、ぽつぽつと話していた。
「店の名前、どうしようかな。“桐澤洋裁店”って、商店街でずっと愛されてきたでしょ? どこかにその名残は残したくて……たとえば、“桐澤書店”とか」
「うーん、それじゃ本屋さんと間違えられそうじゃない? もうちょっとカフェっぽくて、おしゃれなのがいいな〜」
「じゃあ、“桐澤カフェ”とか?」
「そのまんまだなぁ。桐澤って、やっぱ入れなきゃダメ?」
「だってさ、久しぶりに商店街に来た人が、“あれ、洋裁店なくなったんだ……”って思うより、“ん? 桐澤って書いてある。もしかして?”って気づけた方が、よくない?」
「あ〜……たしかに、それ聞くと“桐澤”って残したくなるね」
「でしょ? しかも“桐澤”って苗字、響きかっこよくない? なりたい苗字ランキング、絶対トップ10入りだと思う」
「じゃあ、1位は?」
「ん〜、“一ノ瀬”とか?」
「わかる!隼と結婚したら“一ノ瀬”になれるよ!」
「え〜、隼くんと結婚するのは杏でしょ?」
──その言葉に、思わず胸がどきっと跳ねた。
「なんでよ」とティーカップを手に取りつつ、なるべく平静を装って返す。
「だってさ、二人付き合ってんじゃないの? 雰囲気的に」
「はあ!? いないって言ったじゃん、彼氏」
「照れて隠してるのかと思ってた。でも二人の空気感って……特別って感じがしたから」
「違うよ。隼が好きなのは……はっし、だもん」
「え……マジ?」
翔子さんの目が、わずかに見開かれた。
言ってしまってから、自分でも驚いた。
この事実はちーちゃんにさえ言っていないのに──誰にも言うつもりなんてなかった。本人から直接聞いたわけじゃないし、それを誰かに知られるのは、隼にとってすごく嫌なことだと思うから。
翔子さんなら、偏見なく聞いてくれると、そう思えたから、私は少しだけ甘えてしまった。
「うん。あの子、はっしを見る目がちょっとだけ特別な気がするんよ。私がはっしと話してるとすっごい見てくるしさ。……自分でも気づいてないか、気づかないふりをしてるだけかもしれんけど。でも、多分本人は知られたくないことだと思うから、翔子さんの胸の中だけにしとってね?」
「もちろん。でも、全然気づかなかったな……私はてっきり、杏ちゃんのことが好きなんかと」
「私も、時々そう錯覚しそうになるくらい、あの子は優しい。でも、たぶん、あれはただの幼馴染として支えてくれてるだけなんよね。あんな風だから隼はモテるんよ。」
「てか、はっしは杏のこと大好きじゃん? ……複雑じゃない? あんたたち」
翔子さんがイタズラっぽく笑う。
私は肩をすくめながら、ぽつりと答えた。
「うーん……はっしのあの絡みが本気かどうかは分からんけど、まあ……三角関係、かもね。でもさ、私、隼とはっしがくっついたらいいなって思っとるんよ」
「……そうなん?」
「うん。二人が誰か他の人と付き合うより、一緒におってくれた方が、なんか安心する。
あの二人、恋人できたらきっとすごい一途になると思うんよ。友達なんて後回しになるだろうなって。神はチャラかったから彼女ができてもうちらと一緒に居てくれる事が多かったけど、ちーちゃんが寺山くんとラブラブの時はあんまり遊んでくれなくなったし、寂しかったもん。だから、身内でくっついてほしいっていう……勝手な理想だけど(笑)」
翔子さんは私の顔をじっと見つめ、少しだけ真面目な表情で言った。
「……なるほどね。ちょっと気持ちわかるかも」
自分勝手な願いだって、ちゃんと分かってる。
でも、そうやって優しく肯定してくれる翔子さんの言葉が、そっと胸に沁みていった。
話題を変えるように、私は切り出す。
「ねえ、翔子さんは? 神に口説かれてるでしょ?」
神は、忙しい翔子さんのために工事前の洋裁店の片付けなどを手伝いに、暇さえあれば家に来ていた。
翔子さんは、そんな彼に晩ごはんをふるまっていた。
「ははは、あれ、口説かれてんのかな? でも助かってるよ。晩ごはんだけであんなに働いてくれるんだから」
「神があんなに真剣になるなんて、面白い。あの子、今まで女の子に追いかけられるばっかで、完全に調子乗ってたから」
「そんな大した女じゃないのに」
翔子さんはそう言って、どこか寂しそうに笑った。
たぶん、神のことは年下すぎて、恋愛対象とは見てないんだろうな。
でも私はまた、どこかで願ってしまった。
──翔子さんと神が、結ばれたらいいのにって。
私は、物心ついたときからずっと、母と父の仲が悪くて、家の中には私の居場所なんてなかった。
今でこそお父さんは丸くなったけど、母親と暮らしていた頃のお父さんは、毎日イライラしていて血の気が多かったように思う。お父さんが私に当たることはなかったけど、母親に関しては、喧嘩のストレスを私にぶつけてくることが多かった。
だから、おばあちゃんと暮らすようになったとき、初めて「安心」ってものを知ったんだと思う。
朝目覚めた瞬間から怒鳴り声が聞こえない世界。皿の割れる音も、壁が叩かれる音もない穏やかな日常。
でもその安心が、永遠じゃないことも知ってしまった。おばあちゃんは、死んだ。
──今、私にとっての家族は、きっと今そばに居てくれる大切な人たち。
隼、ちーちゃん、神、はっし。そして翔子さん。
おばあちゃんがいなくなってからの私は、無意識のうちに、彼らの存在を“居場所”として見ていたのかもしれない。
でも、みんなそれぞれの人生がある。
この先、進学したり、就職したり、恋をして誰かと一緒になったり──
いずれは、今みたいに毎日顔を合わせることも、なくなっていく。
それが“当たり前”だって分かってる。
分かってるのに、願ってしまう。
ずっとずっと、永遠に一緒にいられたらいいのにって。
だから、隼とはっしがくっついてくれたら。翔子さんと神がうまくいけば──
そんな勝手な理想ばかりが浮かんでくる。
このままずっと、親友たちが私の居場所であってほしい。
そう、願ってしまうのだ。
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