短編ミステリー『ママより』

波多野ほこり@ミステリー

前編

 この女の顔を、私はどこかで見たような。

 いや、見たはずだ。しかし、どこで?


 履歴書に目を落とす。ほぼ真っ白に近いB4の用紙には、今どき珍しい手書きのボールペン字が行儀よく並んでいる。この書き文字にもどこか既視感を覚えるのだが。


 森美和、五十二歳。経歴、専業主婦。

 名刺の扱い方も心得ていないのか、私が面接の最初に手渡した名刺は即座に彼女の財布へと仕舞われた。【所長 田所和人】の印字が泣いているようにさえ見えた。まさか自分がポイントカードのたぐいと一緒に扱われるとは思いもよらなかったろう。


 パートの事務職に応募してきた彼女は、事務員というより地元の弁当屋でおにぎりでも握っていそうなふっくらとした体型の女だった。都心のデザイン事務所の佇まいにマッチする風貌とはいえない。


 要は、どこにでもいる"オバチャン"だ。それがなぜ、こうも引っ掛かるのだ?


「長らく専業主婦をされていたとのことですが、社会復帰をお考えになったきっかけは?」


 しまった。まるで専業主婦が社会に参加していないかのように言ってしまった、

 面接の場でも発言には気をつけなければ。今時はネットに何を書かれるかわかったものじゃない。我が社もホームページや広報用のSNSアカウントを運用しているし、晒し者にされるリスクは大いにある。


 しかし森は眉ひとつしかめず、その目元にやわらかい皺を湛えたまま口を開いた。


「ええ、お恥ずかしながら、この度主人と離婚いたしまして。子どももひとり立ちしましたから、よい機会だろうと。住居も都心近くのアパートに越しまして」


 住所の欄を確認する。どうやら我が事務所・デザインオフィスタドコロの最寄り駅から四、五駅の住宅街に住んでいるようだった。


 離婚。つい先月、失恋したばかりの私には、共感めいた同情を誘う響きだった。最後の、彼女———篠原明日香の心底怯えたような目つきが忘れられなくて、情けないが今でも夢に見てしまう。


 森は、生活費や趣味の手芸に使う資金を稼ぐためにパートでの仕事を探しているとのことだった。


 わずかに汗をかいたグラスの氷がカラン、と音を立てて溶けて、つい視線がつられる。面接が始まる前に森に用意したものだ。

 

 そのとき気がついた。コースターが来客用のものでなく、私が普段から使用しているもの———というか、篠原明日香の忘れ物を勝手に使っている———をうっかり出してしまっていることに。

 篠原は、もとはうちのインターン生だった。都会の学校に通っているのに、どことなく田舎の空気を感じる学生だった。

 メイクや服装が芋っぽいとかそういうことではない。なんだろう、どこか安心感を覚えるような雰囲気を持っていた。


 このコースターも、どこか家庭の香りが漂ってきそうな親しみやすさを内包している。それがデザインとして良いのだが、面接の場にはそぐわない。

 しかし森がそれらに関心を示すようすはなく、内心胸を撫で下ろす。そうだ、このコースターが来客用か否かなどはじめてここを訪れた人間にはわかるまい。

 

「婚前は、医療事務員として働いておりました。厳密に言ったら畑違いかもしれないですけど、事務作業はまったくの未経験ではありません」


 パソコンも、趣味の手芸作品を発表する場としてブログを書いているので日常的に操作しております、と言い添えた。口元をキュッと結んでみせ、私のリアクションを伺っているようだ。


 どうしたもんかな。かゆくもないのに後頭部に指先を伸ばして、ポリポリと引っ掻く。

 だって、ブログって。パソコンが扱えるといってもせいぜい、両手でタイピングができるとかその次元の話だろう。


 近頃では、個人が運営しているブログもコンテンツとして人気があるらしい。


 今時、ネットニュースなんかでは取り上げないようなSNSでのいざこざをまとめて記事にするだけでも、じゅうぶん副業として成立するらしい。森がそういった目的でブログをやっているとは思えないけれど。


 そういえば、最近もとある事件をまとめた記事が"バズって"いたっけ。


 【はるのあざらし失踪事件】。

 一ヶ月ほど前のことだ。SNSで人気を集めていた映像クリエイター『はるのあざらし』の『つぶやき』発信が、意味深な動画の投稿を最後にぱたりと止んでしまったのだ。私は、"事件"で話題になってから彼女の名を知った。


 母親らしき人物が、泣きじゃくる我が子をあやしている。そして子が泣き止むと同時に、一瞬だけ私たちのほうを見るのだ。そして、何を言うでもなくこちらに背を向けて立ち去ってしまう。


 十秒にも満たないこの動画は、失踪疑惑が浮上してから瞬く間に拡散された。 ほとんどは彼女を心配する声だったが、一部都市伝説なんかを好む層がこぞって"考察"し始めたのだ。


 『はるのあざらしは何らかの事件に巻き込まれていて、この意味深な動画は本人によるSOSのサインではないか』などというミステリーめいた考察を述べるつぶやきが、本人の動画と同じくらいに拡散された。

 『くだらない』『どうせ売名だろ』、冷めた意見も同時にぶつかって、この騒動はまさにお祭り騒ぎの様相を呈していた。


「あ、ショートカットキーとか、エクセル…とか? そういうのも、娘が教えてくれましたので少しは出来ますよ」


 私の心を見透かしてか、慌ててアピールを追加する。その口ぶりが却って不得手を浮き彫りにしている。


 どこをどう見ても不採用なのに話を聞いてしまうのは、早口のときに少しばかり息継ぎが増える癖が篠原に似ていたからだ。


「手芸はね、娘との共通の趣味なんです。昔から編み物が得意でして。とはいっても、娘はほとんど私に付き合ってくれているだけなんですけど」


 編み物。ズキンと左胸が痛んだ。篠原も、編み物が趣味だった。ペットボトルカバーなんかも自作していた。


 ああ、なぜ彼女は私の手を離れたのだろう。


「ブログも、はじめは娘に見せたくて始めたんですよ」


 その後も、森はストッパーが外れたみたいに「娘、娘」と連発した。まるで恋人について友達に話す女子高校生のようだった。


「でもあの子、仕事がうまくいって一人暮らしを始めちゃったから。ああ、あのね、ここからすぐ近くにアパートがあるんですよ。田所さんはお住まいはこの辺りで?」


「え、ああ、まあ、はい」


 オバチャン特有の"横道"に、私は半分以上うわの空だった。独身の私には身近でなかったが、本当にこういう母親ってのはいるもんだな。


 "過保護"な母親———。


 はるのあざらしにも、そんな母親がいたらしい。事件を面白おかしく煽る記事が数字を伸ばし、味を占めたらしいブログの管理人が投下した第二報。その記事内では、はるのあざらしの高校時代の同級生を自称するアカウントが特集されていた。


 とりわけ注目を集めたのは"母親の支配"を示唆する投稿だった。


『はるのあざらしは超マザコンだった。母親の方も満更でもなくて、娘にいつもべったりだった』


 証言とともにこのアカウントは"証拠写真"を投稿した。


 『第百二回鈴ヶ丘学園高等部卒業式』———看板の前で卒業生の少女が三人、並んで写っている。おそらく友人同士だろう。


 異様なのは、そのうちの一人、はるのあざらし本人と思しき少女と、恋人のように腕を絡めて写っている中年の女性だ。


 この匿名ユーザーが言うには、この女が母親なのだそうだ。


「……今でもね、娘がはじめて編んでくれた座布団は助手席に敷いてるんですよ。ピンクとホワイトの毛糸の、お花がモチーフのやつなんですけど。

 娘は乗るたびに、ちょっとイヤがるんです。でも、『ママのお気に入りだもんね』なんて言って、いつも笑って許してくれるんですよ」


 ふと、履歴書の資格欄に視線を落とす。『普通自動車第一種運転免許取得』———取得年月は、森自身が成人した年の春だ。


『はるのあざらしは高校3年間、毎日欠かさず母親に車で送り迎えをしてもらってた。だから、クラスの子たちからはちょっとキモがられてた』


 自称同級生の証言と卒業写真は、瞬く間に拡散され"母親との共依存関係"の決定的証拠として扱われるようになった。


 毎日欠かさず、朝も夕も車で送迎。時間に自由が利く身でないと至難の業だろう。

 それがかなうのは、例えば———専業主婦、とか?


「でね。私の作った手芸作品を、ほら、あの、フリマのアプリなんかに出してみたらどうかって。在庫管理に便利だからって、娘がエクセルってやつを教えてくれたんですよ!」


 止まることを知らないオバチャントークが奇跡的にエクセルの話題に帰結したところで、私は彼女の話を静止した。


 カラン。存在を主張するように、グラスが音を立てる。


「ええ、ありがとうございます。とても娘さんを大切に想ってこられたのですね」


 志望理由とか、苦労したエピソードとか———そういう定番の質問はこちらから尋ねずとも、森が一方的にペラペラ喋ってしまったあとだった。同じ話題を蒸し返して、また無限に"娘マシンガン"を浴びるのもうんざりなので、早めに切り上げてしまうことにした。


「そうなんですが、最近連絡がなくて。ここへくる途中も娘のアパートに」


「もし採用させていただくとして、いつ頃から勤務開始できますか?」


「あの子ったら郵便受けに手紙を溜めっぱなしで」


「いつから働けますかね?」


「ええ、ええ、そうですね———まだ引っ越しの後片付けがありまして、来月、十月の一日から出られます」


 事務所の卓上カレンダーを一瞥し、そう告げる。言い終えて、口角をキュッとあげ目を細めた。


 その作り笑いに、また、記憶のシナプスがパチ、と反応を示す。


 ふつう、友達同士の記念写真に母親も写ろうなどと思うか? それも腕を組んで。あまりに異様なこの写真は、ネット上のあちらこちらで連日、話題となった。


 ———毒親。過干渉。歪んだ母子関係。娘と母の共依存。


 まさか、母親がはるのあざらしに何かしたのではないか。天塩にかけて育てた大切な娘が一人、有名になって自分から離れていくのを恐れて、どこかへ隠してしまったのではないか。

 最悪の場合、はるのあざらしはもう、パニックに狂った母親の手によって———、噂が噂を呼んで、そんなでたらめまでもが一人歩きを始めた。


 だのに、それらの単なる想像にすら妙に説得力を感じるこの笑顔。娘を心の底から愛している———それだけではないような、恋慕にも近い執着とやわらかい皺をたたえた目元———


 そうだ。思い出した。彼女をどこで見たのか。

 この作り笑い。ふっくらした体型。髪型こそ違えど、少しクセかかった白髪混じりの頭。あの写真じゃ、白髪もきれいに染まっていたか———そうだ、目の前にいる彼女は。


 バクン。目が合って、心臓が文字通り縮こまった。———どうやら彼女は、はじめから私のことしか見ていないようすだった。思わず身体が硬直する。息が喉に貼り付くのを感じる。


 ———この女は、はるのあざらしの母親、その人だ。

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