第11話
翌日、青木さんから送られてきたメールに添付された地図を頼りに、私は父と一緒に神保町にあるブックカフェ「ルミエール」を訪れた。
神保町の街並みは、私にとってまるで楽園のようだった。
歴史を感じさせる古本屋、大型書店、お洒落な雑貨屋が所狭しと並んでいる。
“本の街”という情報は知っていたけれど、目の前に広がる景色は想像を遥かに超えていて、私は興奮を抑えきれず、父は少し呆れたように笑っていた。
その街の一角に、まるでパリにあるような異国情緒漂う外観のカフェがあった。そこが目的地の「ルミエール」だった。
大きな木製のドアを開けると、ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
――こんな素敵なお店が、私たちの洋裁店の跡にできるのなら、きっと幸せだ。
店内はこぢんまりとしていて、カウンター席が5つ、後ろの壁一面には本棚があり、たくさんの本が並んでいる。テーブル席は3つほど。どこを見ても絵になる空間だった。
カウンター席にはすでに青木さんが座っていた。他にもテーブルとカウンターに一組ずつ、客がいる。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに声をかけてきた女性が、永野さんだとすぐにわかった。
その明るく朗らかな雰囲気が、第一印象からにじみ出ていた。
「わざわざありがとうございます」
青木さんが立ち上がり、カウンターの椅子を引いて私たちを案内してくれる。
「初めまして、永野翔子です!」
カウンターの向こうから、にこにこと笑顔を浮かべながら永野さんが自己紹介をしてくれた。
ぱっちりとした目に、年齢より若く見える顔立ち。
とても可愛らしくて、元気いっぱいの口調がどこか“女版はっし”を思わせる人だった。
きっと気が合うだろうし、何よりこの人は信頼できる。そんな直感が働いた。
私と父も自己紹介をした。
「杏ちゃん、可愛い!」
そう言いながら、永野さんは手際よくコーヒーを淹れてくれている。
親しみやすくて、いい意味で“軽やか”な雰囲気のある人だけれど、コーヒーを淹れる手元は驚くほど丁寧で繊細だった。その所作から、彼女の人柄が伝わってくる。
「永野さんは、どうして大竹に来ようと思ったんですか?」
父が尋ねる。
「お恥ずかしい話ですが、少し前に離婚をしまして。
なんというか……全部を一からリセットできる場所が欲しかったのが、いちばんの理由です。
私はずっと東京育ちなんですけど、ずっと地方の暮らしに憧れがあって。
だから青木さんからこのお話をいただいたとき、“最高!”って思ったんです。
この歳になってから免許も取りました。AT限定ですけど(笑)」
永野さんはそう言ってから、にっこりと笑い、続けた。
「あと、杏ちゃんと一緒に暮らせるのは、私にとってはすごく嬉しいことなんです。
私、一人っ子だったから、こんな可愛い妹ができるなんて最高。
新しい土地で、そばに誰かがいてくれるっていう安心感もあるし、ね」
私にとってもこの人が一緒に暮らしてくれるのなら、
あの家で、おばあちゃんを亡くした悲しみに飲み込まれそうな時も、きっと乗り越えられる気がした。
「おばあ様が守ってこられた、大切なお店と大切なお家を……もし私に任せてもらえるのなら。よろしくお願いします」
そう締めくくった翔子さんの言葉には、押しつけがましさは一切なかった。あたたかくて、誠実で、まっすぐだった。
「私も……翔子さんと一緒に暮らしたいです」
気がつけば、そう口にしていた。
翔子さんは少し目を丸くしたあと、ふわっと泣きそうな顔で笑ってくれた。
「杏は東京に来るべきだ」とずっと主張していたお父さんも、翔子さんの人柄には疑いの余地はないと感じたようだった。
「杏が永野さんに迷惑をかけるんじゃないかって、それだけが心配なんですけど……よろしくお願いします」
そう言って、ゆっくりと頭を下げてくれた。
