第3話

2009年6月

あっという間に高校2年生になった。


私は学校に通いながら、洋裁店でおばあちゃんの手伝いをして、夜は近所の小料理屋「英吉」でアルバイトもしていた。


お父さんに新しい家族ができた今、学費のことはなるべく自分でなんとかしたい。

少しずつでも貯めて、学費の足しにするつもりだ。


おばあちゃんは「無理しなさんな」と心配するけど、私は全然、無理なんかしてない。おばあちゃんと並んで働くのは楽しいし、英吉での接客も面白い。自分が社会の一部になりながらも、お金も貯められるのは嬉しい。それに少し忙しいくらいが私にはちょうどよかった。

毎日が、静かに、でも確かに、充実していた。


──そんなある日のことだった。


6月の梅雨の合間の、曇り空の日。

担任の先生が、廊下で私を呼び止めた。


「桐澤さん……!ちょっと、すぐ職員室に来て」


先生の顔が、明らかにただごとじゃなかった。

私は思わず背筋が伸びた。

まさか、数学の点数やばかった?


でもそれならまだよかった。


「お祖母様が……倒れたそうです。今、救急で病院に運ばれたって。早退して大丈夫だから、すぐ行ってあげて」


一瞬、頭が真っ白になった。

“倒れた”──その言葉だけが、脳内をリフレインする。

今朝まで、あんなに元気だったのに。

ついさっきまで、店の前を箒で履きながら「いってらっしゃい」て言ってたのに。あの背中も声も全て思い出せる。

喉が詰まって、うまく声が出なかった。

教室に戻って急いで荷物をまとめて、私は走るように学校を出た。


病院に着いたとき、足が震えていた。

エレベーターのボタンを押す手も、ずっと汗ばんでいた。


病室のドアを開けると、

そこには思ったよりもずっと元気そうなおばあちゃんが、ベッドにもたれかかっていた。


「……ばあちゃん……!」


私の顔を見て、おばあちゃんが申し訳なさそうに笑った。


「あらあら、杏。ごめんねぇ、お騒がせして。」


「……はぁあ……よかった……元気そうで……」


どっと涙が出そうになって、私は思わず腰から崩れそうになった。

安心って、こんなに体を弱くするんだ。


「死んだかと思ったん?」

おばあちゃんはいつもの調子で、イタズラに笑う。全くこちらがどれだけ心配したか、呆れてしまうけど、今はそれがとても愛おしい。


「まだまだじゃけ。おばあちゃんはあんたの子供見るまでは死ねんよ」


その言葉が、胸の奥にじんわり沁みた。

笑ってるのに、なぜか目が潤むのはなぜだろう。


「杏ちゃん!ごめんね、学校に連絡したの、あたしなんよ!」

慌ただしく病室に入ってきたのは、洋裁店の向かいで豆腐屋を営んでいる、しずえさんだった。


「しずえさん……ありがとうございます!」


「心配させたかもしれんけどね。でも杏ちゃんにはちゃんと知らせんとって思って、学校に連絡したんよ。」


「しずえさんがね、私を見つけてくれたんよ。ミシンの前で倒れとる私を。命の恩人よ」

ベッドの上のおばあちゃんが、照れくさそうに言う。


「たまたま納豆持っていこうと思って前通ったら、ぐったりしとるけぇ。もう、心臓止まるか思ったいね」

しずえさんはそう言いながら、私の肩に手を置いて優しく笑った。


そのあと、まるでタイミングを見計らっていたかのように、次々と人が病室に入ってくる。


「ばあちゃん、大丈夫って聞いたけど顔見にきたわ」

「心配したんよ、ほんまに」


花屋のおじさん、魚屋のおばちゃん、駄菓子屋の三宅さんまで。

商店街の人たちが、ぞろぞろとお見舞いにやってきた。


それはまるで、病室が一気に“商店街の支店”になったような騒がしさで、

私は思わず笑ってしまった。


おばあちゃんは、本当に地域に愛されている人だ。

店の前を通る人に誰にでも笑顔で挨拶して、困ってる人がいたら黙って助ける。

人と人を繋ぐ縫い目みたいに静かで丁寧なやさしさを、いつも背中で見せてくれる人。


