第12話

 あっという間に、東京での滞在も最終日になった。

新幹線の時間までは少し余裕があったので、お父さんと一緒に東京駅近くのマクドナルドでゆっくり過ごした。


荷物はすべてお父さんが後から送ってくれることになっていて、私はいつものトートバッグひとつだけを持っている。

お父さんはコーヒーを飲み、私はシェイクをちびちびと飲みながら、窓の外をぼんやり眺めていた。


「永野さんに、迷惑かけんさんなよ」


「うん。分かっとるよ」


「まあ、大丈夫か。お前は家事もできるしな」


そう言って、お父さんは少し笑った。

そして、コーヒーをひと口飲んだあとで、ふっと真顔になって言った。


「……なんかあったら、いつでも来んさい。交通費は出すけ。東京も、杏の家じゃけえ」


──それは、ふいに降ってきた言葉だった。


いつもは、こんなふうに素直で温かい言葉をくれる人じゃない。

だからこそ、そのひと言が胸にじんと沁みた。


私はずっと、心のどこかで思っていた。

お父さんにとって私は、「忘れたい過去」の残り火のような存在なんじゃないかって。


お父さんを苦しめた母親。

その間に産まれた私。


神が、元カノとのお揃いのキーホルダーを、彼女が変わるたびにそっと捨てていたように──

私も、母との記憶を連想させる“不要なもの”なんじゃないかと、ずっとどこかで感じていた。


でも、違った。


お父さんは、ちゃんと私に居場所を残してくれていた。

東京も、帰ってきてもいい“家”だと──そう言ってくれた。


──大丈夫。

私は、ここにいていい。

そう思えた。



新幹線のホームで、大きなスーツケースを引いた翔子さんと合流した。

お父さんも、見送りのために改札の中まで一緒に来てくれていた。


「杏を、よろしくお願いいたします」

そう言って、お父さんは翔子さんに深々と頭を下げた。


「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

翔子さんがやわらかく返して、私たちの間にあった緊張を、そっと和らげてくれた。


やがて、乗車予定の新幹線がホームに滑り込んできた。


私が乗りこもうとしたとき、お父さんは無言で私の頭をポンポンと撫でた。


──泣きそうだった。

お父さんの目も、少し赤くなっていた。


翔子さんは微笑みながら先に車内へと入っていく。


「ありがとう、お父さん」


「また連絡せえよ」


「エマちゃんと菜々子さんにも、よろしくね」


「うん。……はよ行きんさい」


その言葉を背に、私は新幹線の扉をくぐった。



新幹線の車内の二人席で翔子さんと私は並んで座った。

窓側の席を翔子さんは私に座らせてくれた。


「お父さんと離れるの寂しいよね」

「はい・・・予想よりこたえました」と少し笑って私は返した。


翔子さんがいなかったら、私はもっと涙をこらえられなかったと思う。

隣に座る彼女は、何も言わなくてもそっとそばにいてくれるような、やわらかくて、全部を包み込むような空気をまとっていた。


新幹線が動き出して少しした頃、翔子さんがにこにこと言った。


「この新幹線の4時間で、杏ちゃんと仲良くなりたいな〜!」


「……はい、よろしくお願いします」


自然と笑顔になれた。


「ねえ、杏ちゃんって彼氏いるの?」


「いないです」


「え〜意外!かわいいかは絶対いると思った!じゃあ、好きな人とかは?」


「うーん……いない、かな」


そう答えながら、一瞬だけ隼の顔が浮かんだ。

けどすぐに、頭を横に振った。違う、ちがう。そういうのじゃない。そういうのにしちゃだめ。


「怪しい〜!」


「翔子さんって、彼氏いそうですよね?」


話題をそらすようにそう聞いてみると、翔子さんはあっさりと笑った。


「離婚してからは、誰もいないよー。作るなら、広島かな?これからは広島が私の拠点になるしね」


「広島に翔子さんに見合う人……おるかなぁ?」


「ふふっ、私ね、広島の人って好きなんだ。ポルノグラフィティとか吉川晃司さんとかアンガールズとか、みんな広島出身でしょ?なんかこう……いい味、出してるよね。ねえ、杏ちゃんの知り合いで、いい人いない?」


