後編
「田所さんも、お住まいはこの辺りとおっしゃいましたよね」
森の目元から作り笑いのやわらかさはあっという間に消え去り、代わりに鋭い視線が私を責めるように捉える。下がった口角がほうれい線を強調して、ファンデーションの浮きがやけに目についた。
ツ、と背筋を生ぬるいものが伝う。まずい。詰まるような心拍がドッドッとからだの内側から胸を叩く。ええ、と返事をする自分の声が、鼓膜の向こう、やけに遠くに聞こえる。
なぜもっと早く疑わなかったのだ? 五十二歳の専業主婦がパートを始めるのに、こんな都心の事務所を選ぶことの違和感に、私は気がついていたというのに。
早く終わらせてしまおう。こんな母親は気味が悪い。汗ばんだ手のひらを悟られぬよう、膝の上に置き直すふりをしながらスーツの膝で何度もぬぐった。
グラスを伝う結露が、重力に従ってコースターの網目へと染み込んでいった。
「では、最後に森さんの方から不明点やご質問があれば……」
自分でも、なぜわざわざバトンを渡すような真似をしたのかわからない。面接としての体裁を保つことで、動揺などしていないと示すためか。あるいは自らに言い聞かせるためか。
カラン、コロン、空気を読まないグラスの音が、やけに大きく響いて私の神経をひりつかせる。早く。早く終わってくれ。すべてが私の思い過ごしであってくれ———
はい、小さく返事をしたのち、森は続けた。
「本日は、お時間を割いていただきありがとうございます。お尋ねしたいのですが———」
一呼吸おいて、はじめて森の手がグラスに伸びた。
「ブログ仲間の方からね、教えていただきまして。とある企業の宣伝アカウントがアップした動画に、娘の座布団によく似たデザインのコースターが写り込んでいるって」
やめてくれ、そのコースターだけは———
「こちらのコースターはどなたから譲り受けたものでしょうか?」
カラン。避けられたグラスの下から手編みのコースターが現れる。淡いピンクとアイボリーを中心に、ノスタルジックなカラーリングで編み上げられた小さなコースター。ところどころに小さな花柄が編み込まれている。
「あ、いやこれはうちの社員が」
咄嗟にコースターに手を伸ばすと、見透かしたように森がコースターを自らの手もとへ引き寄せた。
いくら手編みのコースターと言ったって、デザインもモチーフも特別奇抜なものじゃない。素人がたまたま同じ教本か何かを見て同じようなものを編んだだけ———そんな言い訳を頭の中で組み立てる。
「あなた、きっと、ご存知ないのね。今日、実物を見て確信しました。このホワイトの糸はね———普通の手芸屋では買えないのよ。何度も一緒に買いに行ったから、私にはわかる」
そう言って、丸い指先で小さな白い花を撫でてみせた。
スーツごと握り込んだ拳が震えるのを抑えられない。
ああ。ああ。やはりこの母親はすべて見抜いていたのか。見抜いた上でここへ来たのか。
「娘はね、ストーカーの被害に遭っていたって言うんです。毎日毎日、手紙が届くんだって。それもポストに直接———」
古い革のバッグから白い封筒を一通、取り出して見せる。私はその封筒にいやというほど見覚えがある。森は差出人名の面を上に、音もなく机に置いた。
「娘は、今どこに」
田所和人。
その名を人差し指で示しながら。
———あの子ったら郵便受けに手紙を溜めっぱなしで。
私は思い出していた。履歴書の文字の、既視感。
そうだ。この整ったボールペンの書き文字。
あのポストの中で見たのだ。
普段、光熱費の請求書か業者のチラシくらいしか投函されない彼女のポスト。珍しく、私信と思しき封筒が投函されていた。
水彩絵の具で描かれた花の柄がプリントされた桜色の封筒。真ん中のあたりがわずかに膨らんでいる。『ママより』———名前ではなく、ママ。母親のお茶目さが感じ取れるとともに、二人の仲の良さまでもが伝わってきて、内心舌打ちをした。
事件発覚後、あの写真を初めて目にしたときも悔しかった。私には、この二人が心の底から通じ合っている———そんなふうに見えたからだ。
はるのあざらし。そんな名前で活動していること自体、私には話してもくれなかった。