私はそんなおばあちゃんを、

昔からずっと、誇りで大好きだった。


そんなふうに人が入れ替わり立ち替わり訪れたあと、

今度は見慣れた制服姿の“いつめん”が現れた。

どうやら学校が終わってそのまま来てくれたらしい。


「おばあちゃん大丈夫??」

ちーちゃんが開口一番、心配そうに顔を覗き込んだ。

ちーちゃんは小さい頃から、自分のおばあちゃんかのように懐いている。


「初めましておばあさま!!!お身体大丈夫ですか!!!」

まるで結婚の挨拶でも来たのかと思うほどの礼儀正しさと声の大きさではっしが続いた。


「あんたらも、よう来たねぇ。ちーちゃんありがとう。もしかしてあんたが、はっしかね?噂通りの子じゃねぇ」

おばあちゃんはくすくすと笑った。


「噂とは!!!?まさか杏たん!将来の旦那候補として紹介してくれたん??」


「アホか」

私はぶっきらぼうに突っ込んだ。


「まぁまぁ、おばあちゃん元気そうでよかったわ」

神がその場を和ませるように、スーパーの袋からプリンを取り出しながら言った。


「プリン買ってきたんよ!食べても平気ならみんなで食べよ!」


神も小さい頃からおばあちゃんと仲が良い。

神のことを「神」ではなく「裕介くん」と呼ぶのは、おばあちゃんだけだ。


「ありがとう。裕介くんは、最近も女遊び激しいん?」


イタズラな顔で聞くおばあちゃんに、みんな吹き出した。


そのとき、部屋の隅に立っていた隼にも、おばあちゃんが目を向けた。


「隼くん、あんたもよう来てくれたねぇ」


「……いえ。」


隼は短くそう答えて、小さく会釈した。

おばあちゃんは、隼の方にやわらかく目を向けて、ニコッと微笑んだ。

隼は少しだけ視線を逸らしながら、照れくさそうに口元をゆるめる。

そして、神から手渡されたプリンを静かに受け取った。


カチャ。

カップのフィルムを剥がす音が、病室にやわらかく重なる。


誰ともなく輪になって、おばあちゃんのベッドを囲みながら、

みんなでプリンをすくい始める。


「なんで倒れたん?どっか悪いん?」

ちーちゃんが、心配そうに身を乗り出した。


「もう歳なだけよ。ちょっと貧血が出ただけ。

でも、もうすっかり元気よ。あんたらの結婚相手と、子供を見るまでは死ねんけぇね!」

おばあちゃんは、相変わらずの調子で笑った。


「おばぁさま!!必ずや健康で元気な杏たんと僕の愛の結晶の曾孫をお見せします!!」

はっしがどこかの舞台俳優のように大声で宣言して、

案の定、みんながどっと笑い出した。

勘弁してくれ・・・


「しばらく入院することになったけぇ、洋裁店もしばらくお休みよ。

杏、あの家、あんたたちで自由に使いんさい。みんなで勉強でもしたら?」


「いいねそれ!文系は杏が見てくれるし、理系は隼が教えてくれるし!」

ちーちゃんが目を輝かせて言った。


「俺が道徳を教えられるしな!」

神が自信満々に言って、すかさず――


「三股かけとる男がよう言うわ!」

はっしが全力でツッコむ。


「うるさい!俺のは“イケメンのシェア”じゃ!」

「え、キモ」ちーちゃんがいつもの調子で引いてる。


そのやりとりに、また笑いが弾けた。


おばあちゃんはベッドの上で、みんなの顔を一人ひとり見渡しながら、ゆっくりと頷いた。


「ほんまに……ええ子たちじゃねぇ。ありがとう。

杏と、仲良うしてくれて」


その言葉に、ふと病室の空気が少しだけしんとした。

誰もが少し照れて、けれど否定するでもなく、受け取ったように小さく頷いた。


私はこの時間がずっとずっと続いて欲しいと思った。


――

 おばあちゃんはそのまましばらく入院することになった。

私は夜になって面会時間が終わってしまったので、家に帰ることにした。


病院の自動ドアから外へ出ると、暑くも寒くもない不気味なほどに心地の良い6月の夜風が何だか切なかった。