それを見ていた青木さんが、やわらかく笑いながら私に向かって尋ねてきた。
「杏さんは、いつ広島に帰るの?」
「来週の予定です。学校が始まるので」
「そっか。じゃあ、永野さんと一緒に帰ったらどうかな? 永野さんは有給使っていいから。一人で東京から帰るの、寂しいでしょ? 永野さんもこれからの暮らしをイメージできるだろうし」
――たしかに。
東京から帰るその瞬間は、私がずっと恐れていた時間だった。
ここ最近ずっと一緒だったお父さんと離れるのも、きっとものすごく寂しい。
そして何より、おばあちゃんのいない、あの家にひとりで帰ることを想像するだけで、胸が締めつけられる。
そんなとき、誰かがそばにいてくれるなら……それだけでどれほど心強いだろう。
「青木さんありがとう!! 私も地域の雰囲気とか見ておきたかったし、できればしばらく泊まりたい! 杏ちゃんの手助けもしたいしね」
翔子さんが笑顔で言ってくれる。
「仕方ないなぁ。永野さんがいない間は、僕が店頭に立ちますよ」
青木さんが肩をすくめて笑った。
なんだか、心がじんわりとあたたまった。
おばあちゃんが遺してくれたご縁が、今、目に見える形で繋がって
そして私を、優しく救ってくれている。
「じゃあ、メアド交換しよ! 赤外線で! 新幹線の時間とか連絡してね!」
翔子さんと携帯を向け合いながら、私は少し笑った。
――
次の日から、お父さんは仕事が始まり、朝早くに出勤していった。
菜々子さんとエマちゃんはまだ入院中だから、私はひとり、お父さんたちの住む世田谷の家で過ごしていた。
午前中に一通りの家事を終えたら、せっかく東京に来たんだし!と乗り換え案内のサイトを駆使して、行ってみたかった場所を気ままに巡り歩いた。
渋谷109、上野動物園、お台場のフジテレビ。
ひとりでも案外楽しめるけど──
やっぱり親友たちと来たかったな、って、ふと思う。
だから私は、そのたびに観光地の写真を撮って、グループメールに本文なしでポンポン送っていた。
はっしは、送った写真にいちいち表情を変えた自撮りで律儀にリアクションしてくれる。
上野動物園のパンダの写真を送ったときなんて、目の周りをマジックで黒く塗ってパンダ風にした自撮りを送ってきた。
あまりのバカバカしさに、ひとりで動物園のベンチで笑い転げてしまった。
身体張りすぎだよ、はっし……。
ちーちゃんは「あたしも行きたいーーー!うらやましーーー!!」といつもどおり元気に騒いでいる。
神は相変わらず「今、デート中」とそっけなく返してきた。たぶん毎日違う女の子と。夏休みも通常運転すぎて笑えてくる。
そして隼だけは、なぜか毎回私にだけ個別で返信してくる。
「楽しそうやな。気ぃつけてな。……なんかあったら、電話してな」
そんなふうに、いつも真面目に心配してくれるのが隼らしい。
ほんと、保護者か何か?って思うくらい。
でも……そのやさしさが、私にはすごくありがたかった。
早く、みんなに会いたいなあ。そんなことを思いながら、私は東京の景色を見て歩いていた。
その日は東京タワーに行った。
初めて生で見る東京タワーは、思ったより高くて、綺麗で──
なんだか「東京に来た!」って実感が湧いてきた。
今日も写真を撮って、グループに送る。
すると待ってました!と言わんばかりに、はっしからあやとりで東京タワーを作った自撮りが届いた。
はっし、あやとりなんてできたの……? と驚いていたら、すぐに「東京タワー来ると思ってコソ練しとった!」って追撃のメッセージ。
どんだけこの自撮り送りの儀式に命かけてるのよ、って思いながらも、かわいくて、笑ってしまう。
そのまま展望デッキに登った。
東京タワーから見下ろす街並みは、まるでシルバニアファミリーみたいに小さくて整っていて、なんだか夢の中にいるみたいだった。
人も車もちっぽけに見えて、ふと、神様ってこんな感じで私たちを見てるのかな、なんて思った。