「えっ……私の知り合いっていったら、高校生か商店街のおじちゃんたちくらいですよ」


「そっかー!杏ちゃんって高校生だもんね。落ち着いてるから、つい同世代って錯覚しちゃった。いいなあ、青春。……杏ちゃんの友達って、どんな子たち?」


「親友が4人いて、その子たちとばっかり一緒にいます」


「へぇ〜。道中、まだまだ長いし……ひとりひとり、教えてよ」


新幹線はちょうど新横浜を過ぎたあたり。次の名古屋までは、地図で見るよりずっと遠い。そして名古屋から広島までは、さらに長い。でも私に“親友たちのこと”を語らせたら、それくらいの時間じゃきっと足りない。


「まずは……ちーちゃん。いちばんの親友で、幼稚園のころから、ずっと一緒なんです」


言いながら自然と微笑んでいた。ちーちゃんのことを話すときは、いつも少し心が温かくなる。


「“みんなのお母さん”みたいな存在で、すごく世話焼きで、頼れるし……仕切っちゃうタイプ。でも、お堅い優等生ってわけじゃなくて。すっごくおしゃれで、綺麗で、面白くて。メイクも服も、ぜんぶちーちゃんに教わりました。あ、そういえば……この前の生徒会選挙で圧勝して、9月からは生徒会長になるんですよ」


「え〜、ちーちゃんすごいじゃん!じゃあ、杏ちゃんと2人は“学園の美人ツートップ”って感じ?」


「いや、私はただ、ちーちゃんにくっついてるだけです」


「ふふ、で、次は?」


「2人目は……神野。みんな“神”って呼んでるんですけど、商店街の神社の息子で──おばあちゃんの葬儀も、神の神社でしてもらいました。彼も、ちーちゃんと同じく幼稚園からの仲です。ただ……女癖は、ほんっと最悪で。モテるからって、常に3人くらいと同時に付き合ってるんです。ほんと、クズですよ。でもなぜか不思議とトラブルにならなくて。……なんなんでしょうね。ずるいですよね、ああいうの」


「高校生で三股って、相当やり手だね!」


翔子さんは思いっきり笑っていた。私もつられて笑った。


「でも、友達思いで、さりげない優しさがあるんです。モテるのも……まあ、分かる気はします。でも、女癖だけはほんと、どうにかしてほしい」


「ただの寂しがり屋さんなのかもね。で、次の子は?」


「あとは、一ノ瀬隼って言う子で、クールなんですけど、すごく優しくて、何かあると、つい頼ってしまう存在で……」


少しだけ言葉を選んだ。隼のことを誰かに説明するのは、簡単なようでいて、実はとても難しい。


「この前、東京タワーで変なナンパ男に絡まれたとき……とっさに電話したのが隼だったんです。頭の回転が早いから、すぐに『銃刀法違反で捕まるよ!って叫べ』って指示してきて。え?って思ったんですけど……どうやら“銃持ってる彼氏がいる設定”で撃退しろってことだったみたいで」


「ははは!それ、リアルで見たかったー!隼くん、めっちゃ頭キレるじゃん。遠隔ナンパ撃退とか、センスありすぎ!」


翔子さんは、涙が出るほど笑ってくれた。私も、その時の隼の声を思い出して、自然と頬がゆるむ。


「ですよね。最後は……はっし。橋本っていうんですけど、翔子さんを見た瞬間、“女版はっしだ!”って、思ったんです」


「えっ、私に似てるの?」


「はい!明るくて、太陽みたいで、周りを明るくしてくれる人。でも翔子さんのほうが、もちろん落ち着いてて、大人ですけど。はっしはすぐ『もう無理、首吊る!』とか言うし(笑)。でも、どんなときも笑わせようとしてくれて、実は……たぶん、一番常識人です」


言いながら、スマホを取り出した。


「おばあちゃんが亡くなったあと、毎日、変顔の自撮りを送ってきてくれて……」


私がはっしの写真フォルダを見せると、翔子さんは吹き出した。


その中でも特にツボだったのは、私が上野動物園のパンダの写真を送ったときの返信だった。


はっしは、目のまわりをマジックで真っ黒に塗って、パンダになりきった写真を送ってきたのだ。


しかもその翌日から、マジックのインクがなかなか落ちなかったらしく、しばらくのあいだ、目のまわりがうっすら黒い自撮りが続いていく。


そのくだらなさが、またおかしくて。


翔子さんは、肩を震わせながら笑っていた。


「……いいなあ、杏ちゃん。素敵な友達がいて」


その言葉を聞いて、胸の奥に小さなあたたかい灯りがともった気がした。


──本当に、私は恵まれてる。そう、思った。


「あっ、そうだ!杏ちゃんは好きな作家さんは誰なの?読書家でしょ?」



「たくさんいます。特に、女性作家さんが好きで。よしもとばななさんとか、玉木青さんとか」


「わ〜!あたしもそのふたり大好き!」


翔子さんが急に身を乗り出して言った。


「そうそう、青木さんね、玉木青さんと知り合いらしくて。初期の幻の原稿とか、いろいろ持ってるんだよ!」


「えっ……本当ですか!?知り合いなんですか!?」


「うん。でも玉木青って年齢も性別も非公開じゃん?だから青木さんも全然詳しくは教えてくれないけどね。でも今度東京行ったとき、代々木上原のお店も行ってみて。作品全部そろえてるから」


「やばすぎます……!私、玉木青さんの本の装丁、いつか描くのが夢なんです!」


「急にテンション上がったね、かわいい〜!」


翔子さんが笑いながら言う。


「でもさ、案外叶うかもよ?青木さんのコネがあれば、あっさり繋がれるかもよ?」


「……私って、運がいいなあ……」


「ふふっ!もう叶ってるような口ぶり、うける!私、杏ちゃんみたいな子、大好きだわ」




そんな風にわたしたちは、広島までの4時間

話しっぱなしだった。

翔子さんとは不思議なほどに、波長が合った。


 ――


 広島駅に着いた。もうすっかり夕暮れ時で、日中の暑さはどこかへ。新幹線から降りると、心地良い空気が私たちを包む。


東京とは、やっぱり空気が違う。

あっちは人も音も光も多い。でも不思議と、私はあの雑踏が嫌いじゃなかった。


でも、広島に降り立った瞬間、胸の奥にすとんと何かが落ちる。


──ここに全部ある。

そんな気がした。

懐かしくて、少しだけ切なくて、それでもやっぱり「ここが私の居場所」だと感じる。


翔子さんはというと、テンションが爆上がりしていた。


「えっ!広島ってめっちゃ都会じゃん!!」


「いやいや……ここ、いちばん栄えとるとこなんで。うちの家は、ここから電車で一時間くらいかかるから、めっちゃのどかですよ」


「楽しみ〜!てか、広島焼き食べたい!!」


「……広島焼きってなんですか?」


「えっ?いやいや、あれよ、広島のお好み焼き!」


「あ〜。……じゃあ『お好み村』行きましょ」


「あーっ!なんかケンミンショーで見たかも!てかごめん、広島の人って“広島焼き”って言われるの嫌なんだよね?」


「嫌っていうか……広島焼きって、何を指してるのか分かんないって感じです。普通に、お好み焼き、なんで」


「ははっ!そっか!面白い〜!こういう文化、ちゃんと覚えなきゃだね!」


笑いながらそう言う翔子さんを見て、私はまた、楽しくなった。



お好み村でお好み焼きを食べ終える頃には、すっかり夜になっていた。


翔子さんは、初めて食べた本格的な広島のお好み焼きに感動していた。目をまるくして、「美味しいっ!!」って何度も繰り返してて、可愛かった。


私はと言えば、翔子さんとの会話で初めて、大阪風のお好み焼きが全国的には“ふつう”だって知った。

いや、こっちからしたらむしろあれこそが「大阪焼き」だろ、と思ってしまうけど。


そういえば──こっちに引っ越してくるまで大阪にいた隼は、そのあたりちゃんと知ってたのかな?なんて、ふと思った。


自分が当たり前だと思っていた“常識”なんて、もしかしたら、全然当たり前じゃないのかもしれない。



山陽本線に乗って「大竹」まで帰る。

ちょうどいい時間の電車がなくて、そのまま駅のホームで三十分待つ羽目になった。


この一週間、東京の生活にすっかり慣れてしまって、時刻表を見るという習慣が頭から抜け落ちていた。


数分のうちに何本も電車がやってくる、あの便利でせわしない環境の中にいたせいで、「ここが広島なんだ」という当たり前の感覚を、私はすっかり忘れていた。


「へぇ〜、1時間に2本しかないんだね!やっぱりこっちは車社会なんだね」

翔子さんが時刻表を見ながら言った。

「そうですね〜。大丈夫ですか?嫌になってません?」


「ははは!それくらいで嫌にならないよ。車、何買おっかな〜!杏ちゃんと親友たちも一緒に出かけるくらいの大きさがいいよね?6人乗り?ミニバンとかがいいかな〜!VOXYとか?杏ちゃん、私のことアッシーとして使ってね!」


「翔子さん、そんな大きいの運転できますか?」


「いやいや、これでも自動車学校のおじさんから“センスある”ってお墨付きもらったのよ。この歳になって免許取るなんて思ってなかったけど、なんかすごいワクワクしてる。今が人生で一番幸せかも」


翔子さんのその言葉を聞いて、私は思わず顔が綻んだ。


翔子さんにとって、大竹での生活が──

私との暮らしが──イヤイヤなんかじゃなくて、

ちゃんと望んで来てくれたものなんだって思えて、

胸の奥に、安堵のような温かいものがふわっと広がっていく。


大竹の駅を降りて、翔子さんと一緒に歩く。

私にとっては見慣れた商店街を歩きながら、翔子さんはいちいち感動していた。

「風情あるね〜!!!この商店街、まさにノスタルジーって感じで大好き!」

「いや、ただのシャッター街ですよ」


私は苦笑いをしながら言ったけれど、翔子さんは本気で楽しそうだった。


しばらく歩くと、「桐澤洋裁店」の前に着く。


「ここがうちです」

私が言うと、翔子さんはニッコリしながらお店を見上げた。


なんてことのない、普通の外装。

だけど翔子さんの目はキラキラしていて──そのまなざしが、嬉しかった。


おばあちゃんのいないこの家に帰ってくる瞬間は、考えただけでずっと怖かった。

きっと翔子さんと一緒じゃなかったら、玄関を開ける前に泣いてたと思う。

でも、今は隣に翔子さんがいる。

それだけで、心強くて──不思議と、平気だった。


裏口からも出入りできるけど(あちらが正規の玄関なのだけど)、

お店の雰囲気も知ってもらいたくて、私は表のシャッターを開けて家に入ることにした。


ガラガラガラッと懐かしい音が響く。2階からいつも聞いていた音。

おばあちゃんの仕事が終わった合図。

この音が聞こえたら、私は自分の部屋からキッチンに行って、味噌汁を温め直す。

料理本を見ながら手探りで作った夕飯を、温め直して、ダイニングテーブルに並べる。

決して美味しくできてなかったのに、おばあちゃんはいつも「上出来じゃね」って笑ってくれた。

その笑顔を思い出しただけで、胸がぎゅっとなる。


途中まで開けたシャッターをかがんでくぐるようにして中に入ると、

翔子さんは店内に置かれたミシンを見つけて、「素敵!!」と声をあげた。

その明るい声が、静まり返った店内にふわっと響いた。


店の奥の階段をのぼって、私は翔子さんを二階の住まいへ案内する。


「えっ、めっちゃ綺麗〜〜! 杏ちゃんって、もしかして綺麗好き?」

「まあ、片付けとかは好きです」

「そっか〜、あたしあんまり片付けられない女なんだよね。先に謝っとく! でも共有部分はちゃんとするから!! あっ、あと私は料理とか得意よ! そこは任せてね」

「それは助かります。私、料理はからっきしで。簡単なものしか作れないんで」

「じゃあ、ちょうどいいじゃん! 料理が得意な翔子と、掃除が得意な杏で!」


私が笑うと、翔子さんも笑って、私の頭をポンポンと撫でてくれた。

その手の温かさが、じんわりと胸に沁みた。


「おばあ様のお仏壇に、お線香あげていい?」

「もちろんです。あ〜、お花変えてあげなきゃ。……買うの忘れてた。花屋さんもう閉まってるし……ごめんね、おばあちゃん」


何日も家を空けていたし、この暑さで、仏壇のお花はすっかりからっからになっていた。

これからは私がちゃんと守っていかなきゃなのに、気が回らなかった自分が情けなかった。


「明日、一緒に買いに行こっ!」


翔子さんがそう言って、お線香を立ててくれた。

そして、静かに手を合わせるその姿を見ていたら──

胸の奥に、じんわりと温かいものが灯るのを感じた。

言葉にできないそのぬくもりが、私の中にそっと沁み込んでいく気がした。

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