病院から商店街の家までは歩いて20分ほど。

ゆっくりゆっくり夜道を歩いていく。


おばあちゃんがいないあの家に帰るのは初めてだ。

いつだって日曜日以外は朝から晩まで洋裁店を切り盛りしていたおばあちゃんは

私が帰ってくる時間はまだお店に立っていて、「おかえりー!」と元気に迎えてくれた。

あの場所におばあちゃんがいない事を考えるだけでも、とんでもなく寂しく感じた。

おばあちゃんは無事。命に別状はない。

それだけで十分に幸せなはずなのに、どうしようもなく心細かった。


ずっと胸の奥で感じていた恐怖が、今夜は形を持って押し寄せてくる。

おばあちゃんが、いつかこの世からいなくなるという当たり前の未来。

順番通りなら、私より先に。


私はひとりになる。


母は、私を置いて出て行った。

お父さんには新しい家庭がある。


私は、一人ぼっちだ。


泣きそうになって、空を見上げた。

雲ひとつない空に、満月が冗談みたいに美しく浮かんでいた。


あまりに綺麗すぎて、かえって泣きたくなる。

天涯孤独になるかもなんて、ドラマティックに悲観的に考えたって何の意味もない。

きっとお父さんは新しい家庭が出来ても私を放っておかないし、親友たちも支えてくれる。私は一人じゃない、決して一人じゃないのに...



「――杏。」


不意に後ろから名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは隼だった。


「どうしたん?」

驚いてそう聞いた。もう何時間も前に、みんなと一緒に帰ったはずなのに。


「いや、たまたま散歩してて。」


「こんな時間に?自由だな〜」


「うるさいわ。……帰るん?」


「うん。」


「じゃあ、一緒に帰ろか。」


隼の家は、うちのすぐそばだ。

桐澤洋裁店の横の細い道を抜けた先――公園の向こうの住宅街にある。

だから帰り道が一緒になることも、わりと多い。


「今日はびっくりしたやろ」

隼の声は、いつもと変わらず低いけど静かでやさしい。


「うん・・・」私は小さく頷いた。


彼は昔から、私の歩幅に合わせてくれる。

ちーちゃんや神はせっかちで、ズンズン前を歩いていくから、私はいつもがんばって早歩きをする。

でも隼だけは、いつも隣を合わせるように歩いてくれる。

(ちなみに、はっしは……ふざけてはしゃぎすぎて、どこにいるか基本分からん。)


そんな取りとめのないことを考えていると、隼がふと足を止めて言った。


「……ばあちゃん、無事でよかったな。」


私は、小さく頷いた。


もし、こんな夜に誰にも会わずに帰っていたら、

私はたぶん、もっと泣いていたかもしれない。


「ばあちゃん喜んどったよ。みんなに会えて。」


「そっか」


「ありがとう。来てくれて。」


「全然ええけど。はっしはうるさかったなぁ」


「ばあちゃんは気に入っとった。ああいう子好きなんよ。」


「ええよなぁ。ああいうタイプは。初対面でもあんなに馴染むんやもん。俺は昔から知ってんのにあんなに喋れんし。」


隼は心底優しい目で話していた。彼がはっしに惹かれているところは、はっしの底抜けな明るさやあの人懐っこさなのかしれない。


「でもね、おばあちゃん、隼のことも褒めとったよ」


「一段と男前になったって。あとね、いちばん色々考えてくれてるのは、隼くんやねーって」


隼は一瞬きょとんとして、それから照れたように目をそらし、小さくうつむいた。


「……ばあちゃん。ちゃんと見てくれてるんやな」


その声があまりにも静かで、

私はなんだか、胸の奥がぽうっと温かくなるのを感じた。



隼が洋裁店の前まで送ってくれて、私は一人で家の中へ入った。

 

入った家は静かだった。そこかしこにおばあちゃんの気配があるのに、おばあちゃんがそこにいない此処は、まるで時間が止まっているような空間で、どうしようもなく心細くなってしまった。


息が詰まりそうだ。


退院したらすぐにまたあの日常が帰ってくるはずなのに。それでも、どうしようもなく怖い。おばあちゃんが居なくなるという現実が目の前にあるような気分になる。


気付けばまた振り返って玄関のドアを開けて、外へ出ていた。


自分の家の方向に歩いていた隼が、なぜか気配を感じたように、ふと振り返った。


「大丈夫か?」

そう言って、彼はくるっと体を返して、小走りでこっちに近づいてきた。


「うん……」


「大丈夫じゃなさそっ。公園でも行く?」


少し笑って、隼が優しく言った。

やっぱり彼は、誰よりも人の気持ちに気づける人なのだ。




すぐそばの公園のシーソーに二人で横向きに腰を下ろした。

私は少し足が浮いてて、隼はほぼ体育座りのように沈んでいた。


「ずっと心の中で恐れてたんよ。おばあちゃんがいつか死ぬこと。 」向かいにある所々錆びた小さな滑り台を見ながら私は呟いた。

 

「今日はなんか……その疑似体験したみたいで怖かった。おばあちゃんが死んだら、一人ぼっちかぁって。」


隼は何も言わずに、静かにうなずいてくれた。

二人とも少し黙って、隼が静かに口を開いた。


「友達は家族とは違うかもしれんけどさ、

何があっても、お前を一人にはさせんよ。

俺もちーちゃんも神も、はっしも」


その言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。


私は隼の横顔を見ながら、泣きそうになるのをこらえた。


――隼がもし、同性愛者じゃないなら。私を少しでも見てくれる可能性があったなら。

たぶん私は、一世一代の恋をしたのかもしれない。


それくらい、彼はいつも、

私の心のいちばん深いところを、誰よりも静かに支えてくれる。


 ほんの少し気を抜けば、

きっと簡単に好きになってしまう。

それでも、そうならない距離があるから、私はまだ立っていられる。

この綺麗な友情に恋愛を持ち込むことは、御法度だと私はちゃんと心得ていた。

 実のところ私が彼氏を作らないのは、誰も隼を越えられないからなのだと思う。小さい頃から隼ほど私を静かに理解して、支えてくれる人はいない。

 

思えば中学の頃、久しぶりに会った母親にお金を無心されて、 どうしようもなく落ち込んだことがあった。

隼は、何も言わずにそのことを察してくれて、

今日みたいに、ただ隣にいてくれた。


私がちーちゃんや神やはっしには見せられない弱さを彼には見せられるし、彼も黙って受け止めてくれる。

 

 付き合いたいとかそんな簡単な想いじゃ片付けられない。ただ、ずっとそばに居たいし、隼には誰よりも幸せになって欲しい。だからこそ、はっしと隼がうまくいけば、私は都合良く2人の親友としてそばに居れるのにって思うのだ。


彼が目を向けているのは、はっしじゃなくて、

もし普通に“他の女の子”だったら――

私は、こんなに冷静でいられなかったと思う。


それはとても不思議な感覚だ。

彼がゲイなら、私なんてはなっから相手にされないから、素直に応援できる。

でも、そうじゃなかったら、私にも可能性があるかもしれないと思うだけで、心が乱されてしまう。

 

好きな俳優さんが他の女優さんと熱愛報道されたらモヤッとするくせに、男性の俳優仲間でイチャイチャ仲良くしてるのは「尊い」とか言って許せちゃう、あの感じかもしれない。


人を想う気持ちに、男も女も関係ない。

そんなこと、ちゃんと分かってるつもりだったのに、

自分には分からない感情や嗜好だからこそ、どこか他人事みたいに受け入れてしまっている。

その都合の良さに、私は救われている。

 

 

「今日、お見舞いのあと、みんなで話しててん」

隼が不意に言った。


「お前、バイトもあるし忙しいやろ? だから交代で、おばあちゃんの様子見に行こうって」


「……優しすぎるけ」

思わず笑ってしまう。

「でも、おばあちゃん喜ぶよ。みんなのこと、本当に孫みたいに思っとるから」


「ちなみに、はっしが“杏たんが一人暮らしになるのは心配やから一緒に住む”って言い出して、ちーちゃんにしばかれてたけど」


その光景が、容易に想像できて、つい笑ってしまった。


「……なんかあったらさ」

隼がふと、言いかけて言葉を止める。


「ん?」


「……俺ん家、すぐ近所やし。呼んでくれたらすぐ行くから。いつでも、連絡して」

隼の声は優しかった。


「うん。ありがとう。めっちゃ心強い」


そう言いながら、私は思った。

――私は、一人じゃない。


そう思えるだけで、きっとこれから何があっても、大丈夫な気がした。

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