おばあちゃんも、天国からこんな風に私のこと見てるのかもしれないな──って。
そう思いながらぼんやり眺めていたら、背後から声をかけられた。
「おねえさん、ひとりですか?」
振り向くと、20代くらいの男の人が立っていた。
M字バンクでイケメン風を装っている感じ。なんとなくその顔つきがどこか不安になるような違和感があって、「あ、ちょっと怖い」と感じた。
「あー、はい」
「東京タワーに一人って珍しいね。可愛いけど、彼氏いないの?」
「あーはは……」
苦笑いでかわしても、そそくさと場所を移動しても、ついてくる。
渋谷でも何人かの人に声をかけられたけど、大抵は適当に返事して早歩きをすれば、去っていったのに──この人はしつこかった。
「この近くにさ、美味しいイタリアンあるんだけど、ご馳走したいな。どう?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
「え、ただご飯食べるだけじゃん? 冷たくない?」
なんだか、どんどん怖くなってきて。
とっさに、携帯を取り出して、隼に電話をかけた。
「……もしもし? どした?」
その声を聞いた瞬間、ふっと心が軽くなった。
「ごめん隼。ちょっと男の人がついてきてて。怖くてかけた。」
「は?今東京タワーやろ?大丈夫か?」
隼の声に一気に心配の色が入る。
「うん、、なんか逃げても追いかけてくる」
「東京やと、さすがに行けへんなあ、、、
よし、今から聞こえるようにこう言え。
「え!来てくれるん?ありがとうだいすきーーー!」って。」
「はあ?どゆこと!!」
「ええから言え!演技や!ノリやノリ!」
とてつもなく恥ずかしいけど、背に腹はかえられぬ。
「……えっ来てくれるの!?ありがとう!!だいすきぃ〜〜!!!」
できるだけ声を張って、演技っぽく叫ぶと、ナンパ男が一瞬眉をひそめた。
電話口で隼は吹き出した。
しかしながら、ナンパ男はいまだにそばを離れようとはしない。しつこい、、、
「逃げた?」
「まだおる。」
「しつこいやつやなあ。なら最終手段や。『いやいや!それは銃刀法違反で捕まるよ!』って言うてみ」
「え!?どういうこと?」
「“銃持ってる系彼氏”が今から来るって思わせたら、さすがに逃げるやろ。ええからやれ」
隼の機転の良さには感心するけど、恥ずかしすぎるし、これ大丈夫なのか?…でもやるしかない。。
「……いやいや!それは銃刀法違反で捕まるよ!」
大声で言った。ナンパ男のみならず、周りの観光客もみんな振り向いてきた。
ついにナンパ男が「え、なにそれ……やば……」って小声でつぶやいて、すごい速さでフェードアウトしていった。
電話の向こうで、隼が吹き出してた。
「やっと逃げた。」
「まじで逃げよったん? アホやん……!てか杏、女優やん!言うのうま過ぎやろ」
隼はいまだに爆笑している。
「もぉ!恥ずかしかったんじゃけ!…でも、ありがと」
「……電話してくれてよかったわ。ずっと繋いどいてええよ。まだ待ち伏せしとるかもしれんから」
その言葉に、胸がじんとした。
「うん。……ありがとう保護者さん」
「誰がお前みたいな天然女の保護者やねん。あっ電話代かかるから、俺から掛け直すわ」
そう言って隼は一度電話を切り、かけ直してくれた。そうして駅まではずっと話続けてくれた。
──遠くにいても、隼はちゃんと私を守ってくれる。
それはたぶん、おばあちゃんが遺言で残してた
「杏のこと、よろしくね」
って言葉を、彼なりに守ってくれてるんだと思う。責任感の塊みたいな人だから。
でも、そんな彼の声が、やけに優しくて、頼もしくて。
不覚にも、胸がきゅっとなった。
──だめだめ。隼を好きになったら、絶対つらい。
叶わないってわかってる。
でも、怖いとき、不安な時、誰よりも最初に思い浮かぶのは……いつも隼だった。
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