彼女の心にこれほどまでに深く踏み込める母親という絶対的な存在が、羨ましかったのだ。
「このコースターはね。あの子が、実家にいたときに編んだものなの。家の片付けをしていたら出てきて、懐かしくってね。サプライズで、あの子のアパートに送ったのよ」
一通の手紙と一枚のコースターを挟んで、私と彼女の間をぬるいエアコンの風が吹き抜ける。受け皿を失ったグラスの汗が、テーブルに水溜まりを作り始めていた。
「でもあの子は、忽然と、姿を消してしまった。このコースターを手にする前に」
「ストーカーの話を聞いたとき、もっと強く言えばよかった。実家へ帰って来なさいって。でもあの子ももう大人だから、きっと私なんかより頼れる人が周りにたくさんいるだろうって、それで……」
「地元の警察はね。成人した子供とちょっとの間、連絡が取れないくらいで騒ぎすぎだ、って。きっと、また過保護って言われちゃうと思って」
「でも、そんなの聞かずにもっと早く東京に来てあげるべきだった。ううん。ストーカーのことを話してくれたときに、迎えに来るべきだったの」
森の唇を噛む音が、私の鼓膜までダイレクトに届いた気がした。
そうか。この母親はきっと覚悟しているのだ。最悪の事態を。
「助けてって、言ってくれていたのに———」
*
篠原明日香の最期の言葉を思い出す。深夜一時を少しばかり過ぎた頃。夏の湿気をわずかに残した空気がじとりと肌を湿らせる。
ノーメイクの、ジャージ姿。片手にぶら下げたコンビニ袋。"犯人"と対峙して眼鏡の奥で見開かれた大きな瞳。
「ち、ちがうんだ。篠原さん、話をしないか」
「い、いや、いやです、近づかないで!」
慌てて立ち上がった私の足元に、花柄の封筒がパサ、と落ちる。『ママより』と書かれた面が上を向いた。彼女は目もくれず、慌ててジャージのポケットを探っている。
まさか、警察に通報するつもりか。
私が捕まったら、事務所はどうなる。小さいながらも大切に育ててきた場所だ。独身の私には唯一の居場所だった。
こんなことで人生を棒に振るなんて。女に惑わされ、誑かされ、挙句犯罪者に仕立て上げられるなどたまったものではない。
どうにかしなくては。そう思ったのが先か、彼女に飛びかかったのが先か。「ひっ…」跳ね上がった喉をコンクリートに押さえつける。反撃しようと振り上げられた細い腕はもがくうち、徐々に力を失っていった。
どうして私がこんな目に。涙を湛えた黒い瞳が絶望に沈む最中、あの封筒を映してわずかに揺れた。全身に残る力を振り絞って、それに手を伸ばす。
そして、保湿もされていない唇が、最期に掠れた声で弱々しく遺した言葉。
「———たすけて、ママ———……」
よけいに頭に血がのぼる。とっくに声を発さなくなった彼女の喉を、いつまでも締め続けた。
*
「……あの子は人から愛されるよい子でした。あの子を囲むお友達も、優しい子ばかりだったのよ。卒業式で、友達同士の記念の写真なのに、明日香ママも一緒にどうですか、なんて、声をかけてくれるような」
森の声が遠ざかって聞こえる。それなのに時計の秒針、エアコンの駆動音、オフィス前の通りを走る車のエンジン音———それらはやけに大きく鼓膜に響いた。
「一人暮らしを始めてからも、私の身を案じてくれていました。毎日毎日、メールや電話をくれていたのは娘のほうなんです」
雑音に混じって聞こえてくる森の声には、わずかに涙が滲んでいた。ああ、なんだか、やっと実感が湧いてきた。
「私に、娘を返してください。どうか、お願いします。お願いは本当に、それだけなの」
———毒親、過干渉、支配的。娘を"殺した"とまで囁かれた、悪魔のような母親。
けれど今、目の前で私に頭を垂れているのは。
悪魔なんかじゃなかったのだろう。今、私の目の前にいるのは。それは我が子の無事を切に願う、普通の母親の姿に見えた。
グラスの氷は、すっかり溶けてしまった。
彼女を何者と呼ぶべきか、わからぬまま。———私と彼女の間に、静寂だけを遺して。
短編ミステリー『ママより』 波多野ほこり@ミステリー @hatano_hokori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます