第10話
いよいよ菜々子さんに前駆陣痛が来たらしくて、お父さんは東京に戻ることになった。
「まだ夏休みじゃし、妹が産まれるんじゃけぇ、せっかくじゃし一緒に東京来んさい」
そう言われた。
たしかに、東京には一度も行ったことがなかったし、このままこの家に一人で残るのはつらすぎた。
おばあちゃんのいない家は、まるで魂が抜けたみたいで、あたし一人じゃ到底抱えきれそうになかった。
だから、私は素直に「うん」とうなずいた。
それに、永野さんとも一度、顔を合わせておいたほうが良いとのことだった。
もし少しでも違和感があれば、そのまま東京で暮らせばいい――お父さんは、そう言ってくれた。
たしかに、それがいちばん自然な流れなのかもしれない。
あたしはお父さんと一緒に、新幹線ののぞみに乗って東京へ向かった。
おばあちゃんの遺骨も、一緒に連れて行くことにした。
「東京、行ったことないけぇ、一緒に行こうや」
そう言ったら、お父さんはちょっと笑って、「それなら小さい箱にせんと、大変なことになるぞ」って返してきた。
さすがに大きな骨壺を持ち歩くのは現実的じゃなかったから、あたしが小さい頃から宝物を入れていた、アンティーク調の小箱に、遺骨の一部を分けてもらった。
その箱は、おばあちゃんが昔くれた、大切な箱だった。
その中に、ほんの少しだけのおばあちゃんを入れて――
***
東京に向かう新幹線
東京に向かう新幹線。私は窓際の席に座らせてもらった。
父と新幹線に乗るなんて、いつぶりだろう。おそらく、まだ私が小さかった頃、母も一緒に三人で福岡旅行に行ったとき以来だと思う。
当時から仲の良い家族ではなかったけど、でも、あのときの記憶はいまだに残っている。
その頃の私は、新幹線と普通の電車の違いすら分かっていなかった。
車内には新幹線特有の清潔感ある香りが漂い、静かで心地いい。
窓の外には、のどかな風景がすごい速さで流れていく。
気づけば、私はうとうとしていた。ここしばらくまともに眠れていなかったから、いつの間にか深く眠っていたらしい。
「おい、富士山見えるで」
父の声に目を覚ますと、慌てて窓の外を見た。
そこには、くっきりとそびえる富士山があった。
生で見るのは、これが初めてだった。
ほかの山々とはまるで違う、圧倒的な存在感。
その姿を目にした瞬間、何かが変わった気がした。
私はこれまで、「見たことのないもの」をどこか他人事のように思っていた。
富士山も、ハワイも、北海道も、沖縄も。そして、今向かっている東京さえも。
それに――人の“死”でさえも。
けれど、こうして一つずつ、自分の目で確かめていくうちに、
世界は少しずつ現実味を帯びて、自分の中に広がっていく。
それは、わくわくすることでもあり、ちょっとだけ怖いことでもあった。
私は富士山の写真を撮って、メールの画面を開いた。
すると、はっしから自撮りが届いていた。しかも、いつものメンバー全員に向けた一斉送信で。
おばあちゃんが亡くなってから、はっしは毎日、自撮りを送ってきてくれている。
きっと、私を元気づけようとしているのだと思う。彼なりの優しさだ。
今日の写真は、サングラスをかけてキメ顔。思わず吹き出してしまった。
ちーちゃんは「はっしの自撮りシリーズ、いつまで続くん?まあ、おもろいからええけど」
神は「よっ、イケメン!」と茶化していた。
隼は何も反応していなかったけれど、きっと画面越しにニヤけているはず。
私は富士山の写真を添えて、グループに返信した。
すぐに反応が返ってくる。
ちーちゃんは「え!富士山?新幹線?やっぱ杏はお父さんと東京で暮らすん?」と泣きの絵文字付きで心配してくれたし、
はっしは「うそやろ!!それは寂しすぎる!どうすればええねん!!!!」と、文字からも騒いでる様子が伝わってきた。
私は急いで返した。
「東京に住むんじゃなくて、夏休みの間ちょっと行くだけ!妹産まれるし!
あと、いずれ一緒に住むかもしれない永野さんと顔合わせする!」
それからみんなに、洋裁店のテナントのことや、青木さんから永野さんとの共同生活を提案されたことも簡単に伝えた。
地元を離れるわけじゃないと分かって、みんな少し安心したみたい。
でも同時に、
「永野さんってどんな人なん?」
「ほんまに大丈夫なん?」
「他人と一緒に住むって難しいで?」
「確認やけど永野さんは女性よな?じゃないと俺首吊るわ!」
と、心配(?)の声も飛び交った。(主にはっしとちーちゃん)
正直、不安がないといえば嘘になる。
でも、青木さんの話を聞く限り、たぶん大丈夫なはずだ。
とにかく、まずは会ってみてから。
もし合わないと感じたら、そのときはまた別の方法を考えればいい。
そう思いながら、私はもう一度目を閉じた。窓の外では、変わりゆく景色が静かに流れていた。
名古屋を出たあたりで目が覚めた。父も眠っていたので、私はカバンから小説を取り出した。
おばあちゃんが亡くなってから、じっくり本を読む気持ちになれなかった。
悲しさと忙しさで、心が落ち着く暇がなかったのだと思う。
でも、隼があの日聞かせてくれた
「信じたいことを信じたらええ」という言葉を思い出した。
おばあちゃんはそばにいる。
そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
持ってきたのは、玉木青の新刊。
広島駅の書店で、父が買ってくれた一冊だ。
やっぱり玉木青の紡ぐ言葉には、どこかセラピー効果がある。
読むほどに心が静かに整っていくような感覚がある。
物語に出てくるエマという女の子は、強くて優しい子だった。
こんなふうになれたらいいな、と自然に思えた。
名古屋から新横浜まではとても長くて、私はその間に一気にその本を読み切った。
もしかしたら、玉木青も東京に住んでいるのかもしれない。
そう思うと、東京での生活にもちょっぴりワクワクしてくる。
……なんとも私は、優柔不断だなと思う。
まあいい。少しの間、東京を楽しんでみて、それからまた考えればいい。
「間もなく東京」というアナウンスが流れて、
到着を告げるメロディが始まったとき、父が目を覚ました。
窓の外には、見たことのない高層ビル群が広がっていた。
The都会。現代的で、どこかきらびやかで、でも少しだけよそよそしい。
父が携帯を見つめながら、ぽつりと言った。
「……産まれたらしい」
菜々子さんからの連絡だったらしい。
父の顔には安堵と、少しの寂しさが浮かんでいた。
きっと、立ち会いたかったのだと思う。
「立ち会い、間に合わんかったね」
「無事に元気に産まれてくれたけえ、ええんよ。立ち会いなら、杏のときにできたしな」
「お父さん、立ち会ったん?」
「うん。ちょうど病院に着いたときに杏が出てきた。感動したわ。わしも若かったし……よう泣いた」
「ははは、想像がつかん」
自分が生まれたときのことなんて、もちろん記憶にあるはずもない。
でも、両親がまだ仲のよかった頃が確かに存在していたのだと思うと、少し泣きそうになった。
その頃、こんなふうに家族3人がバラバラになるなんて誰も思ってなかっただろう。
☆
東京駅に到着して
東京駅に降りると、人の多さに圧倒された。
路線の多さ、駅の広さ――何もかもが想像以上だった。
父は東京に慣れているから、さっさと歩いていく。
私はスーツケースを引きずりながら、必死についていった。
駅構内をしばらく歩いていたはずなのに、気づけば「二重橋前」という駅にいた。
どうやら地下通路を進むうちに、別の路線の駅と繋がっていたらしい。
地元の山陽本線では、一駅ごとの距離が途方もなく遠い。
でも都会では、少し歩くだけで違う駅に着く。
カルチャーショックというか何というか、私の知らないことは、まだまだあるなと思った。
何度か乗り換えをして、「成城学園前」という駅に着いた。
東京駅とは打って変わって、落ち着いた雰囲気。けれど、洗練された都会の空気もある。
父によると、この地域にはお金持ちが多く、芸能人も多く住んでいるらしい。
駅から少し歩いたところに、産婦人科があった。
近代的なデザインの建物で、病院というより美術館のようだった。
中に入ると、清潔感ある空気と、独特の消毒の匂い。
でも、どこを見ても洗練されていて、ちょっとおしゃれすぎるくらいだった。
病室に行くと、菜々子さんがベッドに腰かけていて、
その横のキャスター付きの小さなベッドには、たった数時間前にこの世に生を受けた妹が寝ていた。
新生児を見るのは初めてで、そのあまりの小ささと可愛さに感動した。
そっと指で頬を触ると、微かに口角が上がった。
この子の人生が明るく幸せに満ちたものであって欲しいと思った。
菜々子さんと父が、いつまでも穏やかに仲良く暮らしてくれますように。
もしそれが難しいなら、私がこの子の居場所になれたら――そう願った。
「杏ちゃん、この子の名前、何がいいと思う?」
菜々子さんが、ふいに尋ねた。
「うちらもいろいろ考えたんじゃけど、なかなか決まらんくて。
杏ちゃんはセンスがええけん、杏ちゃんに決めてもらおうかと思って」
まさか私にこんな大役が回ってくるとは思わなかったけど、
さっきの新幹線の中で実はずっと考えていた。
「エマ」
「えま……?」
「さっき読んだ小説の主人公の名前だけど、めっちゃ素敵な女の子だったんよ。
ちゃんと意味もあるよ。フランス語で“宇宙”とか“普遍”って意味もあるし、
ヘブライ語では“大いなる母”とか“包み込む存在”って意味もあるらしい。
エマ・ワトソンも可愛いしね。この子の顔にも似合うと思う」
菜々子さんと父が顔を見合わせて笑った。
「いいね!エマ。桐澤エマにしよう」
菜々子さんがそう言った。
病室の窓から、ふわりと風が吹いて、白いカーテンが揺れた。
おばあちゃんが、傍で笑ってくれているような気がした。
この夏、私はおばあちゃんの死と、妹の誕生を経験した。
悲しくて、でも優しい夏だった。
きっとこの先、夏が来るたびに、今日のことを思い出すのだろう。
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